文学の行方と悪の華

 藤田桜さんが『古典文学とは何か』と悩んでいた。古典と言われるからには、それは後から他人が定義した物であるのだから、逆説的に現代文学を知ればその答えは自ずとわかるだろう。

 現代文学とは、ボードレール以降の文学であると言われている。客観主義の古典文学、主観主義のロマン主義、そしてそれを相対化してみせたのが現代文学と言えるだろう。

 寺山修司が、書を捨てよ町へ出よう、と言った。詩人が、言葉を用いて世に問いかけている人間が『書を捨てよ町へ出よう』と呼びかける皮肉。これこそが現代文学と呼べる態度だろうか。

 1つ言える事は、文学といえども連続した線形モデルで描けるような成長曲線を描いてはいない、ということだ。これはイノベーションモデルに近いだろう。最先端の文学は潜伏している。もしくは、ボードレールと同じく風俗壊乱の罪として、それに近い批判を受けている文章にこそ文学の先があるのかもしれない。

 声高な批判をのらりくらりと躱しながら、生き残った者の中から、今まで文学に触れて来なかった人を巻き込み扇動する誰かがそれに当たるのかもしれない。

 だから私は確信している。新しい文学とは、誰が書いたのかはさほど問題ではない。AIが書こうが人間が書こうがそれは取るに足らない問題だ。文学の先端は、誰に読まれているのかが重要だろう。どのように消費されているのか。その動態にこそ文学が隠れているのではないか、と思っている。

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