第4話 ダイブ

 準備として、身体測定と体力測定を受けた。なぜそんなことが必要なのかと質問したところ、仮想空間における個々の運動能力を割り出すためだと言われた。そのためのデータを取る必要があるとの答えが返ってきた。

 思いがけず軽く汗をかいた後は、健康診断を受ける際に着用する検査着のような薄着に着替えさせられた。下着も履いておらず、ひどく落ち着かなかった。そのまま、試験室へと誘導された。

 加連は入院患者が過ごすような病室を想像していたが、連れてこられたのはAVルームを思わせる明るい部屋だった。わざとらしい嗜好は凝らされていないが、緊張を誘わない適度な照明で照らされ、神経をいらつかせない程度の緩やかな音楽が流れている。

 ベッドが八つ並んで配置されている点だけが、間違いなくここで臨床試験を行うのを示唆してた。


「それでは、各々の名札が置かれているベッドに移動してください」


 加連は個室で行うのではないかと訝りながらも、自分の名札を見つけた。ここまできたら、じたばたしても始まらない。

 与えられている情報量が少ないせいか、漠然とした不安で心臓が大きく脈打っていた。それに、猪口や他の職員の態度は丁重ではあるが、建物に入った時から、どことなく剣呑な雰囲気を肌で感じていた。今さら抵抗しても無駄だと、本能で理解していた。他の者はどうだ。本当に納得して臨むのだろうか。

 ベッドに横になる前にスタッフが来て、カプセルを手渡された。それを服用しろという。

 掌のカプセルの見た目は市販されている風邪薬となんら変わらなかったが、滅多なことでは薬を飲まない加連には抵抗があった。

 加連が薬を飲むのを見届けると、スタッフはヘルメットを被せた。


「この夢の装置の名も、サンクチュアリです」


 ヘルメットは仰々しくはなく、意外とすっきりしたデザインだった。ただ、目元まで隠れる深さと、後頭部から伸びる何本ものコードが、保護を目的としたヘルメットではないと主張していた。視界が闇に包まれると、否が応でも気持ちが縮こまる。

 こんなもので、本当に現実と区別がつかなくなるほどの仮想空間に入れるのか。

 加連が抱いた第一印象は、懐疑的なものであった。VRゲームなるものが巷に溢れているくらいは知っているが、加連にはこれまでの人生でゲームに興じる余裕は、時間的にも金銭的にもなかった。


「準備が整いました。それでは皆さん、素晴らしい体験をお楽しみください」


 猪口の声が聞こえた。楽しめという割りには、温度が感じられない冷めたい言い方だった。先ほどの質疑応答で、加連が訊きたかったことは他の者が訊いてくれた。だが、すっきりとしなかった。猪口の返答は不完全で、なにか隠している気がしてならなかった。

 生きるためだ……。このアルバイトをやり遂げれば、まとまった金が手に入る。なにをするにも金はいる。チャンスを掴むためには必要なことなんだ。

 不可避な現実に立ち向かうために、仮想の世界へと旅立とうとしている。質の悪い冗談を言うために、無理矢理ステージに立たされている心境だ。期待と不安を胸に抱きながら、加連の意識は次第に遠のいていった。



 頬に湿った感触が気持ち悪かった。絶え間なく耳に流れ込んでくる響きは喧しく、著しく心を掻き乱した。遠ざかったと思ったら、すぐに引き返してくる。聞き覚えがある音だったが、加連は即座になんの音だったか思い出せなかった。

 湿った物が押し付けられている頬以外は、乾いた熱を感じて心地好かった。今はもうすぐ冬になろうという時期なのに、初夏のような爽やかさだ。ここはいったいどこで、自分の身になにが起きたのか判然としなかった。

 頭がぼうっとする。もう少しだけ、このまま動かないでおこうと決めた矢先、遠慮がちに声を掛けられ、加連は一瞬のうちに覚醒して起き上がった。


「うっ?」


 どこまでも広がる青い空と、ごみ一つ落ちていない白い砂浜。反射に煌めく海に目を刺激され、加連は思わず開いたばかりの目を細めた。


「ここは……」


 海岸であるとは、すぐに認識できた。施設で世話になっていた時に、遠足と称するイベントで海に行ったことがあるし、テレビでも何度か見ている。しかし、どこの海岸なのか、そもそも、なんでこんな場所に呑気に寝ていたのかが理解できなかった。


「ここはどこだ?」


 若洲海浜公園……ではない。あの公園は海に面していたが、砂浜などなかったはずだ。葛西臨海公園でもない。海の透明度が東京湾のそれではない。頬を撫でる風も、海風ではあるが軽さがある。加連は頭を整理しようと、必死に記憶を辿った。

 自分は、仮想空間における人間の心理的影響や行動基準を調査するための、臨床試験を受けたのではないのか? それがなんで、こんな砂浜にいるんだ。わけがわからない。


「あのっ」


 さっきより張った呼び掛けに、加連の思考は声の主に戻された。


「……大丈夫、ですか?」


 か細くも芯の通った声だった。少女が覗き込むように、加連を凝視していた。

 加連はまじまじと少女を見返した。


「きみは……」


 見覚えがあった。試験に臨む前の猪口との質疑応答の際、危険があるのかと訊いた少女だ。この娘も、この場所に連れてこられたのだ。

 少女は心配そうに加連を見つめている。


「あ、ああ。俺なら大丈夫。それより、ここは……?」

「私、気がついたらここで倒れてて……」


 一人ではないとわかり、ほんの少しだけ元気が得られたものの、あまりの不可解な状況に不安は消えなかった。


「きみもケガはなさそう……」


 さりげなく移した視線は更なる異物を拾い、加連の言葉は喉の奥に消えた。

 砂浜には、何人もの人が倒れていた。自分と少女を除けば五人。つまり、この砂浜には七人もの人間が転がっていたことになる。

 七人。……七人?

 加連はまさかと思いながら、倒れている者の顔を順に覗き込んでいった。思った通り、会議室に集った面々だった。中には、苦しそうに呻いて覚醒寸前の者もいた。

 加連を起こした少女も、背後の異常な光景に気付かなかったのか、口に手を当てて立ち尽くしていた。


「大丈夫。全員生きてるよ。え、と……」

「…………?」

「……俺は加連。加連真幸っていうんどけど、きみは?」

「あ……。神谷明莉かみやあかりといいます」

「よし。明莉ちゃん。女の人たちを起こしてもらえるかな。俺は男連中を起こすから」

「はい。でも。どうやって……」

「肩を揺すってやればいいよ。それでも起きなきゃ、頬をひっぱたいてやって。みんな気を失ってるだけみたいだから」

「わかりました」


 加連たちは順々に倒れている者を起こしていった。驚く者もいれば、状況を把握できずに呆ける者もいた。共通するのは、不気味さを隠そうともせず周囲を見渡す行為だ。

 加連がゲームが得意だと言っていた青年を起こしたのと同時に、驚きの声が上がった。


「おい、あそこに家があるぞ」


 指を指したのは、猪口にタメ口を使った男だ。加連が粗暴そうだと印象を受けた彼だった。

 男は家と称したが、小高い丘の上に鎮座しているそれは、屋敷と呼んだ方が相応しい外観をしていた。瀟洒な造りとは裏腹に、圧倒的な存在感は奇天烈さを伴って、加連の心に迫ってきた。なんの根拠もなかったが、あそこが活動拠点になると直感が告げる。

 屋敷の周囲には森林、向こうには山まで見えた。場所に見当がついた者はいなさそうだ。本当にここはどこなのだ?

 何人かが屋敷の方に歩きだしたが、長髪を束ねた男が諌めた。説明会の時にも感じたことだが、落ち着きのある喋り方は知性を感じさせた。


「ここがどこなのかわからないうちは、無闇に動くのは危険な気がします」

「ああ?」


 屋敷を見つけた男が、途端に食って掛かった。常識的な意見を受けただけなのに、異常な爆ぜ方だった。手柄を立てたのに横槍が入って不機嫌になった子供を連想させた。やはり粗暴かつ単純な性格の持ち主だ。受けた印象は間違っていなかった。


「ここがどこだろうが、まずは落ち着ける場所が必要だろ。いつまでもこんな砂ばかりのところにいられるか」

「しかし……」

「しかしじゃねえんだよ。優柔不断な野郎だ」


 粗暴は長髪の意見を無視して、さっさと屋敷に向かった。他の者も迷う素振りを見せながらも、粗暴の後についていった。

 短い嘆息をする長髪に、加連は後ろから話し掛けた。


「今はあいつの方が正しいと思う。俺たちも行こう」


 長髪は驚いたように振り返った。話し掛けられ、はじめて加連がいるのに気付いた感じだ。


「そ、そうですね。物書きなんかしていると、よくない想像が先に立っちゃって」

「小説家なんですか?」

「を、目指す者ですね。ネットに投稿しながらいろんな賞に応募してるんだけど、全然引っ掛からなくて。あ、僕は星埜ほしのっていいます。そっちの彼は大丈夫ですか?」


 長髪は自嘲しながら自己紹介をした。大丈夫かと訊いたのは、加連が肩を貸している青年に対してだ。


「俺は加連です。こっちは……」

七尾ななお七尾利哉ななおとしや。もう、なにがなんだか……」

「きみが好きそうなシチュエーションじゃないですか。ゲーム得意なんでしょ?」


 星埜が冗談めかした。こんな場合でもユーモアを置き去りにしないのは、知性があるからだ。粗暴は彼を優柔不断と罵ったが、冷静に行動できる人間は、どんな状況でも強い味方になる。星埜からは獣の強さではなく、人としての強さが滲み出ていた。

 七尾は、ずれた眼鏡を押し上げた。


「いくらゲームが得意でも、現実に応用できるとは限りませんよ。その程度の分別はあるつもりです。すべてのゲーマーが非常識な人と思わないでください」


 言い方がひがみっぽい気がしたが、加連は敢えて口にしなかった。それよりも、太った彼に肩を貸すのは、ひどく重たかった。つま先に力を込める度に、砂がぎゅっと踏み固められる。


「星埜さんも手を貸してくれ」

「ああ、はい」


 星埜も七尾の腕を肩に回して、二人で七尾を挟む形となった。

 加連が一歩踏み出そうと前屈みにあるが、星埜はその動きに合わせてくれなかった。動くどころか、立ち止まっている。


「見てください。すごい断崖ですよ」


 星埜の視線の先に、高さが二十メートルはありそうな崖が切り立っていた。


「すごいけど、今はそれどころじゃ……」

「いかにも、なにかありそうな気がしませんか?」


 加連は、星埜の暢気さに違和感を覚えた。あまりにも常軌を逸した展開に、脳が追いついていないのかと疑った。こんな時に落ち着いて周囲を見渡せる落ち着きはありがたくはあるが、あまりにも危機感が足らないのも困りものだ。


「行こう」


 加連たちが揃って歩き始めると、後ろから遠慮がちに引き留められた。

 ついさっき、似たような感じで話し掛けられたなと思いながら、加連は首を捻って振り向いた。すぐ後ろに、目を伏せた神谷が所在なさげに立っていた。


「明莉ちゃん。みんなと一緒に行かなかったの?」

「……あの人、なんか怖くて」


 あの人とは、粗暴男を指しているのだろう。喋り方が粗野だと、本人に威張る気がなくても萎縮してしまう者だっている。今は殊更に不安を抱かざるを得ない状況だ。


「ぼ、僕も。なんだか、嫌な感じがする」


 すかさず七尾が同意した。相手の気持ちを軽んじる無神経な者は、どこにいようが疎んじられるものだ。


「うん。でも、今はみんなが協力しなくてはならない時です。大丈夫。きみみたいな女の子に怒鳴る奴なんて、そうそういませんよ」


 星埜が宥めるが、加連は内心で果たしてそうだろうかと疑問を持った。ただ、それを口に出すほど、浅はかではなかった。この時すでに、粗暴男がトラブル・メーカーになる予感を抱いていた。


「ああ。とにかく、これからのことを話し合わなくちゃならない」


 加連の台詞は、半分は自分に言い聞かせたものだ。

 四人は砂に足を取られながら、丘の上の屋敷を目指して歩きだした。確かに上り坂を進んでいるはずなのに、背後の潮騒はどこまでも付いてきた。

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