第24話 気韻

 すぐ脇で火にかけられているケトルの蓋が、沸騰した湯に押し上げられて踊った。

 サンドウィッチを切ろうと手にしていた包丁を、慌ててまな板に置く。

 料理などあまりしない加連が、朝食の用意をしようと気まぐれを起こしたのは、夜明け前に目を覚ましてしまったからだ。

 とうとう七日目。最終日を迎えた。いろんなことが起こりすぎて、時間の流れが狂ってしまったような長い一週間だった。ここに漂着してから今日まで、現実的なことが極めて希薄だ。もしかすると、自分は仮想空間の中で生まれた十把一絡げのモブキャラなのではないかと、アイデンティティーすら危うく消えてしまいそうだ。

 星埜に鍵の掛かった部屋など無意味なので、昨夜は畔蒜と二人でリビングで寝た。端に穂積の遺体が横たわっていたが、もう感覚が麻痺してしまい、それほど気にならなかった。

 疲れているはずなのに、神経は尖り皮膚を突き破りそうだった。目をつぶっても深い睡眠を得ることは叶わず、微睡みと覚醒を繰り返した。

 神経の昂りが疲労も麻痺させるだろう。そう開き直って起きたのが、午前四時前だ。まだ太陽も顔を出していない時間だったが、空は紫色に染まり今日も晴れると予想できた。

 サンドウィッチを切り分けたところで、畔蒜が目を覚ました。開ききれない目は宙を彷徨い、彼女もあまり眠れなかったのがわかる。


「おはよう」

「あ……おはようござい……」


 なぜか、畔蒜の挨拶が途切れた。たった今までしょぼくれてた目を見開き、息を止めている。

 加連は、なにかおかしなことをしたのかと、我が身を確認した。これといって目を引く点は見つからない。


「どうかした?」

「いえ、あの……加連さんが、キッチンに立っているから……」


 思わず力が抜けた。


「俺が料理するのが、そんなに意外だった?」

「ええ、まあ……はい。いつもコンビニ弁当で済ませている感じだったんで」

「ひどいな。料理くらいするさ」


 言い返したものの、ほとんどコンビニで済ませているのは当たっていた。人の習慣というものは、ニオイに出てしまうものらしい。嘘ではなく方便を使ったのだと主張するために、少し不器用なところも見せておいた。


「サンドウィッチを切りたいだけなのに、包丁が六本もあるからどれを使えばいいのか迷うよ。コーヒーを淹れたらできあがりなんだ。顔洗ってきなよ」

「……そうします」


 畔蒜は、そそくさとバスルームに消えていった。本当なら、出航まで互いに目が届くようにしたいが、どうしても一人にならざるを得ない時間が生じる。


「………………」


 畔蒜の台詞を反芻する。平静を装っていたが、本当は彼女もなにかに気付いたのではないだろうか。言葉に言い表せない、微かな変化。実は、加連も先ほどからなにかおかしいと思っていた。正体のわからない微妙な違和感が、まとわりついていたのだ。

 今も違和感は消えない。下着を裏表逆に履いているような、きっかけがなければ気付けない些細な違い。

 しっくりしないもどかしさはあるが、強引に胸の奥に引っ込めた。控えている冒険を前に神経過敏になっているのだと、自分を納得させた。これまでの人生で、舟で海を渡った経験などない。未知への挑戦に動悸が止まらないのは、けっして異常ではない。

大丈夫だ。大丈夫……。

 加連は、ペーパーフィルターに入れたコーヒーに湯を注いだ。蒸らすために、最初は少量の湯を全体に含ませた。途端にコーヒー特有のよい香りが立ち上った。大きく吸い込んで、気分を落ち着けようと同じ台詞を脳内で繰り返した。

大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。

 湯をゆっくりと注ぐ。ポタポタと落ちるコーヒーと、心の呟きのリズムが同調する。

大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ……。

 コーヒーを二つのカップに注いだところで、畔蒜が洗面所から戻ってきた。


「いい香り」

「グッドタイミング。とりあえず腹ごしらえしよう」


 加連が作ったのは、ハムとチーズを挟んだだけの簡単なサンドウィッチだった。


「美味しい」


 畔蒜は、お世辞には聞こえない讃辞を言う。彼女は食欲が減退している様子はなく、用意した分を次々と口に放り込み、コーヒーで流し込んだ。度胸の据わり方に男女の優劣はない。間違いなく、畔蒜の方が落ち着いていた。

 毛布を被せて隠しているとはいえ、少し離れたところには保積の遺体がある。そして、二階には神谷の遺体が放置されているのだ。こんな環境でも食事ができる。現実ではないからと割り切っていても異常だ。通夜振る舞いとはわけが違うのだ。自分も畔蒜も精神に異常を来しているのではないかと、加連は背筋がぞくりとした。



 朝食が済んでしまうと、やるべきことがなくなった。用意すべきものは昨夜のうちにまとめてある。あとは出航を待つだけだが、深夜と早朝の境に起きてしまったせいで満ち潮までにはまだ時間がある。再び、時間の流れが狂い始めた。なにもしないで待っていると、心が逸って焦げ付きそうだ。

 自分たちの行動が星埜に筒抜けなら、出発前に最後の攻撃を仕掛けてくる可能性が高い。動いていないのに気持ちが張っていると、嫌らしいくらいに神経が摩耗していく。ちらりと畔蒜の様子を窺うと、両膝を抱え背中を丸めて座っていた。

 じっとしていられたのは、わずかな時間だった。何度も座り直した後に立ち上がり、ついに室内を歩き始めた。普段なら絶対にしない行為だ。畔蒜が露骨に眉をひそめるが、動いていないと気持ちが破裂しそうだ。


「少しは落ち着いてよ」

「ああ、すまない……」


 ついに畔蒜から文句を言われた。室内で動き回られて、さすがに鬱陶しさを感じたのだろう。加連は素直に謝るしかなかった。とりあえず椅子に座って、歩き回るのをやめた。


「……今日で最後なんだよね」


 彼女なりに気を使ったのか、ずっと黙っていた畔蒜が話し掛けた。


「そうだ。今日を乗り切れば、現実に帰れる」

「……大陸に着いても、二人だけなのかな」

「おそらく、ね」


 星埜に海を渡る能力まで備わっていたら、もうお手上げだ。最初から逃げ切れる結果などないことになってしまう。しかし、それではあまりにもフェアじゃない。そんなことは考えたくなかった。


「明莉ちゃんだけでも、連れて行ってあげたかったな……」


 畔蒜のさり気ない呟きが、加連の胸に突き刺さった。彼女は現実では生きている。嘆くことなどないのだ。ここは言わば夢のような世界だ。それでもなお、この胸を引き裂く痛みはなんだ? 仮想空間に長く居すぎると、脳がバグを起こして正確な判断ができなくなってしまうのか。こんな試験はあまりに危険だ。

 一度腰を落ち着けた加連が、再び立ち上がった。今度はうろつくために立ったのではない。出発までにやらなくてはならないことが見つかったのだ。

 動きに芯が通ったのを察した畔蒜が、加連に合わせて立ち上がった。


「行くの? まだ早いと思うけど」

「いや、まだ行かない。墓を……」

「お墓?」

「二人の墓を掘ってくる」


 加連は視線だけで。神谷と保積の墓を作る意を示した。彼の胸中を知り、畔蒜は驚きを隠せなかった。


「待って。数時間後にはここから離れるんだよ?」

「満ち潮まで、まだ二時間近くある。間に合うさ」

「そうじゃなくて……」


 畔蒜は、語尾を濁した。言いづらい内容なので、言葉を探しているのがわかった。


「二人には悪いとは思うけど、もう意味がないっていうか、ここまできたら、生きて脱出することだけ考えるべきだと思う」

「意味があるなしの問題じゃない。これは人間の尊厳に関わることだ」


 今の今まで二人を弔う気持ちに至らなかったため、自分でもわざとらしいと思う。単に胸に巣くうわだかまりをなくし、納得したいだけなのかも知れない。


「加連さん混乱してる。ここは仮想空間なんだよ。現実じゃ、みんなとっくに帰ってるよ」


 冷めた言い方だった。畔蒜が言っていることは正論だとわかる。しかし、頭で理解するのと心で受け止めるものが必ずしも同じとは限らない。一度弔わなければならないと思い立ったからには、実行しなければ納得は得られない。


「これはけじめだ。現実に帰って彼女らに再会できたときに、胸を張れるようにしておきたいんだ」


 やらなければ、必ず後悔する。現実で再会した時、犠牲になった全員の目を見られなくなると思った。


「馬鹿げてる」

「わからなければいい。畔蒜さんは待っててくれ」

「一人になるのは危ないんじゃないの?」

「……すぐ裏だよ」


 畔蒜の反対を押し切り、加連は納屋に向かった。彼女の批難を含んだ視線が執拗に絡みつく。加連は据わりの悪さを我慢しながら、リビングから出ていった。

 自分の意地も頑なだとと自覚しながらも、畔蒜の冷淡な態度に反感を覚えもした。今のすれ違いが今日の行動を阻害する種になりはしないかと、少し心配になった。

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