第10話 静けさ
微睡みと覚醒を繰り返し、納江は闇を見つめていた。いつもなら枕元にスマートフォンを置くのだが、サンクチュアリでは携帯していない設定だ。頭上がやけに寒々としている。
時刻を知りたかったが、起き上がって確認する気にはなれなかった。ベッドに潜り込んだのが午後十一時過ぎだったから、もう日付は変わっていると思うのだが。
気だるい疲労感はあるのに、なかなか睡眠が訪れてくれない。幼少の頃からそうだった。ちょっとした心配事があったり、日中に嫌な出来事があった日は、眠りが浅かった。神経が細いのだ。嫌になるくらいに。
いくら現実に忠実にしてるからって、こんなところまでは反映されなくていいのに……。
意識の中でも自分の性癖から逃れられないもどかしさが神経を昂らせ、余計に眠りを遠ざける。完全に悪循環にはまってしまった。
私が今こんなことをしているのも、すべてあいつのせいだ。
はじめは面倒見のよい理想の上司だと思っていた。慣れない仕事はわかるまで教えてくれたし、ミスをした時もしっかりサポートしてくれた。上司である以上、当たり前の職務をしていただけなのに、好感を抱き油断したのがいけなかった。
距離が縮まり砕けた接し方になった途端、あいつは欲望を剥き出しにしてきた。あからさまなアプローチに、嫌悪感を抑えられなかった。教わることが少なくなり仕事が楽しくなっていたのに、出社するのが憂鬱になった。波風を立てないようにさりげなくかわしても、木曽屋はしつこく言い寄り、社内でも無責任な囁きが横行するようになった。
精神的に追い詰められていたのだろう。とうとう直球な物言いをしてしまった。振り返ってみると、あんなに激しく罵る必要はなかったように思う。ただあの時は、とにかく木曽屋の絡み付く触手から逃れたかった。
恋慕が憎悪にひっくり返るのは一瞬だった。その日を境に、木曽屋の執拗なパワハラが始まった。同僚の前での罵倒などは当たり前で、過度な残業の強要、徹底した無視、まるで私をいたぶることに生き甲斐を見出だしたかのような病的な攻撃だった。周囲の者は、見て見ぬ振りを決め込んだ。
なにもかもが馬鹿らしくなった。生きているゴミに付き合って、こっちまで濁る必要はない。自己都合という形で退職願いを叩きつけ、あっさりと受理された。最終日の終業時に、木曽屋から浴びせられた台詞は「上司に舐めた態度を取るからだ。自業自得だ」という身勝手極まりないものだった。
悔しさで涙が溢れそうだったが、なんとか堪えた。挨拶もせずに社屋を飛び出し、部屋に帰ってから号泣した。あれほど泣いたのは、小学生の時以来だった。
薄っぺらい男だった。相手をするに値しないと割りきっても、脳の奥底から湧き出る悔しさは身を悶えさせた。汚れなき清流とは言わない。しかし、私の人生は大海に向かうせせらぎだった。あいつに出会ってしまい、汚染された。
こんな怪しげなアルバイトに応募したのも、再出発するための資金が必要だったからだ。失意のまま過ごしていたら、貯金の残高が退っ引きならない額にまでなっていた。
金を貯めて、なにか商売を始めようと考えていた。具体的なビジョンはまだないが、人間関係の怖さを知った後では、会社勤めをしようとは思えなかった。
なんとしてでも成功して、私の人生を台無しにした木曽屋を思い切り見下してやりたい。宮仕えでもがいているあいつを鼻で笑ってやるのだ。それが復讐になる。復讐。今の私は憎しみに支えられて生きている。
己の置かれた環境に理由をつけ、ようやく気が鎮まってきた。ここまで木曽屋を思い出し激しく憤ったのは久し振りだった。保積のせいもあるが、慣れない環境で心がルーティンを求めた結果だとしたら、とんだ皮肉だ。たしかに退職した直後は毎晩のように木曽屋を呪っていた。
気持ちがギスギスしていてはいけない。不思議なもので、表面に出さなくとも人の内側は透けてしまうものだ。誰も気付かなかったようだが、浜から屋敷に着く間に狭いながらも花の群生地を見つけた。あそこから何輪か摘んでこよう。この屋敷は清潔さを保ってはいるが、生活感がまるでなくて殺風景だ。夢奈ちゃんと明莉ちゃんを誘ってみよう。きっと二人も賛成してくれるはずだ。
意識と闇が同化していくのが心地好く、納江はいつしか優しい深淵へと落ちていった。
加連の耳に注ぎ込まれる囁きが、脳を刺激した。風に運ばれる波音で目が覚めた。繰り返し砕かれる飛沫に、自分の人生を重ねる。何度高みを目指しても、抗えない力に翻弄されて結局砂浜に舞い戻ってしまう水粒。結局のところ、何者からも支配されない水平線の向こうにたどり着けるのは、最初から波打ち際に立っていない者だ。
寝起き早々に、考えがネガティブになっている。人間は手足を動かして泳げるのだと、自分に言い聞かせながら起き上がった。
洗面台で顔を洗い、鏡でチェックした。髭が伸びていることに驚き、用意されていた剃刀を使った。なにからなにまで現実に忠実だ。手間も一緒だと苦笑する。
階段を降りると、キッチンからよい匂いが漂ってきた。テーブルには、すでに皿が並べられている。
「おはよう」
背中に声を掛けると、水差しを手にした神谷が向き直り、コンロの前に立っている畔蒜は、首だけで振り返った。
「おはよー」
「おはようございます」
「悪いね。朝食の用意まで」
「いいよ。ただ座ってても退屈だし」
畔蒜の言葉に、神谷が頷いた。
「みんなは?」
「まだ寝てる。あ、星埜さんと美緒さんはさっき出掛けたよ」
「出掛けた?」
「美緒ちゃんが花を摘んでくるって」
「一人で?」
「明莉ちゃんはまだ寝てたし、私は誘われたけど、星埜さんも出掛けるって言ったからお邪魔かなと思って。あの二人、なんかいい感じじゃない?」
「……じゃあ、二人で行ったんだ」
「どうかな。一応、気を利かせたんだけど、星埜さんは屋敷の周りを見ておきたいって言ってたから」
「そう……」
昨日、七尾と神谷は特に異常はないと報告した。それでも自分の目で確認しないと安心できないのか。
自分もぶらっと廻ってみようかと思っていると、星埜が帰ってきた。
「ああ、加連さん。おはようございます」
「おはよう。周りを見てきたって?」
「ええ。素敵なとこですよ。森の木陰はひんやりと気持ちいいし、海が近いのに空気がべとっとしていない。こんな環境なら、創作意欲が湧きます」
二人の会話を、畔蒜が耳敏く聞いていた。
「星埜さん、クリエイターなの?」
「星埜さんは小説を書いてるんだ」
加連が答えると、星埜は大袈裟に手を振った。
「書いているだけです。ネットに上げたりしてますが、あまり読まれてません」
「それでも凄いじゃん」
「書くだけなら誰でもできますから」
「そう? 私なんて作文用紙一枚埋められるかだよ」
「どんな小説を書いてるんですか?」
神谷も興味を持ったようだ。彼女は活発に表を出歩くよりも、図書館で静かに読書を楽しむタイプに見える。
「とりあえず、なんでもです。まだ指針を決められるほど、地盤が固まってませんから。そういえば、納江さんは? まだ帰ってないんですか」
プロではない物書きが自分の作品を語るのはあまりに滑稽と恥じたのか、星埜は声を固くした。成功がない者が自信を持つのは難しい。為すべきこともせずに傲慢な態度に出られるのは、大海の広さを知らない蛙だけだ。
「まだ。てっきり星埜さんと一緒に帰ってくると思ってた」
「彼女とは屋敷を出てすぐに別れました。浜辺の方に花の群生地があったとか」
可蓮と畔蒜は、星埜が気付かない程度にアイコンタクトを交わして苦笑した。畔蒜の計らいは余計なお世話だったようだ。
「いい匂いじゃん。朝飯なんて久し振りだな」
「おはようございます。なんかベッドが気持ちよくて、泥のように眠っちゃって……」
保積と七尾が揃って降りてきた。髪が乱れ放題で髭も剃っていない。この二人、反発しているわりには、妙なところでリンクしている。
「二人ともだらしない……」
神谷が加連に耳打ちした。思わず吹き出してしまい、きちんと身なりを整えてから部屋を出てよかったとくすぐったくなった。
「顔くらい洗ってきなさいよ。明莉ちゃん、お皿を並べてくれない?」
「あ、はい」
朝食の用意がもうすぐ整う。追い返された保積と七尾が戻ってきた。顔は洗ったようだが、髭を剃っていたのは七尾だけだった。保積は七日間ずっと剃らないつもりなのか。
あとは納江が帰ってくるのを待つだけだ。男連中は促されるまでもなく、いそいそと席に着いた。この空腹感も、現実となんら変わらない。
「まだ食べちゃ駄目よ。美緒ちゃんが帰ってくるまで待ってて」
「納江? どっか行ってんのか?」
「花を摘みに出掛けたの」
「花ぁ? なんだってそんなもん」
「誰かさんががさつだから、癒しが欲しかったんでしょ」
畔蒜の歯に衣着せぬ言い方に、加連は堪えきれず吹き出した。星埜も苦笑を滲ませている。
保積は憮然としたが、思ったことをズバズバと言う畔蒜に噛みつくだけの気概はないのか、言い返しはしなかった。その代わり、食事のおあずけを食らっている文句にすり替えた。
「いつ帰ってくるんだよ。せっかくの料理が冷めちまうぜ」
「たしかに遅いですね……」
星埜と一緒に出た話を思い出し、加連は彼に尋ねた。
「何時に出たんだ?」
「かれこれ一時間も前ですかね」
具体的な時間を口にされて急に心配になったのか、畔蒜が動きを止めた。
「加連さん。悪いんだけど、迎えに行ってくれない?」
「それはいいけど、花なんてどこに咲いてるんだ?」
「私が行きます。昨日、ここに来る途中、森の向こうに花が密集してる所があったのを見ました。おそらく、あそこのことだと思います」
「じゃあ一緒に行こうか」
加連の申し出を、神谷は微笑みで返した。
「大丈夫です。そんなに離れてないし、浜辺までの途中だから、すれ違うこともないし」
「そうか……。じゃあ、明莉ちゃんに任せるかな」
加連は畔蒜の反応をちらりと見たが、反対の意は示していなかった。場所がわからない加連を連れて行くより、一人の方が邪魔が入らずに動けると計算したのだろう。
「行ってきます」
神谷は明るく言うと、屋敷を出ていった。
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