第18話 分離

「犯人は、まだ屋敷の中にいる?」


 加連の腕や背中が一気に粟立った。犯人が現在進行形で屋敷に潜伏しているとしたら、寝首を掻くなど容易い。一気に全滅させることだって可能だ。

 これまで、犯人は一人になった者を見逃さずに仕留めてきた。考えてみれば刹那の隙間を突くように手際がよかった。いや、よすぎた。加連たちの行動を逐一掌握していなければできっこないのだ。


「まさか……そんなことが」


 星埜は一言呟いたきり無言になった。可能性を検討しているのだろうが、加連にはそれ以外の答えはない気がした。


「捜索しよう。屋敷を徹底的に探すんだ」


 考えているだけでは苦境は乗り越えられない。行動も伴わなければ、狡猾な犯人には対抗できない。

 星埜が弾けるように立ち上がった。これまで見せたことのない険しい表情に、顔面が歪んでいる。その下に蠢くのは怒りか慚愧か。これまで溜めに溜めていた感情が吹き出した鬼面の形相だった。


「保積さん、一緒に来てください」

「俺も行くぞ」


 加連の申し出を、一瞬だけ見せた歪な面を納めた星埜は断った。


「加連さんは、ここで畔蒜さんと神谷さんを見ていてください」

「けど……」

「犯人は、我々の裏をかいてきます。女性だけになった途端、襲ってくるかも知れない」


 神谷が息を飲む。畔蒜も身を固くした。星埜が言っている危険が、けっして過剰な妄想ではないと受け入れているのだ。


「行きましょう。保積さん」

「お、俺が行くのかよ……」


 保積は、すがる目を加連に向けた。彼の心情は実像を見るようにわかる。役割を代わってほしいのだ。

 保積の情けない視線を受けて、加連は敢えて鈍感を装った。星埜が女性のボディーガードに加連を選んだのは、保積より戦闘力があると踏んでのことだ。体力云々より、いざという時にとっさに動けるか、機転の効いた行動が取れるかどうかで、加連を選んだのだ。

 加連が察して交代を申し出ないとわかると、保積は肚を括った。まさか、初日のように部屋に閉じ籠る真似はできない。そんなことをすれば完全に愛想を尽かされ、助けや協力は期待できなくなる。


「行くしかねえか……」


 穂積はおもむろにキッチンに足を向けた。足取りは頼りないが、なにか意思を感じる。

 畔蒜は不思議に思った。


「キッチンになんか隠れてないよ。そうだとしたら、私もとっくにリタイヤしてる」

「そうじゃねえよ。武器になるもん持ってった方がいいだろ」

「ちょっと!」


 畔蒜は先程の星埜みたいに、勢い良く上半身を起こした。傷がずきりと痛み、歯を食いしばる。


「まさか、包丁とか持ってくつもり?」

「そうだけど……」

「駄目よ。ここにはあと三日いなくちゃならないのに、料理できなくなっちゃうじゃない」

「おまえなぁ」


 保積は、わざとらしいくらいに大きな溜め息を吐いた。


「飯の心配なんかしてる場合か? 犯人が自棄になって、なりふり構わず襲ってきたらどうすんだよ」

「納屋にナイフや鉈があったから、それを使いなさい。そっちの方が武器になるから」

「七尾が殺された場所だぜ?」

「キッチンだって私が襲われました」

「おまえは死んでねーだろ」

「取り敢えず、納屋から始めましょう。そのついでに護身用の道具を探せばいい」


 言い争いに発展しそうな気配を、星埜が散らした。人は興奮するとひどく子供じみたことを口走る。低次元の言葉の応酬は勘弁してほしかった。


「けどよぉ……」


 保積は不満だった。武器としては包丁より鉈の方が有効なのは畔蒜の言う通りだが、やろうとしたことに横槍を入れられたのが面白くなかった。意地から出た幼稚さと言えばそれまでだが、屋敷を捜索するのは自分なのだ。


「行きましょう。まさか隠し部屋なんてないとは思いますが、もう一度徹底的にこの建物を調べるんです」


 星埜に急かされ、保積は反論する機を逸した。もういい。言い合っても時間を浪費するだけだ。一刻も早く捜索を終えて、安心したかった。


「ああ、行こう」


 星埜と保積は、固いながらも素早く動き、屋敷を出ていった。残された加連たちは、犯人の確保と二人の無事を祈ることしかできなかった。



 星埜たちが戻ってきて、再び全員がリビングに集まった。ここまで沈痛な空気は、現実でも感じなかった。職を失った時でさえ、もう少し希望を持てた。不可解。不条理。目に見えない闇が圧し掛かり、不安を何倍にも濃くしていた。


「……推理が外れたってことでいいのか?」


 保積は、誰にともなく問い質した。感情が乏しい、疲れ果てた声だった。

 屋敷内に、犯人は潜伏していなかった。星埜と保積で屋根裏から地下室まで詳細に調べたが、痕跡すら発見できなかった。犯人が屋敷に潜んで加連たちの動向を窺っている説は、証明できなかったのだ。


「……潜んでいなくとも、盗聴機とか隠しカメラとかで監視してたんじゃないか?」


 加連は考えながら言った。自信はまったくなかった。少しでも不安が薄まるよう、当てずっぽうに喋っただけだ。


「それも考慮に入れて捜索しました。残念ながら、外にいながら建物内を把握できる機器の類いは、なにも発見できませんでした」


 星埜は忙しなく腕を組み替えている。落ち着かない様子から、精神的にかなり追い詰められているのが見て取れた。論理的に考える人物だけに、理屈に合わない事態に投げ込まれると、案外脆いのかも知れない。

 この結果は受け入れがたかった。二十四時間とは言わずとも、それに近しい時間を監視していなければ、絶妙のタイミングで犯人が暗中飛躍できたはずがないのだ。ただ、この不可解な現象に対して、一つだけ筋が通った説明ができる。加連はそのことに気付いていたが、敢えて腹の中にしまっていた。その説を唱えた途端に、ここにいる誰が味方になってくれるか、わからなかったからだ。

 その可能性に至っているのは、加連だけではないはずだ。ひょっとして……、だけどまさか……。何人かは、そんな考えが頭の中で往来しているに違いない。

 互いの様子を虎視眈々と観察しながら、切り出すか沈黙を貫くか計算している。静まり返っているが、水面下では激しい心理戦が展開されている。


「もしかすると……」


 神谷は、重い静寂に耐えきれなくなった。とにかく、袋小路にはまった今の状況を打破しないことには。なにしろ、互いに近づくことさえ憚られるほど、空気が張り詰めているのだ。


「ま……」


 加連が止めようとしたが遅かった。 


「窓を破ったのは偽装で、犯人役はこの中にいるんじゃ……」


 小雨が降る如く神谷の口から発せられた推測に、張り詰めていた空気が凝固した。空気だけではない。その場の全員の動きが止まり、時間さえも凍てついたみたいになった。


「なにを言い出すんだ」


 加連は咎めた。そう考えたことに対してではなく、口にしてしまった迂闊さにだ。だが、完全に宙に浮いた。崖の縁ギリギリに立っていたのを、神谷が背中を押して突き落とした。落下してからの帰還はあり得ない。どこかに着地しなければ、いつまでも落ち続ける。たとえ身が砕けようとも、必ず着地しなければならなくなった。


「それだ……」


 最初に反応したのは保積だった。口をだらしなく開けて、目から鱗という表現が見事に当てはまっている。


「そういうことかよ……。ここにいる誰かが犯人なら、監視なんて気張らなくてもできる。隙を衝くなんて簡単だ」

「待て。そう決めつけるのは早計……」

「俺に近づくんじゃねぇっ」


 保積は、烈火の勢いで加連を拒絶した。今まで歪ながらも協力してきた関係に、亀裂が入った瞬間だった。


「落ち着け。俺たちを分断するのも、犯人の計算に入っているなら……」

「近づくなっつってんだろうがっ」


 保積は腰を屈めて後退りした。明らかに飛び掛かられるのを警戒している姿勢だ。もう、彼の目には周りすべてが敵に映っている。

 保積は地下室に駆け込んだ。今度は畔蒜が止める暇もなかった。乱暴な物音が続いたかと思うと、両腕に持てるだけの食糧を乗せて上がってきた。相当興奮しているのか、彼が歩いた後には点々とエナジーバーやらミネラルウォーターのペットボトルが落とされていった。一見すると滑稽な光景だが、鬼気迫る保積の焦りようが可笑しさを蹴散らしていた。

 彼がなにをしようと焦っているのか、加連にはすぐにわかった。


「駄目だ。今は全員一緒にいた方がいい」

「来るなっ」


 加連が駆け寄ると、保積は蹴りを放った。体勢も力の伝達もでたらめな不格好な蹴りだったが、踵が加連の太ももを打った。


「ぐっ!?」


 予想以上の衝撃と激痛に、加連は堪らず転倒した。床に伏した加連を飛び越え、保積は階段を駆け上がった。缶詰が落ちて、乾いた音を立てながら階段を転々と落ちる。

 自分の部屋の前に立つと、振り向いて宣言した。


「誰も入るな。入ってきたら犯人と見なして、ぶっ殺すぞっ」


 血走った目で全員を睨み付けると、乱暴にドアを閉めてしまった。完全に天岩戸の構えだ。食糧を掻き集めて閉じ籠もったからには、実験が終わる最終日まで出てこないつもりなのだ。


「大丈夫ですか?」


 神谷が加連に駆け寄った。純粋に加連を心配してのことだろうが、自分の発言が引き鉄になってしまった罪悪感も手伝ってのことだろう。


「大丈夫だ。なんてことはない」


 骨に異常はなく、動くのに支障はない。痛みはまだ残っていたが、保積の身勝手な行動に憤る気持ちの方が強かった。


「……仕方がない。我々はここに固まって休もう。ソファで休めるし、男は床に寝転がればいい。保積の部屋も見張れるしな」


 加連が意識せず使った見張るという言い方は、保積と加連たちの間に隔たりを感じさせるものだったが、言外に互いの動きを監視する意味が含まれているのは間違いなかった。保積を戒めながらも、この中の誰かが犯人役である可能性を否定できないでいる。

 星埜が動いた。あまりにもさり気なかったので、階段を上がっているのに半ばにくるまで止められなかった。


「星埜さん?」

「僕も部屋に籠もらせてもらいます」

「星埜さんっ」


 突然の星埜の離反に、加連は慌てた。八人目の存在を仄めかしたにも関わらず、自分の推測をあっさりと捨てた。控えめながらも肝心な時に引っ張ってくれたのは、仲間のためだったはずだ。なんの根拠もなかったが、彼は最後まで一緒に行動を共にしてくれると信じていた。それは加連の勝手な思い込みだったのか。


「最初からこうするのが正解だったのかも知れない。これで少なくとも襲われずに済むでしょう。これまで接点のなかった男女が一致団結しようなんて、どだい無理があったんです。犯人役を特定することは難しくなりますが、生き残れば勝ちです」

「一人になるのは危険だ」 

「昔読んだ小説で、容疑者全員が犯人だったというのを思い出しました。犯人役が我々の中にいる可能性が一パーセントでも発生した時点で、轡を並べるのは不可能なんですよ」

「そんなことはない。まだ協力し合えることはあるはずだ」

「皆さんの無事を祈ってます」


 取り付く島もなく、星埜は部屋へと消えていった。扉を閉める音は激しくなかったが、分厚さを連想させた。互いに疑心暗鬼になるのは時間の問題だったのかも知れないが、こうまで急転直下で訪れると、対策の立てようがない。考える暇も与えられず、解にたどり着く前に事態が進行してしまっている。

 サンクチュアリに入ってから、もっとも長い夜が始まろうとしていた。

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