ゆめのまたゆめ
夜瀬凪
ゆめのまたゆめ
あなたがさよならを告げる。それにわたしは何と応えたのか。あなたが遠ざかっていく。唇が動いているけど、声は聞こえない。なにを言っていたの。あなたの姿が見えなくなって、大切な何かを忘れている気がして。あなたはもういない。この空間は白くて、何もない。どこまでも続いているようで、ふいに消えてしまいそうに脆い。何も聞こえない。その事実だけがある。あ、と声を出す。自分の声は聞こえる。しばらくして音が帰ってきた。ここはどこだろう。あなたはどうしてここにいたの。わたししかいない白い空間に。どうして泣きそうな顔をして、はなれていったの。わたしはどうしてここにいるの。もう何もわからない。あなたの姿が瞼の裏にうつって、ゆがんで、きえた。何もかも忘れてしまいそう。
世界が歪んで、消える。あなたはもういない。
今日は《世界が狂った日》からちょうど10年がたったらしい。でも、世界なんてそれよりずっと前から狂っていた。我々がそれを認識できていなかっただけのことで、きっと世界なんて、遥か昔、太古から狂っている。でなければ、私たちは今ここに生きてはいなかったのかもしれない。“狂っている”が故に私たちは生き続け、その生命を繋げてきたのではないだろうか。けれど、狂っているが故、生かされてきた我々は“狂っている”ことを排除したがっている。もしかするとそのことすら、“狂っている”といえるのかもしれない。我々という生き物は常に強欲だ。しかし、強欲だからこそ、強欲故“私たち”という生き物はあるのではないだろうか。つまり、“強欲である”のが私たちであり、強欲という特徴が私たちを“私たち”と名付けているのではないか?
言葉がぽつりぽつりと空間に響いては消えていく。あとには何も残らない。
昔々履いていた赤いヒールを思い出した。高さのあるエナメルの真っ赤なヒール。視界に赤いリボンがちらついた気がする。艷やかなサテンのリボン。ここにあるはずはないから幻だけど。頭の中でジャズが流れる。心地よいサックスの音色が脳を支配する。度の高い酒の匂いが鼻をかすめたような気がして、場末のバーでシャンソンを歌う女を思い出した。さようなら、世界。さようなら、つたない言葉で愛を教えてくれたひと。
真っ白な空間だけがそこにはあった。
ちょこれーと、食べたいなァ。こんなとこにいる理由とかどーでもいーけど。アイツの新作のチョコレート食べたいんだよねェ。アイツはさー凄腕のショコラティエなわけ。ほんとーに美味しくてさぁ。味の良し悪しとかそんなんわかんないけどアイツのチョコレートだけは凄さがわかるんだよね。何か幸せってこーゆーことなんだなーってそんな味。食べたらわかるよ。まー無理か。アイツみたいなやつを天才っつー言うんだろうねェ。ふつーの人間の次元にいないっていうか。えー、おまえもふつーじゃないって?まァ、そうかも。気にしたことないけど。そうするとさァ、ふつーって何かって話になンだよねェ。んーなんでもいいか。“フツー”じゃないしねぇ。あのさァ…
言葉は止まらない。どこまで続くだろう。どこまでも続くのかもしれない。
目の前には重厚な本棚がどこまでも広がっていた。どこかの図書館だろうか。いやそれにしては、壁が白い、というか壁かどうかすらわからない。とりあえず、ここには膨大な数の本があるらしい。ちゃんと手にとって読める。この場所は何処なのか。なぜ此処にいるのか。どうやったら出ることが出来るのか。ここにある本のどれかには書いてあるだろうか。それを探すにしてもその作業は絶望的すぎる。見つける前に飢え死にか何かで死ぬんじゃないだろうか。でも、そうだ、このおかしな空間から出なければいけないのだ。こんなところで死ねない。遺体も見つけてさえもらえないじゃあないか。そんなの困る。というか、まだ、あの長編小説の最終巻を読んでいない。あれを読まずして、死ねない。主人公の生死が判明していないんだ。ああ、早くここから出なければ。
どこまでも本棚が続いている。誰にも読まれることのない本たちが並んでいる。
昔、通っていた学校。そこにいた猫。やけにうるさいカラス。よく遊びに言った公園。古びたスーパー。とりとめもなく懐かしい情景ばかりが連鎖する。すぐに泡のように跡形もなく消えていき、数秒後には何を思い出していたのかさえ、わからない。友達と喧嘩したこと。恋人にフラレたこと。怒られてたばかりいた先生。もう長いこと会っていない親友。意識が浮上する直前、なにか大切なことを瞼の裏に見た気がした。そして、それから、
今日もまた何かが消えていく。
ここがどこかわからない。いつかテレビで見た、ヨーロッパの古い建物が残る港町のようにみえるけれど。おかしなことに人一人いない。足を踏み出そうとしても、なぜかぴくりとも動かない。何もできないので、仕方なく頭だけを動かして周囲を見渡す。本当にテレビで見ていたとおりだ。赤レンガの建物がずらりと並んでいる。どうやら高台のほうにいるらしくて、下の方には青い海がどこまでも続いている。空も青い。鮮やかなブーゲンビリアが咲いている。青い空と赤レンガの建物に濃いピンクがよく映えている。ぼんやりと、美しいなと思う。ずっとこの景色を見たかった気もするが、その理由は全くもって思い出せない。まあ、いいか。綺麗だし。
町に人の営みはない。波だけがざぶんざぶんと寄せては返す。
日が落ちる。逢魔が時。黄昏の中で、誰か佇んでいる。堤防の上に立ち、赤く染まった太陽に照らされている海を眺めている。何を思っているのだろう。誰なのだろう。顔は見えない。私はその人を見つめている。気づいてほしいような、そうでもないような。ただぼんやりと、その人は夕日を眺め、私はその人を眺める。何も起こらない静かな夕暮れ。世界には私たち二人しかいない、そんな錯覚に陥る。ただただ穏やかに日が暮れていく。時間が過ぎていく。真っ赤な世界は、やがて緩やかに闇へと変わっていく。
そうして、最後に闇だけが残る。星は、輝いていない。
あなたは、私にさようならと言った。悪い夢だと信じていたい。別れが終わりではないと知ってはいるけど、それでも別れは一つの終わりではあるだろう。そこから何かが始まるとしてもだ。終わりは終わりだ。どうして、その痛みに耐えられる?この深い悲しみに、どうしたら。……全部夢だったことにできたのなら。ああ、これが、夢か。なら、何をしよう。あなたにさようならを言われた私は、あなたがいない世界でどこまでいこうか。夢から醒めたら、私は変わることができるだろうか。変われると、信じている。何かが終わって、何かが始まる。さようならから始まることもあるだろう。それが痛みを伴うものだったとしても、たぶん、大丈夫。
そうして、世界は歪んで、消えて、何も残らない。夢が醒めていく。
ふわふわ漂うユメのようなナニか。まっしろなセカイ。脳裏には白いドレス、白い花束、鳴り響く鐘の音。波の音が微かに聞こえる教会。ずっと夢見ていた世界が浮かんでは消える。…このままでも、きっと、構わない。夢が夢でなくなるくらいなら。残酷なあの人。今はどこで誰と何をしているの。私の気持ちを知りながら、あの人の心はココではないどこかにある。ああ、なんて残酷なの。その残酷ささえも愛しいと思ってしまった馬鹿な私。このまま、この心ごと消えることができたら。
その夢が消えた先に何があるというの?
―セカイが消えて、ユメも消えていく。それだけ。その先は、いけばわかる。アナタだけが知る世界。
消えていっては、浮かび上がるのは誰かのゆめ。今日は、いったい誰のゆめが映し出されるだろう。
ゆめのまたゆめ 夜瀬凪 @03_nagi
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