第8話 孤島

 登り始める前はなだらかな斜面程度と思ったが、山道を登るのは思いの外苦しかった。息が上がり、脚は早くも痛みを訴えた。仕事の最中は動きっぱなしだったので意識もしていなかったが、加連は日頃の運動不足を思い知った。仮想空間で体力の衰えを自覚するとは不思議な話だが、これが現実を忠実に再現しているのならば杞憂と笑うことはできない。

空はやや曇っているが、青からオレンジへとグラデーションが始まっている。


「すごいな……。シアンからマゼンタとイエローが溶けて、見事なキャロットオレンジに変わっている」

「シアンからマゼン……なんです?」


 聞き慣れない単語が加連から出てきたので、星埜は戸惑った。イエローやオレンジも口にしたので色の話だと見当は付いたが、最初に出てきた言葉は知らなかった。


「ああ、ごめん。シアンってのは水色みたいな色だよ。マゼンタは赤みが強いピンクかな。印刷物はシアン、マゼンタ、イエロー、キープレートの四版で表現するんだよ。俺、印刷業者で仕事してたから。シアンやマゼンタなんかは、家庭用のプリンタでも使われてるよ」

「加連さんは印刷屋さんでしたか。じゃあ、僕の小説が書籍化したら、印刷を頼もうかな」


 星埜は笑った。冗談で言ったのだろうが、加連は彼の夢を叶えてやりたくなった。


「同人誌で文庫小説作ってる人もいるからね。でも、やっぱり出版社から出したい?」

「そりゃ、小説を書く者なら誰だってメジャーデビューを夢見ますから。でも今じゃ、しがらみを嫌って同人誌で稼ぐ人も多いらしいですね」

「そっちで売れるのだって苦労しそうだ」

「違いないですね」


 仮想空間の無限性が覆い被さってくる。サンクチュアリが世間に公表され、スマートフォンのように生活に密着する時代がきた時、人間は危険を冒してまで現実の冒険を求めるだろうか。

 沈黙を嫌った加連は、息切れしながらも星埜との会話の接ぎ穂を探った。


「保積には、なにを頼もうとしたんだ?」

「ああ……」


 星埜もやはり苦しそうだ。息切れしながら一歩一歩登っている。


「我々が寝転がっていた砂浜を見てもらいたかったんですよ。僕も人並みにゲームを嗜みますが、RPGなんかでもスタート地点に重要なヒントが隠されてるもんでしょう」

「ヒント?」

「リビングにあったメッセージ、気になりませんでした?」

「あの生き延びろってとこだろ」

「そうです。普通なら過ごせって書くところでしょう。わざわざ生き抜けなんて、いかにもなにかが起きるぞって予告してるみたいじゃないですか」

「猪口も、刺激する用意があるって言ってたしな」

「危険はないとも言ってましたが、生き抜けとは穏やかじゃありません。もしかすると、なにかしらの脅威と戦う事態も想定しなければ……」

「あっ」


 加連が小石を踏んづけて転んだ。掌が地面に着き、四つん這いになる。


「大丈夫ですか?」

「ああ……」


 掌に乾いた痛みが広がり、土を握り隙間から落とす。これが仮想の世界なんて信じられない。ある意味、悪夢に迷い込んだといっても過言ではない。

 立ち上がりながら、拍手をするようにして土を払った。


「だからヒントか。さすが小説家だな。想像力が逞しい」

「まだそう呼ばれる立場じゃありませんってば。僕がこの仕事に応募したのも、滅多にできない体験に出会えそうだったからです」

「小説を書くのに役立てようと?」

「事実は小説より奇なりっていうでしょ。僕みたいにセンスがない人間は、少しでも多くの経験を培わないと、なにも表現できないんです」


 星埜は口では卑下しているが、目は生き生きとしていた。間違いなく目標に向かって努力する者の目だった。見つめられたわけでもないのに、加連は星埜の眼光に刺された。加連にとって仕事とは生きるための手段であり、食い扶持以上ではなかった。

 育った環境が特殊だったとはいえ、夢を抱くことまで禁じられていたわけではない。今の職場が厳しいと逃げ出したくなっているのも、信念のない芯が細い就職だったからではないかと振り返り、それでも昼夜を逆にしてまで仕えるものなのかと己を庇護する。袋小路の思考であっても、行き着く先は虚無だった。星埜は英国の詩人が残した言葉を引用したが、果たして今の体験は事実と言えるのだろうか。

 山頂までは、星埜の計算と大きく外れず一時間ほどで到着した。標高は三百メートル程度だが、登山に慣れていない加連にしてみれば、相当に歩いた感がある。大きく口を開けて酸素を貪り、しばらくは喋ることもできなかった。

 遠方はかすれて白く濁っているが、スケールの大きさは充分に伝わってきた。全周囲に広がる眺望に感嘆の声を抑えられなかった。世界の中心に立っているような錯覚に陥る。

 日が沈みかけている。砂浜で波を砕いていた青は見事な銀朱へと変貌し、穏やかな凪にしばし憂慮が遠のいた。


「机に齧りついていては見られない光景ですね」


 星埜は目を見開くが、実際にはベッドに寝てヘルメットを被らされている。考えると強烈な皮肉に聞こえるものの、たしかに鬱屈した日常よりも遙かに感動できる光景ではあった。

 視線を巡らせ確認したが、周りは海に囲まれていた。畔蒜の推測は当たっていた。霧が発生しているので遠方までは確認できないが、見える範囲には他の島や陸地は確認できない。

 加連はポケットをまさぐった。どこかに連絡を取らなければならない、或いは情報を得たい際、無意識にスマートフォンに頼る癖が身に染み付いていた。

 だが、ポケットにはなにも入っていなかった。漂着する前に海に落としたという設定に違いない。今の今まで気付かなかったことに軽い驚きを覚えた。それほどまでに、異様な経験に気を取られていたということか。

 スマートフォンを持っていないのが、自分だけとは考えられない。全員が携帯端末の類は身に着けていないはずだ。つまり、離れた者と連絡を取り合ったり、ネットワークから知識を得られない。そういうことだ。リブルティアの底意地の悪さを押し付けられ、体内に毒素が回っていく気分だった。


「どうやらここは、絶海の孤島ということらしいですね」


 星埜の視線は、白い霞を越えて遙か彼方に向けられていた。彼の呟きが加連の慄きを濃厚にした。二人揃って、姿が見えない魔獣が背後に忍び寄っている感覚を味わっているのだ。

 開放された環境なのに、完璧なまでに閉じ込められている。二律背反で固められた設定は、リブルティアからの挑戦状に間違いなかった。保積が望むような楽天的な七日間は過ごさせないぞと、世界中が警告している。


「暗くならないうちに帰りましょう」

「あ、ああ。そうだな」


 涼を含んだ風が不安をさらおうとするも、加連の腹の底までこびりついた懸念は地嵐に乗るのを頑固に拒んだ。



加連たちが屋敷に戻る頃には、夜の帳が下りつつあった。奥の方が騒がしいので覗いてみたら、女性陣がキッチンを占領していた。各自の仕事が終わり銘々に集まったところで、夕食を作る流れになったらしい。畔蒜の報告で、この屋敷には地下室があるとわかった。食糧は七日分には充分すぎるほど保存されているし、電気やガス水道も現実となんら変わることなく使えるとのことだった。スマートフォンが持ち込まれていなかった代わりか、テーブルゲームやトランプなど、暇つぶしに使える玩具まであったという。

 料理には神谷も参加していた。気弱そうな表情が薄らぎ、楽しそうに調理している姿が微笑ましい。加連たちは手持ち無沙汰となった。


「食事の準備が整うまで、自室で休んでていいよ」


 納江がテーブルに皿を並べ始めた。


「そんな、手伝うよ」

「いーから。キッチンは女の聖域なんだから、男なんかに荒らされたくないの」


 納江は、笑いながらもきっぱりと言い切った。そういえば、七尾の姿が見えなかった。彼も追い出されたのか。

 男女を隔てるとは、今時古風な考え方だ。納江の思考の底を垣間見た気がした。保積が引っ込む時、上司に腹が立つ話を漏らしていたが、その上司は男に違いあるまい。男に対して張り合う意識があるのだろうか。


「お言葉に甘えましょう。さすがに疲れました」


 星埜があっさり受け入れたのは、加連にすれば素直に嬉しかった。シャワーを浴びて、汗を流したいと思っていたからだ。


「すごーい。この天ぷら鍋、四角いですよ」

「このフードカッター、便利そう」

「包丁が七本も置いてある」


 キッチンから出る時、背後で女性陣がはしゃぐ声が聞こえた。最近は料理などしない女性が増えたと聞くが、あの三人はそうではなさそうだ。

 七本の包丁。七人の被験者。設定された日数も七日だ。可蓮は疑問を持った。七にこだわりでもあるのか? 七つの大罪。七不思議。七人ミサキ。ヨハネの默示録では、七つの門が登場する。とかく、いわくの多い数字である。

 着替えは用意されてるだろうか。部屋にクローゼットが設置されていたのを思い出しながら、加連は階段を上がった。

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