第8話 受付嬢リュシー

※ 今回はギルドの受付嬢リュシー目線の話です。


 人には匂いがある。

 パンの匂い、お茶の匂い、薬の匂い……商売をしている人は勿論だが、家ごとに、人ごとに特有の匂いがある。


 私は物心つく頃から、周囲の人よりも匂いに敏感だった。

 母に手を引かれて歩いている時には目を閉じて、匂いで街のどこにいるのか感じるのが好きだった。


 パン屋の角を曲がり、魚屋の前を通り過ぎ、生け垣が続く道を通り抜けた先が我が家。

 だから風邪を引いて匂いが感じられない時は、とても不安な気持ちになった。


 匂いに対する感覚は年齢を重ねるほどに鋭くなり、目を閉じていても誰が近付いてきたのか匂いで分かるようになった。

 ギルドで働くようになると、受付に来る構成員の皆さんを顔、名前の他に匂いで記憶した。


 いつもと違う匂いがすれば、どんな場所で働いてきたのか想像したり、体調が悪いのではないかと気遣ったりもした。

 だから、その人と初めて会った時には凄く驚いたのを覚えている。


 それは、一昨年前の夏だった。


「リュシー、こちらの方の移籍届の手続きをお願いね」

「はい、分かりました」


 受付嬢の先輩、デリアさんに命じられて移籍の手続きを行った人は、私と同じぐらいの年恰好の男性で……匂いがしなかった。


「どうかされましたか?」

「い、いえ、マサユキ・カン……バヤシ、貴族の方で……」

「いやいや、平民です、平民。俺の生まれ育った国では、平民も家名を持っていただけです」

「そうなんですか、失礼しました。カルステンの街からの移籍ですね」

「なかなか良さそうな街なので、暫く滞在してみようかと思ってね」

「かしこまりました。では、登録内容を確認いたしますので、こちらの魔道具に手を触れていただけますか?」


 犯罪歴は無し、魔力値は高いが固有魔法は清浄魔法、ギルドの依頼で揉め事を起こした経歴も無し、依頼の達成率はほぼ十割、模範的な構成員だった。

 移籍届けに記入漏れや誤りが無いかチェックし、ギルドカードの情報を書き換えたら手続きは完了だ。


「では、これで移籍の手続きは完了いたしました。ようこそフェーブルギルドへ、何かございましたらお気軽にご相談ください」

「どうもありがとう」


 軽く頭を下げて微笑んだマサユキさんからは、やはり匂いが感じられなかった。

 幼い頃から匂いを個人を認識する情報の一つとして使ってきた私には、顔も声も姿も感じられるのに酷く存在感が曖昧な人に思えてしまった。


 こんな事は、私の中では在り得ない事態だった。

 どんな人にも匂いはあるし、たとえ下ろしたての新しい服にだって匂いはある。


 普通の人には感じられなくても、私には感じ取れると密かに持っていた自信が音を立てて崩れていくようだった。


「どうしたの、リュシー。まさか一目惚れ?」

「いえ、違います。なんだか変わった人だなって……」

「どれどれ……ふむ、確かに変わってるわね」

「えっ、何か問題がありましたか?」

「問題は無いわ、というよりも模範的な構成員といって良いわね。ただ……見てみて」


 デリアさんが指差したのは、マサヒロ・カンバヤシが所属してきたギルドの履歴だ。


「随分あちこちのギルドを渡り歩いてるみたいですね」

「それだけじゃないわよ、気付かない?」


 デリアさんは履歴に表示されたギルドの名前を上から下に、下から上にと指で辿ってみせた。


「あっ! 王都から離れている?」

「そう、普通の構成員ならば、地方の街から中央、王都を目指すものでしょ。それが、この人は王都から離れていってる。しかも、移籍を繰り返しながら……何かあるのかもしれないわね」

「注意した方が良いのでしょうか?」

「そうねぇ……揉め事を起こすようなタイプには見えなかったけど……」

「でも、あの人匂いがしませんでした!」

「匂い……?」

「あー……構成員の人とか、旅して来た人は、埃とか色んな匂いがするんですけど、さっきの人は身綺麗というか……」

「たしかに、身なりは綺麗だったわね……でも、それは悪い情報ではないわね」

「そう、ですね」

「まぁ、移籍直後は変な縄張り意識を持ってる連中に絡まれたりするから、注意はしておいた方が良いわね」

「はい、そうします」


 デリアさんと話している間に、匂いがしなかったのは、その日たまたまだと思っていたのだが、それからも何度姿を見せてもマサさんからは匂いを感じられなかった。

 マサさんの移籍手続きをして暫く経った頃、別の異変が起こり始めた。


 受付にマサさんと同様に匂いのしない人が現れたのだ。

 それまでは匂いのしていた人達が、突然匂いがしなくなり、また数日後には匂いがするようになるといった感じだ。


 理由が判明したのは、受付の先輩デリアさんと構成員のカペルさんが話しているのを聞いてからだ。


「討伐帰りにしては、随分綺麗じゃないの」

「おぅよ、マサに清浄魔法を掛けてもらったからな」

「へぇ、人間に掛けるの?」

「普通は家とかの掃除に使うもんだけど、すげぇんだぜ、頭の天辺から爪先まで、服も下着も体も装備品も、全部綺麗サッパリだぜ」


 その日、カペルさんは他の構成員と一緒にオークを討伐してきたそうだ。

 倒す時や運搬する時に、血や脂が服や装備にも飛んだそうなのだが、汚れや染みは見当たらないし、臭いも全く感じられない。


 それどころか、カペルさん個人の匂いまで消えてしまっていた。

 魔物の討伐を行う構成員の皆さんにとって、マサさんの清浄魔法は洗濯、風呂、装備の手入れなどを一気に済ませてしまう素晴らしいものらしいが、私にとってはアイデンティティを危うくする存在のように感じられた。


 マサさんに腹を立てるのは八つ当たりだと分かってはいたが、匂いが感じられず、いつも飄々とした雰囲気に馴染めなかった。

 それなのにマサさんは、依頼完了の報告をする時には他の受付嬢ではなく私を選んだ。


 仕事なので断る訳にはいかなかったが、その当時は応対するのが少し憂鬱だった。

 そんな気持ちが変ったのは、私の周囲にもマサさんの影響が感じられ始めてからだ。


 最初は、ギルドから自宅までの帰り道にある串焼き屋からだった。

 とてもいい匂いがして味も美味しいのだが、店がちょっと汚くて利用するのを躊躇うことがあったのだが、ある日突然、建て替えをしたのかと思うほど店が綺麗になっていた。


 店の掃除が行き届かないと発生する嫌な臭いが消えて、串焼きの香ばしい匂いだけが漂ってきた。

 そうした店は串焼き屋にとどまらず、食堂や酒場などの飲食店、肉屋や魚屋などにも広がってゆき、フェーブルの街が日を追うごとに良い匂いで包まれていった。


 ある日の休日、買い物の途中でマサさんを見掛けた。

 掃除の依頼で知り合った街の人達とにこやかに挨拶を交わしながら歩いていたマサさんは、不意に裏路地へと入っていった。


 フェーブルの街には観光で訪れる人も多く、表通りは皆が協力して清掃を行っているが、裏路地となるとゴミなどが放置されていることが多い。

 なぜだか気になって、マサさんを追って裏路地に入った直後に気付いた。


「匂いがしない……ゴミも無い……」


 ゴミは誰かが掃除すれば片付いていることはあるが、裏路地特有の匂いまでは消えない。


「家までの道を掃除しているの……?」


 だが、頭に浮かんだ考えを自分で否定した。

 マサさんが宿泊している宿に向かうには、まるで方向が違っていた。


 どこへ向かっていたのか、マサさんの後を追うのは簡単だ。

 匂いの消えた道を辿れば良い。


 匂いの消えた裏路地を辿ると、裏町をグルっと回って表通りへと戻っていた。

 どこかへ行くのではなく、誰かに頼まれた訳でもなく、休日に街を掃除して回っているのだと気付いた時、マサさんの印象が大きく変わった。


「こんな人がいるんだ……」


 それからは、依頼完了の手続きをする時には、できるだけ丁寧な対応をするようにしている。

 ただ、最初の頃の印象がいけなかったのか、プライベートで誘いを受けたことが無い。


 他の構成員さんからは、デートのお誘いを受けるのだが……マサさんには、仕事上のパートナーと割り切られているのだろうか。

 もうすぐ、フェーブルの街では秋祭りが行われる。 


 ギルドも休みになるので、予定は空いているのだけど……誘ってもらえないのでしょうか。 

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