第11話 事件

 湿り気のない風が気持ち良かった。太陽が照りつけるが、絶え間なく吹く風のおかげで暑さはない。春の終わりと梅雨の始まりの間に訪れる、五月晴れを思わせる爽やかさだった。

 南国の島という設定なのだろうか。現実でも、こんな場所で暮らすことができれば……。

 神谷の視野から水平線が消えて、薄汚い部屋が挿し絵として嵌め込まれた。

 装飾されているのに、飾り気のない室内に色は乏しく、虚しい時間だけが通り過ぎていった。

 色彩が淡い時間は神谷の人格を形成するのに少なくない影響を与え、極力目立たず、カメレオンのように周囲に溶け込む術を身に付けた。

 早く社会に溶け込みたい。今の自分は、熟して枝から落ちたばかりの果実だ。早くなんとかしないと、虫に集られるか腐って溶けてしまう。そうではなく、風に運ばれたり種を啄まれて、まったく新しいスタートを切りたいのだ。その際、少しでも障害をなくしておきたい。そのための資金と経験を得ておくために、内緒でアルバイトに応募した。爪の先が引っ掛かれば僥倖だと、手当たり次第に応募をしまくった。そして、受け入れられた。

 ここでの七日間が現実でも同じ日数を経るのなら、少々厄介なことになる。けど、なんとかなるはずだ。行き先も告げずに数日間外泊して、周囲に迷惑を掛ける痴れ者なんて星の数ほどいる。それでも最後には、うやむやに治まるのと一緒だ。

 視界は部屋から再び緑と青に戻った。たしかここらへんだった。視線を巡らせると、深緑の中に色とりどりの空間を見つけた。自分が育った環境とは真逆の美しさに桃源郷を見た。仮想空間に理想を描くなんて、心に闇を飼っている証拠だ。自立を望みながらも、すぐに消極的な思いに囚われる。自分の内向的な性格に、胸が重たくなる。


「………………」


 気持ちを切り替え、歩調を速めた。森に一歩踏み込んだだけで、神谷を包む空気がひんやりと肌寒いくらいになった。



 やはり一緒に行けばよかったか。

 加連が心配し始めたタイミングで神谷が帰ってきたので、ほっと胸を撫で下ろした。


「おかえり。やけに時間が……」


 加連は途中で言葉を切った。神谷が肩で息をしていたからだ。顔が紅潮しているのに明らかに調子が悪い状態だとわかり、汗も大量に滴らせている。単に走って帰ってきただけではないのがすぐに察せるほど、鬼気迫るものを感じ取った。


「どうした?」


 ただ事ではない様子に、少女に向ける柔らかい姿勢など吹き飛んだ。加連は神谷に詰め寄った。一手遅れて、星埜や畔蒜も集まった。


「み、み……」

「なんだよ。どうした?」 


急かす保積を、加連は眼力で黙らせた。保積は胸を押されたように身をのけぞらせた。


「美緒さんが……」


 加連と星埜は顔を見合わせた。昨日、登山の途中で交わした会話が甦る。畔蒜たちは直感的に感じるものはないようだが、なにかがあったことだけは受け止めて焦っている。


「俺が様子を見てくる」

「僕も行きます。神谷さん、大体でいいので場所を教えてください」


 神谷は何度もつかえながら喋った。拙い説明ではっきりとしたイメージは浮かべられなかったが、余裕をもって臨んでいる場合ではなかった。


「畔蒜さんたちは、神谷さんを落ち着かせてください。それと、なるべく固まって待っててください。保積さん、七尾さん、頼みますよ」

「お、おう?」


 保積は反射神経だけの返事をした。事態の急変についてこられていない。横でおろおろしている七尾も同様だ。抜き差しならないことが起こっているのだけは肌で感じ取っているも、具体的な行動に移れないでいる。星埜は二人に託したが、万が一の時には畔蒜がもっとも頼りになる気がした。

 加連たちは屋敷を出ると同時に駆け出していた。焦燥が背中に張り付いたみたいに全身が押し出される。


「浜に向かって左側に注意しろって行ってましたね」

「森の向こうにあるそうだから、見逃さないようにしないと」


 走りながらの会話はきつかった。二人ともすぐに無言になり、荒い呼吸と波の音だけが耳の穴に入り込んできた。

 三分ほど走ると、神谷が説明した光景が飛び込んできた。屋敷からは四百メートルくらいしか離れていないが、偶然視野に入るか、意識して探さないと見つけられない。細やかで鮮やかな色彩豊かな絵画だった。


「星埜さん、こっちだ」

「は、はい。どうぞ、先に行ってください」


 体力的には加連の方が勝っていた。星埜は息切れしながらも、早く行けと身振りで示した。加連は言われるまでもなく森に突入し、枝葉を避けて華の群生地に向かった。



 鮮やかな花の絨毯の中にあっても、納江の体内から解放された赤は一際目立っていた。

 頸動脈を切られたのだろう。納江の首から大量の血が飛び散っており、禍々しい朱殷に蹂躙された花の群れは、我関せずと風にそよいでいた。


「星埜さん、これは……」


 加連は何度も喉を詰まらせた。やっとの思いで発した一言は、毒にも薬にもならない静かな驚愕だった。

 膝をついて納江の遺体を観察していた星埜は、首を捻って加連を見上げた。一見落ち着いているようでも、目は正直に心情を物語っていた。


「……殺されてますね。争った形跡もないし、いきなりの凶刃だったのでしょう。鋭い刃物による一撃です」

「け、け、警察に……」

「落ち着いて。ここは仮想空間です。殺されたのは納江さんのアバターで、現実の彼女はぴんぴんしてますよ」

「でも……」


 星埜の説明は明白だった。小石一つも落ちていない滑らかな拓地だ。ここは仮想の世界であり、我々は怪しげな装置を身に付けベッドで寝ている。わかっている。それでも、すんなりと受け入れられないほど、目の前の光景は惨劇となって加連のまぶたに焼き付いた。


「つまり、これがリタイヤということらしいですね。仮想空間でも、死ねばそれ以上の活動は続けられない。簡単な理屈です。戻って皆さんに報告しましょう」


 立ち上がった星埜の肘を、加連は乱暴に掴んだ。


「戻るって、納江さんをこのままにして?」


 星埜は気分を害した様子もなく、加連の手をやんわりと払った。


「だから落ち着いてください。これがリブルティアが仕掛けた状況だとすれば、一刻も早く皆さんと情報共有しなければなりません」

「…………」

「メッセージの生き延びろというのは、こういう事態を予告していたんです。ある程度の予想はしてましたが、まさか、ここまでストレートな演出を施すとは思っていませんでした。荒唐無稽と笑われようが、用心を促しておけばよかった。今さら後悔しても遅いですが、残念でなりません」

「納江さんは? このままにしておくのか」


 星埜は今度こそ眉根を寄せた。


「加連さん。あなたは仮想の世界に飲み込まれつつある。これは納江さんじゃない。アバターです。ゲームと同様、コンピューターグラフィックスが産み出した幻影です。それに、埋葬するにしても道具がなければ……」


 現実的な反論をされて、加連は引き下がるしかなかった。

 リブルティアは、こんな個人の反応をデータとして残し、後々の開発の礎にするつもりなのか。ある程度の理不尽は承知していたとはいえ、いくらなんでもやり過ぎだ。激しい憤りを抑えられない。果たしてこれは、人道的に許されることなのか。殺人が発生する設定と最初から知っていれば、いくら金のためとはいえ参加などしなかった。


「さ、行きましょう」


 加連に対して、星埜は飽くまで冷静だった。まるで屋敷を出る前から、納江が殺されているとわかっていたみたいに。

 ……わかっていた?

刹那に過った想像に加連は硬直した。そして、一瞬でも星埜を疑った愚を責めた。あまりにも衝撃的な展開を正面からぶつけられたので、神経が昂ぶっている。気持ちが体から離れて、勝手に納得のいく答えを求めてしまっている。


「行きましょう」


 繰り返し促す星埜の背中に距離感を抱く。彼の言う通りだ。まだ二十四時間も経過していないのに、早くも仮想の世界に毒されてしまっている。

 これは現実ではない。なにもかもが嘘。偽りの虚構だ。なにを戸惑う必要がある。

 浮き立つ気持ちを強引に体内に引き戻し、加連は星埜の後に付いていった。

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