第19話 失踪
ソファーは畔蒜と神谷に譲り、加連はテーブルに伏して睡眠を取ることにした。
照明は点けたままで、まぶたを通過した光が眼球を刺激する。眠気は一向に訪れない。仮に月の優しい光が降り注ごうが、真の暗闇に身を置こうが、今夜は眠れないのではないだろうかと、加連は半ば諦めかけていた。
なにかおかしい。なにかが狂っている。
八人目の人物が犯人役で、その者が屋敷に潜伏している仮定での捜索は、空振りに終わった。そして今、協力してきた仲間の誰かが、暗躍する犯人役なのだと疑心暗鬼に陥っている。それが当然の流れのようにだ。
加連もまったく小説を読まないわけではない。有名な推理小説をなぞったような展開は、不自然さが先に立った。それとも、孤立無援の環境で連続して殺人事件が起これば、人は似たような行動に出るものなのか。
流れに引っ掛かりがない。なさ過ぎる。これではまるで、我々はゲームのキャラクターで、本当の世界に操作しているプレイヤーがいるみたいではないか。
「………………」
加連は一つの可能性に思い至った。ゲームをコントロールするのに、外界からの干渉などいらない。それこそ、我々のうちの誰かがさりげなく誘導すれば、流れを掌握することは可能だ。だとすれば、誰が……。
そこで加連は思考をストップさせた。
思い込みで推測を固めてはいけない。おそらく、今は重要な分岐点に立っているのだ。憶測で塗り固めて方向を誤るわけにはいかない。
この悪夢のような試験に最後まで残るためには、裏の裏まで読まなければ勝てない。俺なんかに、それができるだろうか……。
今夜は訪れないと諦めていた睡魔が、いつの間にか忍び寄っていた。加連の思考は覚醒と混濁を繰り返し、次第に暗闇へと誘われていった。
「う……」
聞き慣れない物音に、加連は目を覚ました。朝日が差し込むリビングに邪悪な気配は一切なく、これまでの悲劇こそが夢ではないかと錯覚させる。
「加連さん、起きた?」
半覚醒の中、柔らかな呼び声が通り過ぎた。首を巡らすと、畔蒜がキッチンで朝食の用意をしてくれていた。
「おはよー。ソファー使わせてもらって悪いね」
畔蒜はコンロの前に立っていた。味噌汁の良い香りが鼻腔をくすぐる。今朝は和食かと思うと同時に、空腹を感じた。
「ああ、おはよう」
加連は立ち上がって大きく伸びをした。
「おはようございます。あまり眠れなかったんじゃありませんか?」
加連が立ち上がったのを機に、神谷がテーブルを拭き始めた。
「そうだな……。でも、こんなことになって、熟睡なんかできないよ」
加連は答えながらも、結局睡魔に勝てなかったことを内心苦笑した。少なくとも、畔蒜と神谷に対する警戒心はないということだ。
「明莉ちゃんは、料理手伝わないのかい?」
加連は言ってから、しまったと思った。単に疑問に感じただけだが、受け取りようによっては意地の悪い発言だ。
「なんか、畔蒜さんが張り切っちゃって。これぞ朝食ってのを作ってくれるみたいですよ」
神谷は微笑みながら畔蒜を見た。幸い、嫌味とは思わなかったようだ。
テーブルの上に五人分の食器が並べられた。加連は神谷に質した。
「畔蒜さんが、一応って」
神谷は苦笑いしながら視線を二階に向けた。要請されたわけではないが、目から神谷の気持ちが滲んでいるのを感じ、自分が受け止めるべきだと考えた。神谷に食器を用意させたのなら、畔蒜は彼らの分も作っているということだ。
「声、掛けてくるよ」
加連は階段を軽やかに駆け上がり、まずは穂積の部屋を選んだ。
「穂積、畔蒜さんが朝飯作ってくれたぞ。缶詰なんかより、ずっといいだろ」
返事がなかった。背中にぞわっと痺れる感触が走ったが、気を落ち着けて、もう一度ノックした。
「おい、穂積?」
「うるせえなっ」
加連の心配を突っぱねる怒鳴り声が、扉越しに返ってきた。
「言っただろ。開けたらぶっ殺すって」
昨日は入ったらぶっ殺すではなかったか。くだらない反論が湧いて出たが、胸の中に抑えた。彼が生きている事実が、小さな不快を大きな安心で包み隠した。
「わかった。気が向いたら降りてこい。今朝は和食だ。美味そうだぞ」
しつこくするのは賢明ではないと判断し、加連は星埜の部屋の前に移動した。
「………………」
扉をノックする手が寸前で止まる。昨日の星埜の豹変ぶりが脳裏に甦った。
彼は最後の最後まで一緒に戦ってくれると信じていた。だからこそ、仲間を疑う彼の目は殊更に冷たく映った。内側に犯人役がいる可能性は、彼にとってそこまでショックなことだったのか。それとも、犯人役、いやリブルティアの掌の上で踊らされていたのだと、矜持が傷つけられたのか。
なにがきっかけで心に汚泥が沈むかは、その人にしかわからない。きっと、星埜の琴線に触れるものがあったに違いない。加連は、星埜より先に保積に話し掛けた理由が、自分の意気地のなさだと知った。
躊躇していても仕方がない。意を決して、加連は扉をノックした。
「星埜さん、朝飯ができたよ」
穂積の時と同様、返事がなかった。
彼の怒りは厄介だ。激しく猛る紅蓮の炎よりも、青く揺らめく炎の方が温度が高い。
肩が上下するほど大きな溜め息を吐き、加連はもう一度ノックした。さっきよりも強く、大きな音が立つよう、意識したノックだった。
「星埜さん、食糧持ち込まなかったでしょ。飲まず食わずで三日間も保たないよ」
やはり、なんの反応もなかった。加連はさすがにおかしいと思った。これだけ激しくノックして話し掛けているのに、気付かないとは考えにくい。そして、人の気遣いを無視するほど、星埜は幼稚ではない。
戦慄が加連を突き動かした。穂積の時は背中に電気を流されたような痺れを感じたが、今度は脳に直接雷が落ちたような衝撃が貫いた。
「星埜さん?」
加連はドアノブを捻った。なんの抵抗もなく回り、扉が呆気なく開いた。
閉じ籠っておきながら、鍵を掛けていない?
「星埜さんっ」
加連は躊躇なく部屋に踏み込んだ。なにかよくないことが起きているのだと、勘が告げている。こういう悪い勘は、大抵当たってしまうものだ。
「どうかしたの?」
階下から畔蒜の肥が聞こえたが、構っている余裕はなかった。
真っ先にベッドを確認した。乱れてはいたが、ベッドメイクする者がいるわけではない。昨夜使われたか判断がつきにくかった。
続いてユニットバスも見たが、やはり星埜を見つけることはできなかった。
背中に空気の流れを感じ、振り返った。閉じ籠っているとの先入観から、迂闊にも外の様子を見ようとは思わなかった。今更ながら、窓が開いているのだと気付いた。
なぜ、窓が開いている?
加連は窓に駆け寄り、身を乗り出して真下を見た。痕跡らしきものはなにもないが、屋根を伝えば飛び降りることはできる。地面は柔らかい土だし、それほどの衝撃はないはずだ。
閉じ籠っていたはずの星埜が消え、窓が開きっぱなしになっている。この状況をどう解釈すればいい?
人の気配に振り向くと、畔蒜と神谷が怪訝な面持ちで立っていた。
「どうしたの? 星埜さんは?」
「……いなくなってしまった」
星埜の失踪をどう説明すれば一番しっくりくるのか。答えながら、加連の頭の中では、様々な仮説や推測が目まぐるしく組み立てられていた。
リビングに星埜を除いた全員が集まった。互いに顔を突き合わせて、誰かがなにかを言うのを待っている。
穂積は強引に部屋から引っ張り出した。星埜がいない以上、彼にも参加してもらわなければならない。再度扉をノックした時、穂積の部屋に星埜の死体が転がっている想像をしたのは秘密だ。
「つまり、そういうことだったんだろっ」
加連が事情を説明した後に、沈黙が降りた。それを破ったのは穂積だった。この男、行動力がない反面、口火を切るのは自分の役目と言わんばかりに、よく吠える。
「まだ、そうと決まったわけでは……」
「決まったんだよっ。あいつが犯人役だったんだ。俺たちの中に犯人役がいるってばれたんで、逃げ出したんだっ。よくもまあ、涼しい顔して。あの野郎」
加連に反論の余地はなかった。納江と七尾が殺された時の、お互いのアリバイは証明できない。そもそも、仲間に犯人がいるなんて思いもしなかったから、ろくに検証もしなかった。畔蒜が襲われた時も同様だ。彼が犯人役ではないとは断言できない。
部屋に荒らされた様子はなく、星埜が無理やり連れ出されたのではなく、自分の意思で抜け出した可能性の方が圧倒的に高い。その背景を鑑みた上で、どれだけの行動パターンを想像しても、星埜が犯人役もしくはそれに近い役割を果たしていたと考えるしかない。
思い返してみれば、サンクチュアリに入ってからというもの、星埜の指示は常に的確だった。理路整然と説明する彼は、いつの間にか主導権を握っていた。口調や物腰が柔らかくて、嫌味にならないくらいの主張に留まっていたため、彼をリーダーと認識する者はいなかった。そこに落とし穴があったのではなかろうか。
彼の指示や言い分が、この生き残りゲームを円滑に進めるための道標となっていたなら、加連たちはまんまと術中にはまってしまっていたのだ。
保積は顔を真っ赤にして興奮していたが、加連は不思議と星埜に対する憤りを感じなかった。ただ、作家になりたいという彼の夢も嘘だったのか、それが気になった。
「これからどうします? 星埜さんを探すんですか?」
神谷はソファーに腰掛けている。みんなの顔色を窺うように訊いた。彼女は相当ショックを受けている。脚に力が入らないほどだったので、畔蒜が無理やり座らせたのだ。
「……見つけられるかな?」
畔蒜の懸念はもっともだった。数日を共に過ごして、思考は解析できるものの、彼がリブルティアからの使者なら、加連たちが発見していない隠れ場所だって知っているかも知れない。
「発見や追跡は不可能だ」
加連は時間を掛けずに結論に達した。残りは四人。下手に動くよりも、今まで通りに籠城作戦を続けて七日目を待つのが得策だ。相手が星埜と判明したなら、これまで以上に的確な防御策が取れる。
「星埜さんは、これ以上の犯行は無理だと判断したからこそ、逃走したんだ。守りさえ固めていれば、俺たちが勝つよ」
「残り三日だもんな」
保積は、引き続き籠城するのに賛成した。畔蒜と神谷はなにも言わなかったが、加連は二人の沈黙を、反対の意思なしと受け止めた。
これまで影さえ掴めなかった犯人役の正体がわかったことで、心のどこかに安心が生まれたのも事実だった。星埜の裏切りは残念だった。しかし、裏を返せば、サンクチュアリが生き残りを賭けた設定と知っていながら、不用心に人を信じた己の甘さが露呈したとも考えられ、身が引き締まる思いもあった。
油断しなければ、絶対に勝てる。
加連の胸には、霞みたいに覚束ない勝利のイメージが徐々に収束していき、確信に近づいていくのを実感した。
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