第14話

「馬鹿...が...」

 鹿芝の周囲を転がる七体の怪物のうち一体が、声を発した。

「お前ら人間...お前ら劣等種が...逃れられると思う...な」

 喉の奥から湧き出る血に溺れながら言葉を吐いて、その瞬間にありとあらゆる挙動を失い、息を止めた。

「お、終わった?」

 フィアは、両手で目を塞いだまま座り込んでいた。

「マサカネ...?」

 そのとき、鹿芝の背中に生え伸びていた赤黒い翼はその輪郭を失って、灰のような瘴気を吐き出して宙に溶け消えた。それと同時に、鹿芝の身体は前のめりに倒れ込んだ。

「そんな...」

 フィアは咄嗟に駆け寄って、うつ伏せになっている鹿芝の傍に座り込んだ。

「どうして...起きてよ...ねえ」

 繰り返し声を掛けるが、何の返事も返ってこない。

「ねえ、マサカネも...君も、そうなの...?」

 鹿芝の左手を、フィアの両手が包み込む。砂のついた冷たい指先に、フィアの指先が触れる。

「また、私を置いていくの...?私だけまた生きて、生き残って...」

 けれど、鹿芝は何の挙動を見せることなく沈黙したままだった。

「もう嫌だ...嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」

 いくら叫んだところで手の震えは、止まらない。

「もう、全てが嫌だ...」

 叫び終えると共に、頬を涙が伝う。

「誰か...パパ...ママ...」

 涙が溢れて、零れ落ちて、視界をぼやけさせて。

「誰か...誰か...」

 やがて何もかもが霞んで、見えなくなる。

「もう一度、会いたい...会いたいよ...」

 もうこの世界のどこにもいない親友の笑顔をその脳裏に、思い浮かべながら。

「ハルちゃん」


 故郷を襲った怪物は、巨大で真っ白い化け猫は、いつもの何気ない日々をその三本爪で斬り裂き、そこにあった居場所、思い出、何にも換えられない幸せを破壊し、友人を殺し、フィアから生きる希望の全てを奪った。

 目の前で、壁、床、天井全てが瓦礫へと変化する光景を見た、その瞬間に。

「ねえ...」

 フィアは、花が好きだった。家の周りにはびっしりと桃色のアルペンローゼが花弁を風に乗せて揺らしていて、色鮮やかでお気に入りの場所だった。あの時、フィアはハルとそこで会って、いつもの樹の下へ遊びに行こうとしていた時のことだった。

 フィアが助かったのは、偶然だった。瓦礫がフィアの身体に降り注がなかったのは、ただの幸運だった。

「返事をしてよ...ねえ!」

 瓦礫の下敷きになって意識を手放したハルの、毛流れの綺麗な栗色の髪が血に染まる様を見詰め、フィアは泣き叫んだ。

「フィア!大丈夫だ!ここから逃げよう!」

「安心して!私たちが一緒だから!きっと生きていけるから!」

 すぐに父親がやってきた。それに続いて母親もやってきた。二人とも、崩落するより早く家から外に出ていたお陰で助かっていた。

 これで、家族全員が揃った。けれど、フィアはここから逃げたくなかった。見捨てたくなかったから。奪われたくなかったから。諦めたくなかったから。


―—この世界で、正しく生きるために。


 友人の手を掴み、引っ張った。目の前で何が起こっているのか分からなくなるほど涙で白濁した視界の中、名前を呼びながら、何度でも力を込めた。


――そして、頬を涙が伝っていたことを自覚したと同時にフィアは、知った。


 粘り強く他者を救おうとすることは紛れの無い正義なんだと、強い使命感を持って確信していた。だが、正義を実行して何を得ようが、何を失おうが、全ては自業自得で片づけられて終わる。何かの慈愛や施しを与えられる義理だなんて、そんなものは無い。

 それが、この世界の全てを根本的に象る摂理に、弱肉強食によって支配されたこの世界の摂理に違いなかった。

「パパ...ママ...」

 不意に、粘着質な何かが足元に落ちる音が聞こえた。血と肉と骨が断たれ、散乱し、数秒も経たずに繰り広げられた両親の死。分かっていたはずだった。友人を助けるという大義名分に、時間を止める効力などない。

 時を遅く感じようが、速く感じようが、全ては無常に流れ去っていくのみなのだから。

「なんで...どうして...」

 友人を救うという正義わがままが、父を、母を、殺した。それだけだった。

「私は...」

 フィアが無意味な時間を得た代償に、父と母は死んだ。別れを告げる間も無く衣服に爪の先端が刺さり、化け物の口腔へと運びこまれて、親友も家族も何もかも初めから全て嘘だったかのように消えた。

「もう、全てが嫌だ」

 そのあとは、ただ走っていた。それ以外の記憶も、感情も何もなかった。


――その全てを思い出して不意に、涙が止まった。


「どうして、私はずっと泣いて喚いてばっかなんだろう」

 また、無意識のうちに誰かを頼ろうとしている自分に、嫌気が差した。

「どうして私は泣いているの...?何のために、私は泣くの...?怖いから?怖いから泣くの?何が怖いの?何で私は泣くの...いや、違う。怖くていいんだ。怖くていい」

 手の震えを、震え諸共包むように自分の左手で右手を抑えつけて。

「怖い。本当に怖い。泣き出したい。泣いてうずくまりたい。泣いて誰かに慰めて欲しい。泣いて自分だけの世界で、哀しみにずっと浸っていたい。泣き止むまでずっと、誰かの温もりを感じていたい」

 自分の弱さから目を背けないために。

「でも、私は生きてる。目の前で化け物が殺されたから、私はあの化け物に殺されることなくこうして今もまだ生きている。生かされている。マサカネが誰かの命を奪ってくれたから、私はまだこの世界で生きていられる。だから自分が思う正しいことをして何を得ようが何を失おうが、立ち止まっている時間なんてない。慈愛や施しなんて要らない。因果応報を望む私を裏切り続けたこの世界が、現実がどれだけ腐っていようが、私は抗い続けるだけ。自分の正義わがままを貫き通すだけ。恐怖で動けなくなるくらいなら、もう何も考えるな」

 自分の弱さを肯定して、今ここで、前に進むために。

「見捨てたくないなら奪われたくないなら諦めたくないなら正しく生きていたいのなら、もう何も、考えるな」

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