第17話 不自然

 凄まじい悲鳴で、加連の眠りは破られた。元々が浅い眠りだったが、目が見開かれる目覚めだった。今の悲鳴は神谷の者だった。自分にもこんな素早い動きができるのかと思うほど、ベッドから飛び起きて階段を駆け下りた。


「どうしたっ」


 神谷は左手で口を押さえ、右手でキッチンを指さした。戦慄きながら、一歩二歩と後退る。

 只事ではない彼女の様子に、加連の頭に最悪の場面が過った。昨日、あれほど侵入経路を塞いだというのに、犯人は屋敷に潜り込んだというのか。

 青ざめる神谷の横をすり抜け、キッチンを覗いた。


「うぁっ!?」


 畔蒜が倒れていた。シャツの鎖骨辺りが血に塗れて赤く染まっている。談笑しながら料理を作っていた女性陣と、血を流して倒れている畔蒜の画が重なるのを拒み、なにが起きたのか理解が遅れた。


「畔蒜っ」


 畔蒜の脈を見ようと屈んだ時、彼女の口から呻き声が漏れた。


「生きてるっ」


 神谷に応援を呼んでもらおうとしたが、それには及ばなかった。星埜も保積も、緊張した面持ちで立っていた。


「彼女は生きてるっ。手当てをっ」

「て、手当てったってよお……」


 保積は完全に及び腰になっていたが、星埜は前に進み出た。


「診せてください」


 加連は素早く場所を空けた。星埜は屈んで畔蒜の傷を調べた。


「大丈夫。このくらいなら命に別状はないはずです」

「助かるのか?」

「ええ。血の量が多いんで驚いたでしょうが、致命傷ではありません。すぐに処置すれば助けられます。ソファーまで運んで手当てします。保積さんも手を貸してください」

「ああ…ああ」


 立ち尽くしていた保積だったが、呼ばれると弾けるように動いた。タオルを首に宛がい、加連と二人で慎重にリビングのソファーまで運んだ。

 星埜の治療は雑だった。傷口を瞬間接着剤で塞いでしまうという、のけ反るような乱暴な処置だったが、とりあえず出血は止まった。彼が言うには、小説を書くに当たって緊急治療を色々と調べたことがあって、接着剤で止血する方法があるのを読んだ記憶があるとのことだった。


「医療に関してはド素人ですから。でも、これで安静にしていれば平気です。あとは畔蒜さんの治癒力に期待しましょう」


 処置を終えた星埜の額は、汗が玉となって張り付いていた。やり方は荒かったが、相当に神経を削ったのがわかる。

 加連は、星埜がいてくれて助かったと胸を撫で下ろす思いだった。彼がいなければ右往左往するばかりで、助けられるものも助けられなかった可能性がある。

 畔蒜は今、寝息を立てている。苦痛なリズムは刻んでおらず、安定しているのがわかる穏やかな寝息だ。


「神谷さん」

「はい」


 星埜から呼ばれて、神谷は反射的に声が上擦った。第一発見者でありながら、ほとんどなにもできなかったのを恐縮しているようだ。


「畔蒜さんを看ていてくれませんか。保積さんも」

「そりゃあ、いいけどよ……」


 保積は落ち着かない様子だ。なにか言いたげなのに、適当な言葉が見つけられないでいる。


「お二人はどちらに?」


 保積が訊きたかったであろうことを、神谷が質した。彼女の方は、落ち込んでいるものの平静さは取り戻している。


「犯人の侵入経路を調べます」


 星埜は立ち上がり、加連を目で促した。犯人がどこから潜り込んだのか。それは加連も疑問に思ったいたことなので、否も応もなく星埜に同調した。

 廊下を進んでいるだけで、喉がひりつく。言葉が引っ掛かって、口から出るのを拒んでいる。

 一応の安全地帯だと思われていた屋敷なのに、いとも容易く侵入を許した。即席のバリケードなど気休めに過ぎなかったのだ。

 屋敷内をくまなく探す必要などなかった。開けっぱなしの窓が一つ、あっさりと見つかった。ガラスの一部が破られ、開かないように縛られていた紐が切られていた。少しでも侵入の邪魔になるようにと配置された小物も床に散乱していた。


「こんなに簡単に……」


 冷気を含んだ空気が流れ込み、そこだけ温度が低かった。ただの温度差だけのはずなのに、加連は狂気の残滓を見た。禍々しさを内包した境界線が張られている気がした。

 ちゃちな防犯装置だったが、まさか屋敷内にまで侵入する大胆さはないだろうと、無意識に高を括っていた。悲惨な光景を二度も目の当たりにしたのに、自分の身には起きるはずがないと。都合のよい気楽さで自我を保っていたのだと、指を指されて罵倒された気分だった。

 星埜は、破られた窓を具に観察している。彼を見ていると、鼓動が落ち着く。星埜に慚愧の念はないのだろうか。科学者のような冷淡な所為は、感情の欠如を思わせる。それとも、自分の肝の小ささを認めたくないだけか。

 人の気配に振り向くと、神谷が駆けてくるので驚いた。彼女は二人よりも破られた窓を凝視して目を見開いている。


「どうしたんだ。畔蒜を看ててくれって頼んだだろ」


 声が険しくなってしまった。神谷が怯えて加連の前で立ち尽くした。


「あ、ごめん。……畔蒜の様子は?」

「畔蒜さん、意識が戻りました。話すこともできます」

「本当かっ。それはよかった」


 吉報に加連が喜び、星埜も視線を神谷に移した。


「状態は安定してますか?」

「はい。落ち着いてます」

「それでは、彼女から話を聞きましょうか」

「ここはもういいのか?」

「ええ。もう見るべきものはありません。それより、襲われた時の状況を知りたい」


 目では見えない、手では掴めない流れというものがある。星埜はサンクチュアリの中における探偵役になりつつある。ならば自分は、探偵を補佐する助手役を務めればよいのか。

 リビングに戻る二人の背を見ながら、加連は己の立ち位置を探した。



 出血のわりには軽傷だったらしく、畔蒜の意識はしっかりとしていた。ただ、襲われたのが相当ショックだったのは、青ざめた彼女の顔を見るまでもなく察せられた。

 星埜は畔蒜の精神を慮りながらも、襲われた時の詳細を求めた。畔蒜も思いやりを要求している場合ではないと気丈に振るまい、ぽつぽつと話し始めた。


「喉が乾いて、水を飲もうと降りたの。冷蔵庫からミネラルウォーターを取ろうとハンドルに手を掛けた時に背後で物音がして、振り向いたらいきなり切りつけられて……」


 その瞬間の体験が脳内で再生されたのだろう、畔蒜は言葉を詰まらせた。


「犯人の特徴を覚えてますか? 男だったか女だったか、背は高かったか低かったか……」

「わからない。なにしろ振り向き様にいきなりだったから……」

「ふうむ……」

「あの……」


 二人の間に、神谷が割って入った。控えめながらも芯の通った喋り方だった。


「窓が破られていたそうですが、私、眠りが浅くて、窓が割れる音がしたら起きちゃうと思うんですけど……」


 保積が追従した。


「おお。俺もそうだ。なんだか神経過敏になっちまってよ。そんな音がしたなら、気付きそうなもんだけどな」

「まあ……音を立てずに窓を破る方法なら、いくつかありますから」


 言うものの、星埜も自信がなさげだった。


「もしかして、犯人役には特殊な能力があるんじゃないか?」


 加連は今さら言っても詮ないことを口走った。苦労して設置した防犯装置がなんの意味もなさなかったので、せめてもの負け惜しみだった。四人の視線が集まったので、荒唐無稽と思いながらも続けた。


「どんな場所でも出入りできたり、どんなに動いても体力が減らなかったりとか」

「それはありません。前にも言いましたが、サンクチュアリは飽くまで現実に則した世界です。犯人が優位に立つような設定はされていないはずなんです」

「……しかし、たった一人相手に、もう三人もやられているんだぞ。いずれも絶妙なタイミングで襲われている。四六時中監視してなきゃできないことだ。犯人はどこに潜んでいるんだ」

「もしかすると……」


 神谷の呟きに、今度は彼女に視線が集まった。彼女はそのまま俯いて黙り込んでしまった。喉元まで出かかっていた意見を、眼力の圧で押し返してしまった。


「なにか言いかけたね。言ってごらん」


 先ほど尖った言い方をしてしまった罪悪感もあり、加連は慣れない媚を含んだ言い方をした。それでも、神谷はもごもごを口内で言葉を転がしている。それほど言いづらいこととはなんなのだろうかと、訝しい気持ちが湧き上がる。


「明莉ちゃん」


 畔蒜の弱々しい笑顔に、神谷は顔を上げた。


「どんな考えでも言ってみて。思わぬところに助かる方法があるとも限らないし」


 畔蒜に勇気づけられた神谷は、考えを整理するために数秒沈黙した後、自説を展開した。自分よりも一回りも離れた大人に囲まれて気持ちが萎縮しかけたが、それほど突拍子もない説ではない自信はあった。


「やっぱり、犯人役の人には、それなりのアドバンテージが与えられてると思うんです」


 星埜が特殊能力を否定する前に、神谷は急いで説明を続けた。


「たとえば、島の地図やこの屋敷の鍵を予め渡されていたりとか……」


 加連は思わずあっと声を出した。星埜も驚愕を隠そうとしない。もしかしたら、今の声は彼が漏らしたものだったのか。畔蒜と保積は、パソコンがいきなりフリーズした時のように茫然としている。

 あまりにも単純な発想だったので、却って考えが及ばなかった。眼鏡を額に引っ掛けているのに、見つからないと必死に探すのと同じだ。


「だとしたら、戸締まりなんか意味なかったってことじゃねえか。正面玄関にはなんの工夫もしなかったんだから」

「……それだと、わざわざ窓を破って侵入したのはなぜでしょう?」


 星埜が、波紋の上にさらに波紋を作った。推察と想像が綯い交ぜになる。考察すればするほどなにが正解なのかわからなくなっていく。完全に悪循環に足を囚われてしまった。


「窓は破られてないのかも……」


 神谷が不思議なことを言い出した。加連たちは破られた窓からの侵入の形跡を発見しているし、彼女もしっかりと見たはずだ。だが、彼女の意見は無視してはいけないと、加連の勘が告げていた。まだ人生に揉まれていない分だけ、純粋な目で物事を見抜くことだってある。


「でも、窓は実際に破られていましたよ?」


 星埜は質しながらも、促すような視線を神谷に投げ掛けた。彼も加連と同じことを感じ、反論を期待しているのだ。


「あの窓の破られ方、なんか不自然じゃありませんでしたか?」


 神谷は加連と星埜を上目遣いで見た。同意してほしいのだ。加連は回想した。窓はどのように破られていたか。


「……破片がなかった?」

「正確には、破られていた穴に対して、破片が少なかった、です。屋敷の内側から割れば、あんな風になります」


 加連には、神谷が言わんとしていることが理解できなかった。いや、理解はできたのだが、認めるのを脳が拒否した。

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