第12話

—――死まで、あと六日。


「助けて!助けて!早く起きて!」

 切迫感に満ちた泣き喚く少女の声音こわねが、鹿芝の鼓膜を殴打おうだする。

「早くしないと、食い殺される!」

 少しずつ、薄く開いた瞼の奥から差す光にぼやけた不明瞭な空間が裂かれ、覚醒していく意識の感覚が全身に広がっていく。

 一人の少女が、鹿芝の両肩を掴み、揺さぶっていた。薄い灰色の長髪に、赤い小さな花の髪飾りを付けた少女だった。背丈は鹿芝とほとんど同じくらいで、激しく恐怖し狼狽うろたえた様子だった。

「え?」

 鹿芝は思わず半身を起き上がらせ、声を漏らしていた。そこは、壁も床も脆く半壊した木造住宅の中だった。壁に張り付く窓枠の奥、絶えず降り注ぐ陽光の眩しさが、密集した豪雨のように色覚の全てを絶え間なく白く濡らしている。

 つるに巻かれた建造物、枯れた田畑、そして乾いた血に塗り上げられた赤い地面。それら全てが点々と周囲にばら撒かれていた。時折、遠くから幾重にも響く獣のような荒い呼吸音と地面を軋ませる足音が、空間を揺さぶり、肌の表面を震わせた。ここは間違いなく、昨晩と同様の廃村に違いなかった。

 そして周囲に、死極石しごくせきは見当たらない。

「あの、石知らない?黒くてちょっと紫の...」

「ねえ気が付いたなら早く助けて!助けてよ!死にたくない!死にたくないの!」

 少女は鹿芝が目を覚ましたことに気付くなり、肩に乗せていた手をワイシャツ特有の硬さのある襟首に回し、更に強く必死に揺さぶった。

「落ち...落ち着いて!まずは呼吸を整えよう!そして互いに自己紹介をしよう!あのその、とりあえず動悸どうきを抑えよう!」

 首が上下にグラグラと揺れるせいで上手く言葉を発せられないまま、全身全霊で少女をなだめた。すると、少女は僅かながらも冷静さを取り戻したのか、鹿芝の襟首から手を離し、自分の履くスカートの裾を握り締めながら深呼吸を始めた。

「じゃあ、いい?俺は、鹿芝将鐘しかしばまさかね

「私は、フィア。ごめんなさい、取り乱して」

「大丈夫だよ。フィアは、ここの住民?」

 鹿芝は、声がはっきり聞こえるように、フィアの方へ耳元を少し傾けた。

「いや、違う。私は南東の村からここに逃げてきたの。母さんと、父さんが身代わりになってまで私のことを助けてくれて...道を示してくれたのに、それなのに、どうして何もないはずのこの場所に化け物がウジャウジャ降ってきたの...もう訳わかんない!わかんない!嫌だ!もう全部が嫌だ!なんでこんなに苦しまなきゃいけないの!ただ生きていたいだけなのに!」

 声が途絶えてフィアの、鼻をすする音だけが響き出した。明らかに動揺している。冷静さを取り戻すのには、やはりまだ時間が掛かりそうだ。

 少し間をおいて、鹿芝は口を開いた。

「降ってきた、って?」

「空から、翼の生えた怪物の群れが落ちてきて、もう逃げ場がなくてどうしようもなかったところに君がいて、ここまで運び込んだの。本当に、わらにもすがる思いだった」

 フィアは目を伏せて、小声で呟くように言った。

「本当に今更だけど、ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」

 そのとき、土を踏み鳴らす音と共に咆哮が迸り、鹿芝とフィア、二人の鼓膜をふるわせた。

「おい、人間の気配がするぞ!最初に見つけたもん勝ちでいいよな!」

「馬鹿言え!戦利品は山分けだ!人間は特に貴重なんだから独り占めなんてできるわけねえだろ!」

 二体とも、同じ姿をしていた。平べったい両翼を背負う瘦せこけた骨身と、突き出た爪と嘴。頭部のうち上半分は鎌のように湾曲していて、ビー玉のような黄色く淀んだ色彩の眼球が顔の前面に一つ、両側の側面にそれぞれ二つついている。鳥類に近しい特徴を持っているが、体毛は一切生えていない。

「ど、どうしよう」

 鹿芝の背後で、フィアが声を震わせる。

「大丈夫。ここにいるってことには、まだ気づいてない...はずだよたぶん。でも、ここに留まっていたら、いつか気づかれるのは間違いない」

 鹿芝は亀裂塗れの壁面から僅かに顔を出して、様子を眺めていた。時折、視界の隅に佇む建物の影から、会話していた二体と同じ姿をした怪物が姿を現し、また別の建物の影へと消えていく。怪物たちは足音の数からして、おそらく十数匹はいるだろう。その包囲網を掻い潜り、フィアと共にこの農村を脱出するすべなどあるのだろうか。

 しかし、怪物たちに存在を勘づかれている時点で猶予は、無い。

「ひとまず、移動しよう。遮蔽物から遮蔽物へと渡っていく形で少しずつ移動して、ここから出よう...それで合ってるかは知らんけど。まあ、どうにかするしかない」

 壁面から覗いて、地形を探る。

「う...うん、分かった。でも、どこに行けば...」

 十数メートル先にある、馬小屋らしき建造物の影を指さして。

「あそこのあれ...たぶん馬小屋だと思うけど、あそこから更に奥の屋根のあるところに、焦らず駆け込む。その先に行ったところから確か、農村の外に出れるはず」

「なるほど...でもあそこは確か、大量の白い砂が山みたいに積もってて、簡単には越えられないんじゃないかな」

 大量の白い砂。針を司る襲撃者が、冒険者たちが外へ脱出できないよう針山で道を塞いでいた場所のことだろう。襲撃者が死んだと同時に、針だったものは全て砂へと置き換えられた。

 そうなれば、膨大な大きさを誇る砂山を踏み越えていかなければならない。時間は掛かるし、何より上空を飛び交っている怪物たちに気づかれる可能性が多いにある。

 だが、突破口はある。

「確かにそうかもしれないけど、翼を使えばどうにかなるかもしれない。もし気づかれたとしても、フィアが逃げられるくらいの時間は稼げるかもしれない。さあ、行こう」

「翼...?翼って、まさか...黒竜の...」

 鹿芝が駆け出して、フィアは声を発しようとしたが咄嗟にその後を追った。 鹿芝の背中をじっと見つめながら、呼気を殺して走った。

(今のところは気付かれてない、はず)

 規則的かつ慌ただしく、土砂で固められた道を打ち鳴らす足音が、心音と重なってフィアの身体中を巡っていく。

(大丈夫...だよね...?)

 息を殺しながら、肌を殴る風を全身に浴びながら走り抜ける。あと少しで馬小屋の、遮蔽物の影へと潜り込める。

 怪物に気づかれる気配は、無い。

(よし...間に合...)

 そのときだった。

「え...」

 鹿芝の身体中を、鋭い痛みが脳天から四肢の先端へと塗り潰すように迸る。

「な...んだ...」

 鼓膜が、聴覚が、現実から遠ざかって。

『竜を殺せ。竜を殺せ。竜を殺せ』

 ノイズ混じりの声が、血に塗れた夢で聞いた声が、繰り返しそう声を発する。

『竜を殺せ。俺と、俺の親友を痛めつけた竜を殺せ』

 鹿芝は両耳を抑えながら、うずくまった。

『その手で、人を殺めた罰を与えろ。その手で、人を喰った代償を払わせろ。そのために竜を殺せ。殺し尽くせ』

 全身の痛みに、動けなくなった。

「大丈夫...?どうしたの...?」

そんな焦燥に満ちたフィアの声音が遠くから、鹿芝の鼓膜を微弱に震わせた、その震えが渡った、そのとき―—


 数日前の夜。

「調律師。そう呼ばれる人々のことを、フィアは知っているね?」

 動物油の臭いが広がるランプの緩やかな灯りに照らされたテーブルを囲んで、フィアは父親と話していた。

「うん。人族と竜族が、どちらも絶滅しないように両派閥にとって中立の立場にいる、帝国の騎士団と同じくらい強い貴族家出身の術師、でしょ?人と竜の戦争が二度と起こらないように、三つの国のある大陸の中でも敵同士の種族が共存できるように、双方にとっての抑止力となっている人」

 フィアは周りの子供たちと比べて語彙が豊富だと評されることが多い。父親にとっては、それが一番の娘を自慢できるところらしい。

「良く覚えてるね。本当に、フィアは優秀な子だ。ママもきっとそう思ってるよ」

 しかし、彼女にはハル以外の友人は未だいない。その現状をフィアは内心憂いているが、父親も母親もそれを気にした素振りは見せなかった。きっと、フィアが従順な良い子だからと、そう思って安心しているからなのだろう。

「だけど厳密には、彼らの出身はこの世界の貴族家ではない。彼らの故郷は遠い遠いところにあって、こことは異なる世界の、日本という名前の国からこちらの世界へと渡ってきているんだ。だから彼らは、異界人と呼ばれる」

「世界を、渡る?どうして?」

 少し、フィアの興味をそそる話題だった。こことは異なる世界の住民という、おとぎ話でしか聞かないような話だったから。

「時空を超越した彼らには、この世界の人間では得ることのできない特殊な力が二つ、宿っているからだよ。一つは、彼らの血液や器官などの肉体の一部分に宿るとされる特異体質、各々に生じる肉体の変異によって得ることができる唯一無二の戦闘能力。そしてもう一つは、自分が殺した相手の有する特異体質全てを奪う、剝奪の権能」

 父親がそう語り終えるとともに、フィアは思案に耽る仕草を見せながら。

「殺した、相手を...?それって、じゃあ...異界人同士が殺し合って、誰か一人がこの世界にいる異界人全員の特異体質を独占する、なんてことも有り得るの...?もしそうなったら、その人を止める手段はあるの...?」

「フィアは、鋭いね」

 父親は苦笑しながら、フィアを宥めるように続きを語った。

「彼らはこの世界の平和を守る柱となる存在であり、人と竜の異種族間における抑止力でもある。それと同時に、異界人が異界人を殺めることによってその一人が複数の特異体質を一斉に発現させた場合、彼らの力は人間と呼べるものの範疇を逸脱したものとなる。それが、具現化されし終焉・code of the end、人体の構造が特異体質に迎合する形で改変されて自意識を失い、心身を象る全てが変貌し、人間そのものが異能と化す現象。万が一にもそれが生じた場合、異界人はこの世界を滅ぼす可能性そのものとなる」

「じゃあ、私たちはどうしたら...」

「大丈夫、心配は要らないよ。異界人が他人から剝奪した特異体質を発現する要因は主に、特異体質を剥奪された元の持ち主にまつわる記憶を刺激されることにある。けれど、それは起こり得ない。それが起こる未来は僕らに認知されることも無く、僕らがその未来に至る時には既に、抹消されている」

「どういう...こと?」

 父親の口ぶりに、疑問を感じた。未来を認知することすらなく、という箇所で、特に。

「彼らは皆、自らの運命をある人間によって管理されているんだ。未来も過去も、全て」

「管理って、誰が...?」

 彼らは、運命を管理されている。それをどう解釈すればいいのかも良く分からないまま、フィアは聞き返した。

「それが誰なのかまでは、僕には分からない。ただ、彼らは皆、基本的にこの世界の住人に対しては友好的な態度を取るらしい。もしかしたら今後、フィアも彼らと遭遇することもあるのかもしれない。万が一にもそうなった場合、そのときの話をしておこうと思う」

 そして、念を押すように父親は続ける。

「もしも異界人と出会ったとしても、絶対に関わってはいけない。仮に例えその人がどれほどの善人であろうとも、仮にフィアを助けてくれたのだとしても、絶対に関わってはいけないよ。彼らの運命は常に、凄惨な死へと向いているのだから。そして、彼らがそれに気づくことができる瞬間は、その死の瞬間まで訪れることはない」

 そして、少し憐れむような眼差しで窓の外を見詰めて。

「なぜなら彼らは皆、最大で二十年間もの期間に及ぶ年月の全てを、記憶を改竄されているのだから」


―—そんなことを、そんな父親と会話の内容をフィアが思い出した、そのとき。


「人間、みっけ」

 歪な輪郭を纏う巨躯から落ちた影が、フィアの全身を包み込んで、その顔面を襲う怪物の牙を熱のこもった唾液がなぞり、ドロリと土へ染みていた。

「きゃああああ!!」

 喉の奥から溢れ出る奔流にビリビリと空間が揺れる。死の淵に立っているという恐怖、それを認識した瞬間、フィアは無心に叫ぶ他なかった。やがて、悲鳴を吐き出し終えて、咄嗟とっさにつむっていた目を緩やかに開く。眼前に、怪物の姿はどこにもなかった。

 同時に、足元から鼻を突く異臭が沸き上がっていることに気付く。不意に見下ろすと、短剣らしきものに刺し貫かれた跡に塗れた怪物の残骸が、地面に横たえた嘴の隙間と身体中の乱雑な箇所から絶え間なく血流を垂れ流していた。

 その瞳に、生物としての気配は無かった。

「これ、どうなってるの?私は、どうして無事なの?」

 後ろを振り返って、答えを知った。鹿芝の背から生え伸びた両翼と、その内側から現れた短剣が括り付けられた鎖。そして彼は平然と立ち、淡々と怪物の死体を視線でなぞった。

「あなたが、やったの?」

 フィアの中に、得体の知れない恐怖が湧いた。一秒を数える間も無く、人間の数倍の体格を持つ怪物を刺し殺したという、事実。

 けれど同時に、周囲のあらゆる方面から、風を巻き上げて肌の上をなぞる荒々しい羽音。怪物たちが一斉に上空へ舞い上がり、こちらへと接近している。もはや猶予は無い。

「まずいよ!気付かれてる!早く逃げよう!ねえ!ねえって!」

 鹿芝の服の袖をフィアが引っ張るが、鹿芝は反応を示さない。

 立ったまま、呆然とした眼差しで、俯いた態勢で微動だしない。

「マサカネ走って!逃げないと死んじゃうよ!」

 何度声を掛けても、何度服の袖を引っ張っても、何も声を発しない。何の挙動も店ない。そして――

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