第20話 迷路

 なにもせずにじっとしていると、時間の概念など忘れてしまいそうだった。

 単調な濤声は感覚を麻痺させ、意識を体の深層へと引きずり下ろそうとする。貝のようにじっとしているのが最適解とわかっていても、焦れる気持ちが行動を起こしたがっている。

 穂積は部屋に帰さず、加連たちと一緒にいさせた。加連の要請に最初は渋っていたが、星埜が犯人役と判明した今、仲間に襲われる心配はないと諭して、ようやく落ち着かせたのだった。


「ちょっと、おトイレ行ってきます……」


 神谷がリビングから出ていった。先程から、何度も用を足しに席を立っている。神谷だけではない。四人揃って似たような状態だった。

 スマートフォンを取り上げられた現代人は、時の削り方を知らない。遊具は用意されているが興じる心境ではなく、かといって外に出てのんびりと散策することもできない。

 結局、リビングで屯するしかなく、畔蒜が用意した茶と菓子を相手に過ごすしかなかった。喉が乾いてなくとも、目の前の器を空にすることに時間を費やすわけだから、トイレが近くなるのも仕方がなかった。

 神谷が戻ってきた。数分の沈黙の後、それが義務であるようにカップを手をする。

 美味いも不味いも感じなくなった液体を流し込み、つい弱音を吐いた。


「こんなことなら、もっと普通のアルバイトを探せばよかったな……」


 誰にともなく呟いただけだ。なんの糧にもならない後悔の独り言。それは、啓示を受けた如く加連の耳孔を刺した。鏡面のような水面に一滴が雫を落ち、生じた波紋が広がる。何気ない呟きがなんでこんなに引っ掛かるのか、加連にもわからなかった。


「明莉ちゃんは、なんでこのアルバイトに?」

「なんで?」


 加連の質問の意味を消化するのに、刹那の間があった。理由は単純で、まとまったお金が欲しかったからだ。それ以外の理由があるだろうか。例えば、人の役に立ちたいとか、経験を積んで自分を高めたいとか……。

 多額の報酬のみを目的に参加した。そのことが急に恥ずかしくなり、神谷は加連と目を合わせないように、再びカップを手に取った。


「その……お金が必要で……」

「明莉ちゃんは学生じゃないのか? リタイヤしなければ、七十万、成功報酬がさらなる賞金なら、もしかすると百万円近くになる。そんな大金が必要なのか?」


 加連のどことなく詰問する姿勢に、神谷は抵抗感を覚えた。自分の正当性を主張すべく、一気に捲し立てた。


「私は養護施設にお世話になっていたんです。春に卒業して独立しました。でも、どれだけ節約しても、あっという間にお金がなくなっちゃって……。施設にはもう頼れないから、パパ活みたいなことだってやりました。お金を欲しがるのは、そんなによくないことですか?」


 加連は目を見張った。神谷の剣幕も驚いたが、それ以上に驚いたのは、彼女が養護施設にいると告白したことだった。

 続いた畔蒜の発言は、もっと衝撃的だった。


「明莉ちゃんも養護施設で育ったんだ。私もそうだったんだ」

「なんだと?」


 加連に睨まれ、畔蒜は少し怯えた。


「どういうことだ?」


 詰め寄る加連に、畔蒜の不安は膨らんだ。なにか気に障ることを言っただろうか。


「だから……私も独立する時は苦労したから、明莉ちゃんの気持ちがわかるって意味よ」


 加連を押し返すように言うが、疑問は消えなかった。この男からは焦燥が滲んでいる。いったいなんだというのだ?


「………………」

「加連さん?」


 神谷の呼び掛けを無視して、加連は穂積に詰め寄った。


「保積」

「あ?」

「おまえはどうなんだ? まさか、おまえも養護施設出身なのか?」

「いや、俺は孤児なんかじゃねえよ?」


 保積は意識しなかったのだろうが、孤児なんかの部分は、加連たちをささくれさせた。と同時に、加連は考え過ぎだったかと、競り上がっていた嫌な感覚が沈んでいくのを感じた。


「それじゃ、親御さんはいるんだな」

「家族はいねえよ……」


 鎮まったはずの苦さが、再び急上昇した。


「高三の頃だ。親父は女つくって出ていった。その二年後には、お袋が逝っちまった。女手一人で、俺を養わなきゃなんなかった。俺が高校卒業して仕事就いたら、あっという間にさ。張り詰めていた気が抜けちまったのかね」


 促されるまでもなく、保積は生い立ちを語った。計算が働いたわけではない。同情を求めたわけでもない。だが、不幸な生い立ちを明かすことで、心情的に味方になってくれるかもと期待したのは、否めなかった。

 加連は黙り込んでいた。同情しているのかと思ったが、そうではなかった。なにか考え込んでいる様子で、テーブルの天板から目を離さない。


「おい、どうかしたのかよ?」

「……俺も養護施設を出たんだ」


 加連の告白に、畔蒜と神谷が驚きの声を漏らした。

 三人も孤児養護施設出身者がいる。これまで考えなかったが、参加者には共通点があるのではないだろうか。だが、保積は違うという。これはどう考えればよいのか。リタイヤした納江と七尾はどうだった? 納江はわからない。七尾はいるはずだ。かなり歪んだ関係であったみたいだが、家族であることには違いない。星埜は?

 今となっては確認しようがない。もどかしさで、思考にノイズが走る。なにか見過ごしてはいけない重要性がある。そんな気がしてならない。

 念のために、畔蒜と神谷に施設の名や場所を確認したが、共通点は見つけられなかった。


「なんだか、気味が悪いね」


 畔蒜の感想は率直だった。保積という例外がいるものの、養護施設出身者が三人も集ったのを、偶然と片付けるほど脳天気にはなれない。養護施設とは関係なしに、保積ともなにかしらの共通項があると考えるべきだ。果たして、それはなんだ?

 四人は、誕生日や出身地から始め、身体的特徴や血液型まで質疑応答を繰り返した。しかし、質問すべきことが尽きても、四人に共通する点を見つけることはできなかった。


「なにかあるはずなんだ。なにか……」


 ゴールが見えているのに、一向にたどり着けない迷路を進んでいるようなもどかしさ。星埜の行方と襲撃の不安。リブルティアの行き過ぎた臨床試験。サンクチュアリのリアル過ぎる仮想世界。

 最大積載量を超えた問題が、加連を押し潰そうとする。現実に戻って報酬を受け取ったとして、考えていた満足感を得られるのかわからなくなった。ややもすれば、大金を得ても参加すべきではなかったと後悔するような深手を、現実に持ち込むことになりはしないか。

 迂闊に動けない分、重量を具現化させた時間がゆっくりと通り過ぎていく。あれだけ眩しかった陽光が、いつの間にか優しさを帯びた橙色に変わっていた。どんな過酷な状況に陥っても、時が止まることはないのだなとぼんやり思う。


「明莉ちゃんっ」


 畔蒜の頓狂な声にぎくりとさせられ、我に返った。

 うたた寝をしていたと思っていた神谷が、苦しそうに荒い呼吸をしている。


「どうした?」


 畔蒜が神谷の額に掌を当てる。


「すごい熱……」

「熱? 大丈夫なのか?」

「わからないよ。風邪っぽい症状だけど……」

「風邪? 病気だというのか? 馬鹿な。仮想空間だぞ」

「気持ち悪い……」


 言い終わらないうちから、神谷の口からは言葉の代わりに吐瀉物が溢れ出てきた。


「おいっ!?」


 穂積が跳び跳ねて立ち上がった。眉を吊り上げ、後退さる。とっさの行動とはいえ、穂積の本性が透けて見えた。

 神谷の嘔吐はすぐに治まった。水分ばかり摂っていたので、吐き出したものも水っぽかった。

 加連は毒ではないかと疑ったが、四人は同じものを口にしている。


「明莉ちゃん!?」

「だい……大丈夫です。汚しちゃって、ごめんなさい」


 気丈に振る舞うが、肩が上下し目には涙が溜まっている。


「ここは片付けておくから、明莉ちゃんを頼む。汗を拭いて水分を取らせるんだ」


 仮想空間で病気になり、必死に頭を巡らせて対処法を模索している。できの悪いジョークに下手なツッコミをしている気分だった。誰の得にもなりはしない、悪質なステージに無理矢理立たされている。


「わかった。ベッドで寝てもらっていいよね」


 吐瀉物が染み込んだソファーから、特有の匂いが立ち込めている。もうここに寝てもらうのは避けた方がよい。


「そうしてくれ。穂積、バケツに水を汲んできてくれ。雑巾もだ」

「お、俺が?」

「少しは動けっ!」


 加連は怒鳴った。リビングから出ていこうとする神谷の体が跳ね、畔蒜が驚いて振り返った。厚ぼったい壁と化した視線を当てられ、我に返る。


「……行くんだ。水分はたっぷり摂らせてやってくれ」


 深く息を吐くと連動して、背中が丸まる。加連は自分を知っている。リーダーになれるような牽引力などないし、数々の疑問を解決できる知能も備わっていない。他人を押し退けてまで自己を通す胆力だって足らない。

 なにもかもが、自分を苦しめるために用意されたのではないかと、弱気が首をもたげる。


「持ってきたぞ」


 いつの間にか、穂積がバケツを片手に戻ってきた。言われた通り、雑巾も持っている。


「……まず、シーツを取っ払おう」


 加連はキッチンからゴミ袋を持ってきて、丸めたシーツを詰め込んだ。


「捨てた方がいいかな?」

「脇に置いておこう。あと二日と数時間しかいないんだ」


 加連は、怒鳴ったことを謝ろうとタイミングを見計らっていると、保積の方から頭を下げてきた。


「すまねえ。すぐにでも動かなきゃなんなかったのに、頭が白くなっちまってよ」


 意外だった。保積は自分に非がある場合でも、決して謝らないタイプだと思っていた。先入観に囚われ、深層にある真実を見逃すのは愚かしいことだ。特にこのサンクチュアリの中では。


「俺の方こそ悪かった。次から次に問題が生じて、冷静さを失っていた」


 微妙な空気から生じた笑みは、互いのわだかまりを溶かすのに充分だった。二人がソファーを片付けている間に、畔蒜が神谷を部屋まで連れて行った。

 戻ってきた畔蒜は、二人の間の雰囲気が変わったのを感じ取った。余計なことは言わない。男同士の話をしたのだろうと解釈した。

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