エピローグ

 灼ける肺に酸素を送り込むべく、口を大きく開ける。吸い込む空気の匂いに混じって、口の中に血の味が広がった。

森を抜けたら、いきなり眼前に花の群生が広がった。体感だが、一キロくらいは走ったと思う。障害物のある森の中を走ったのだから、整った直線の道を走ったのとは、のし掛かる重さが違う。

 両膝に手を着き、なんとか体を支える。振り向いたが、畔蒜が追ってくる気配はなかった。

 逃げ切った?

 安堵した途端、全身が崩れ落ちた。その場で尻餅をつき、天に向いて咲く花を散らした。滴り落ちる汗が、鮮やかな彩りの中に染みをいくつも付けていく。そっと耳に手を当て、胸を見た。血はすでに乾いており、出血は止まっていた。

 遠のきそうになる意識を必死に留め、遙か水平線の彼方を眺めた。もうすぐ日が昇り始める仄明かりに覆われた景色は神秘的で、空と海との境界線以外はなにも見えない。大陸は島の反対側だ。山頂にまで登らないと見えないのだ。

 今更未練はなかった。畔蒜が犯人役だとわかった時点で、大陸に渡る計画も破綻した。決着はこの島でつけなくてはならない。


「ここは……」


 呼吸が整うのと連動して、思考能力も戻ってきた。この花の群生地には見覚えがある。最初の被害者となった納江を埋葬した場所だ。

 立ち上がって視線を巡らすと、一部だけ土が露出した箇所が見つかった。あの下に納江が埋まっている。


「サンクチュアリ……」


 強烈な生存本能がこれまでにない集中力を発揮し、散らばっていた点を結びつけていく。斬られた傷が再び痛み始める。この生々しい痛み……。

 畔蒜から逃げ出す際、彼女が放った台詞が耳の奥に反芻される。


「それに、もう―」


 掠れていた声が、明瞭に再生される。


「それに、もうここが現実なのか仮想なのか区別が付かないから」


 畔蒜はたしかにそう言った。加連の脳内で無視できない疑問が答えを導き出した時、彼女の呟きは恐ろしいものへと変貌した。

 参加者の共通点。それは、失踪してもすぐに捜索願いが出ないことだ。加連たちは養護施設出身で家族はいない。保積も天涯孤独の身だった。七尾は両親との関係がかなり歪んでいた。引きこもりの息子が失踪すれば、親からすれば僥倖なのではないだろうか。捜索願を出してまで探し出す価値があっただろうか。納江からはなにも聞けなかったが、同じような境遇だったに違いない。もしかしたら星埜も……。

 そして、もう一つの疑問。勝者へのボーナスとはなんだったのか。

 あの文面には、生き抜いてくださいと書いてあったことに違和感を覚えた。しかし、記載されていないことで、おかしいと思わなければならないものがあった。あのメッセージには、日数が記されていなかった。

 七日間を生き抜けではなく、単に生き抜けと書いてあった。これはなにを意味するのか?

 昨日発見した大陸が脳裏を掠める。あそこは犯人役から逃げるためではなく、新たな生活の場として考えた時、朧気ながらにボーナスの内容が浮き上がってくる。

 ボーナスはサンクチュアリの永住権。システムが実用化した暁には、現実からの移住者として、この世界で人生を謳歌する権利だ。

 だが、なにもかもが現実に則しているなら、はたしてここは聖域と呼べるのか。いや、そもそも、ここは本当に仮想空間なのか。負った傷の痛み。星埜の遺体の傷み具合。浜辺から届く波の歌声。あの土の下で、納江の遺体はどうなっているのか。畔蒜と同じだ。もう、なにが現実で、どこからが虚構なのかわからない。


「………………っ」


 森の影でなにかが動くのを、目の端で捉えた。畔蒜が追い付いたのだ。

 加連は走った。海に向かって走った。ここが現実かそうでないかを確かめる手段が一つだけある。リブルティアから説明された期間は七日。今日を生き延びれば、はっきりする。ベッドの上で目覚めるか、このまま島から出られずにいるのか。それを確かめないうちは、死ぬわけにはいかない。

 加連は顔を上げ、口を大きく開けて深呼吸を繰り返した。口と同様に大きく開いた双眸に、どこまでも広がる空が映り込む。もうすぐ夜が明ける。太陽が昇りきれば、今日も蒼穹が加連の頭上に被さるだろう。

 ……空の色が青でよかった。興奮を呼び起こす赤や不安を煽る紫だったら、精神の平衡が崩れて、とっくに壊れていたかも知れない。

 長い一日になりそうだ。

 様々な考えで頭をいっぱいにさせながら、加連はひたすら走り続けた。



〈了〉

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空の色が青でよかった 雪方麻耶 @yukikata

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