第10話 娼館エリーゼの溜息
「はぁぁ……」
「どうしたよ、マサ。そんなにデカい溜息なんかついて」
「いや……次の仕事がちょっと憂鬱で」
掃除の途中で溜息をついたら、肉屋の主人ビアッジョさんに見られてしまった。
本当の理由は昨日もリュシーちゃんを秋祭りに誘い損ねたことなのだが、バツが悪いので次の仕事のことだと誤魔化したのだ。
それにしても、俺は職業で差別をしたりしないんだぜ、キリッ……じゃねぇよ、格好つけてねぇで誘えよ昨日の俺、アホか!
「ほう、マサが嫌がるってどんな仕事なんだ?」
「次の仕事っすか? 娼館の掃除っすよ」
「娼館だと、どこの娼館だ!」
「『エリーゼの溜息』です」
「なんだと、三軒の中でも一番高級な店じゃねぇか、それのどこが憂鬱なんだよ」
「いやいや、俺は遊びに行くんじゃないんですからね。どこのどいつが発散したか分からない代物を掃除して回るんすよ。いろいろ染みとか臭いとか、きっついんすよ」
「お、おぅ、そりゃあ憂鬱にもなるな……でもよ、依頼をこなした礼に特別サービスとかあるんじゃねぇの?」
「無いですよ、そんなの……」
実はあるのだが、それを受けてしまうと後が怖いから受けないだけだ。
「てか、嬢はいるんだろう? 誰が好みなんだ?」
「いやいや、この時間はみんな寝てますから、誰が良いとか分からないですよ」
「なんだ、マサは遊びに行かないのか?」
「行かないですよ、そんな金無いっすよ」
「嘘つけぇ、ガッチリ貯めこんでるって噂だぞ、どうだ、今度一緒に……」
ビアッジョさんは五十代のハゲたオッサンで、肉屋の商売をしているときは実に愛想が良いのだが、そっちの話になると嫌らしさが滲み出るような笑みを浮かべる。
同性の俺でも、うわぁ……っと思うぐらいだから、相手をする人は大変だろうな。
「なっ、どうだ?」
「いや、行きませんってば」
「俺が行くのは『キュベレイの雪解け』なんだが、エメリって嬢が……」
「あんた! もう娼館通いは止めるんじゃなかったのかい!」
「ひぇ……」
短い悲鳴を洩らしながらビアッジョさんが振り向いた先には、腕組みをした仁王のごとき嫁のドローテさんの姿があった。
ツカツカとドローテさんが歩み寄ってくると、サーっと音を立てるようにビアッジョさんの顔から血の気が引いていった。
「い、いや、これは男同士のコミュニケーションというか……いだだだ!」
ドローテさんは、問答無用とばかりにビアッジョさんの耳を抓んで捻り上げた。
「話は向こうで聞かせてもうらよ。邪魔しちまってすまないねぇ、マサさん」
「いえ、こっちは大丈夫ですので、ごゆっくり……」
「こら、マサ、お前……いででで」
「あんな真面目な子を悪い道に引き入れようとすんじゃないよ! ほら、いくよ!」
「いででで……千切れる、ホントに千切れるって」
ビアッジョさんは、ドローテさんに耳を掴まれたまま店の奥へと引っ張られていった。
俺の頭の中ではBGMにドナドナが流れていた。
犬も食わない夫婦喧嘩に巻き込まれないように、キッチリカッチリ掃除を終わらせて、恨めし気な表情のビアッジョさんから依頼完了のサインを貰って店を出た。
さて、次はいよいよ娼館『エリーゼの溜息』の清掃依頼だ。
娼館『エリーゼの溜息』は、街の西側にある歓楽街を見下ろす高台にある。
ビアッジョさんが言っていた通り、『エリーゼの溜息』は三軒ある娼館の中で一番の高級店だと言われている。
店の造りも貴族の館を思わせる外観で、内部の装飾にも金が掛かっている。
通りに面した大きな鉄格子の門は昼間は閉ざされていて、夕暮れが迫る頃から夜半過ぎまで開かれるそうだ。
俺は正門からではなく、生け垣を回り込んだ裏門から声を掛けた。
「おはようございます、掃除屋です」
いつもなら強面の門番ゴルドさんが顔を出すのだが、少し待っても反応が無い。
「おはようございます」
少し声を張って呼び掛けてみたが、やはり返事は無かった。
「トイレにでも行ってるのか?」
試しに鉄製の裏門を押してみると、鍵が掛かっていなかった。
ちょっと迷ったが、ここに居ても仕事が終わらないので、建物の入口で声を掛けてみることにした。
「おはようございます、掃除屋です」
「あっ、はい!」
勝手口をノックしながら声を掛けると、若そうな男性の声で返事があった。
ガチャっと鍵が開く音がして、勝手口を開けたのは従業員のロレンシオさんだった。
俺よりも二つか三つぐらい年上で、ヒョロヒョロっとした優男なのだが、これで意外に力持ちらしいが、にわかには信じられない。
以前、実は元コソ泥だったんすよ……なんて言ってたけど、それも本当なんだか嘘なんだか……。
「おはようございます、マサさん。あれ、ゴルドさんは?」
「それが、声を掛けても反応が無くて……裏門を押したら鍵が掛かってなかったから、こちらに声を掛けさせてもらいました」
「そうですか、どこ行ったんだろう? あっ、どうぞ、事務所にご案内します」
「失礼します」
娼館の建物は、客が出入りする表側とスタッフが移動する裏側が完全に分かれている造りになっている。
裏側からは、どの部屋にも自由に出入りできるが、表から裏に入るには隠し扉を開ける仕組みを操作する必要がある。
パッと見ただけでは分からない構造になっていて、しかもいくつかの手順を踏まないと扉は開かないそうだ。
「支配人、マサさんが見えられました」
「おぉ、入ってくれ」
事務所の扉の向こうから、よく響くバリトンボイスの返事があった。
「おはようございます、オルテガさん」
「おはよう、専属の話は考えてくれたか?」
娼館『エリーゼの溜息』の支配人オルテガは、四十代後半ぐらいで端正な顔つきをしているが、左の頬の大きな傷が堅気ではないと物語っている。
「いやぁ、腕を買ってもらえるのは有難いのですが、他のお客さんも対応したいので……」
「それなら、ここに住むのはどうだ? 毎晩違う嬢に添い寝させてもいいぞ」
「いやいや、寝不足で倒れますから、勘弁してください」
「そうか、仕方ない。今日もよろしく頼む」
「はい、いつも通りに作業しちゃって良いんですね?」
「あぁ、嬢には伝えてあるが、なるべく起こさないようにしてくれ」
「了解です、それじゃあ表の階段を掃除しながら上がって、一番上の部屋から作業させてもらいます」
いつもにこやかに対応してくれるが、オルテガが怒らせたらヤバい人物なのは言うまでもない。
姿勢を正して一礼して、仕事を始めるべく事務所から隠し扉を抜けて表の玄関に出た。
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