第2話 入り口
驚いたことに、リブルティアからの返信が翌日に送られてきた。職場にはスマートフォンの持ち込みが禁止されているので、気がついたのは昼休みに休憩室に戻った時だった。
文面の中に面接のご案内との一文を見つけた。加連は一度座ったものの、昼飯に用意したアンパンの袋も開けないで、再び立ち上がった。向かいに座ったバイト仲間の石鍋が、怪訝な視線を向けた。彼はカップ麺ができあがるのを待っている間、スマートフォンを弄りながらツナマヨのおにぎりを頬張っていた。
「どうした。食わないのかよ?」
「ああ、ちょっと……」
加連はとっさに嘘をついた。
「金を下ろさなきゃならないのを忘れてた。戻ってきてから食うよ」
休憩時の外出は禁じられていない。アンパンとペットボトルを、ロッカーにしまってあるバッグに突っ込んで、加連はいそいそと屋外へと出た。
近くにある公園のベンチに腰掛け、スマートフォンのスクリーンを凝視した。自分でも理解できない緊張があり、鼓動が速くなり息苦しかった。
内容は面接をしたい旨が述べられており、日時と場所が記されてあった。
加連は信じられない思いで、何度もメールの内容を読み返した。
決心が付かないまま応募をしてしまったにも関わらず、面接の案内が来てしまった。ここは断るべきだと思うものの、一日十万円の報酬が頭にちらついた。
場所は東京都江東区新木場とある。マップサイトで調べたら、荒川の河口付近であり、社屋から東京湾が一望できそうなほど水辺に近い。周囲には物流センターや木材店が倉庫がやたら多く、住居や商業施設はほとんどない。
加連の自宅からなら、電車かバスを利用すれば近くまで行ける。降りてからは二十分ほど歩くことになるだろうが、その程度ならなんの障害にもない。勤務中の職場内での移動の方が、遥かに多い時間を歩いているくらいだ。
問題は日時だった。指定されているのは加連の出勤日と重なっていた。だが、当日の朝に仮病を使えば休めるはずだ。一日分のバイト代は差し引かれるが、急な病欠が出ても対処できるだけの環境は整っている。不満が多い中の、数少ない利点だった。
「……………………」
怪しいとは思う。思うものの、なにか思いきった行動に出なければ、現在の惨めな生活を打ち破るなど不可能なのではないかと、己を鼓舞する気持ちがあるのも否定できなかった。
仕事内容に疑問はあるが、報酬額だけを見れば破格の好条件だ。何人も応募しているに違いない。
採用なんかされないさ。もし採用されたとしても、やばいところだったら逃げ出せばよい。昨今は一日も経ずして辞める奴だって珍しくない。
そこまで考え、加連は自分が面接を受けることを前提に考えているのに気がついた。レジュメを送った時には、断ればよいと考えていたのにだ。絶壁の崖から飛び降りる真似などできないが、坂道さえあれば降りていける。冷静に考えればそんな心境だったのだろうが、今の加連はその冷静さに欠いていた。
虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。
加連は自分の意思が宿っているのか離れているのかわからない曖昧な指先で、指定された日時と場所に訪れる旨を返信した。
まるで一仕事終えたような虚脱感があり、休憩が終わってからの仕事がひどく億劫になっていた。
秋も深まり、今日は風が冷たい。この寒空の下、幼い子供が母親と手を繋いではしゃいでいる。信じられないことに半袖半ズボンといういでたちだ。
加連は、無邪気に笑う子供を眺めて、できることならあの年齢くらいから人生をやり直したいと切に願った。だが、すぐにやり直したところで同じような人生になるのではないかと、諦念を押し付ける自分もいた。
面接当日は、空気が澄んで晴れ渡っている秋晴れだった。清々しい空と、ひやりと頬を刺激する空気が、気を引き締めるのに一役買っていた。
指定された建物に行くのに、加連はバスを利用した。電車だと自宅から最寄りの駅まで離れているのと、何回か乗り換えなければならないのが煩わしかったのが理由だ。もし働くことになったら、この路線を利用することになるだろう。通勤の混雑がなければいいなと思い、気が早いと口角を上げた。
新木場駅前のバス停からは、若洲海浜公園に向かって歩いた。予めマップサイトで調べてきたので、迷う心配はなかった。駅周辺は、本当に都内の駅前なのかと疑いたくなるほど色気がない。今はスーツを着たサラリーマン風の人々がスマートフォンを弄りながら歩いていたり、バスを待っていたりするが、夜になったら人の往来など殆どなくなるのではないか。
風の匂いが地元のものと違った。敏感な人なら気付く程度のべたつきがあり、鼻腔を刺激した。ここから東京湾は目と鼻の先だ。潮の匂いが混ざっているのだと思った。
目指す建物はすぐに見つかった。七階建ての白百合色で、リブルティアは三階にあった。眼前には貯木場があり、まさに湾岸だった。深呼吸を一つして入館し、案内板に従って三階まで上がった。特に理由があったわけではないが、エレベーターは使わずに階段を使った。
窓からは河口から東京湾に繋がる景色が眺望できた。遠くに見えるのは東京ゲートブリッジか。たしかに恐竜が向かい合っているように見える。水面がきらきらと反射して眩しかった。汚れきった東京湾でも、輝く光がちらちらと遊ぶ風景は、それなりに目の保養になるものがあり、なんとなく心を浮き立たせた。
ドアホン越しに来訪の旨を告げると、程なくして事務課に所属しているらしき女子社員が姿を現し、加連を応接室へと案内した。座るよう勧められ、面接担当者が来るまで待つよう指示された。淀みのない動作で、何度も応募者の対応を繰り返しているのだと想像させた。
加連はさすがに緊張していた。自分の意思で来訪したはずなのに、目に見えない力に導かれてここまで来たような、落ち着きのなさを拭えなかった。
面接は何度か経験しているのに、扉をノックされた時には心臓が跳び跳ねた。
現れたのは、スーツ以外の服は似合わないのではないかと思うほど、折り目正しそうな男性で、髪型も姿勢も視線さえもピンと一本筋が通っていた。
「本日は、お忙しいところをお越し頂き、ありがとうございます。担当の
卯月の声は柔らかく、安心を誘う響きを持っていた。年齢は加連とさほど違わないように見えた。自分と同世代の者が、スーツを着こなし面接を担当する立場にいることに、加連は灰色の嫉妬を覚えた。
質疑応答は、無難な内容で進んだ。これまでの職歴や志望動機などだ。しかし、加連の場合は避けられない反応が必ずあった。
「ご家族はいらっしゃらないのですか?」
家族構成を無記入で提出しなければならない履歴書は、毎回加連を憂鬱にする。これまで面接の度に説明してきた自分の生い立ちを、ここでもしなければならなかった。
加連の話を聞き終えた卯月は、絞り出すように言った。
「それは、大変ご苦労なさいましたね」
今さら同情や憐れみを求めることではないので、加連は曖昧に「いえ、まあ……」と答えておいた。
卯月からの質問が終わり、加連から訊きたいことはないかと言われた。
ここで質問の一つもないと、大して執着していないと思われる。加連はこれまでの面接の際にも、必ずなにかしらの質問は用意していた。
「仮想空間での被験者の反応とは、具体的にどのような内容なのですか?」
卯月はにっこりと微笑んだ。
「やはり気になりますか?」
「そりゃまあ……。なんだか未来的な話で、今一つぴんと来なくて」
「皆さん、そう仰います。今、加連さんは未来的と表現しましたが、まさにその点にこそ、今回の仕事の重点があるのです」
卯月は重大な秘密を打ち明けるように、一拍置いた。
「リブルティアは、究極の仮想現実を体験できるシステムの開発に成功したのです」
「究極の仮想現実?」
「そうです。つまり、今いる現実と仮想の世界との区別がつかないほどの、完璧なリアリティを追求したシステムです。我々はそこを聖域を意味するサンクチュアリと名付けました」
「………………」
加連が黙っていると、卯月は加連の反応を楽しむように、口角を上げて返事を待った。
「いや、でも、現実と仮想空間の区別がつかないなんて、あり得るんですか?」
「できます。認識とは所詮電気信号による脳への刺激なので、直接それらをコントロールできさえすれば、どんなシチュエーションでも現実と認識できるのです。我々はそれを可能にする革新的なシステムの開発に成功したのですよ」
「それはつまり、脳に直接電極を刺すとかですか?」
そんな仕事であったなら断固辞退しなければならない。新薬の臨床試験より質が悪い。加連は腰を浮かしたいのを、なんとか堪えた。
加連の反応が愉快なのか、卯月は白い歯を見せながら説明を続けた。
「そんな風に誤解されたのは、加連さんが初めてじゃありません。今、猟奇的な絵面を想像されたのでしょうが、失礼ながら古風なイメージと言わざるを得ません。簡単に言うならば、わずかばかりの投薬と専用のヘルメットを被ってもらえれば、仮想空間へのダイブは可能です」
「ヘルメット? そんな物で?」
「言ったでしょう。革新的なシステムの開発に成功したと。ただ、実用化するにあたって、無作為に選択した人たちに仮想世界での生活を体験してもらい、忌憚のない意見を聞きたいのです。それで今回、開発に携わっていない一般人のアルバイトを募集したのです。どうです?」
卯月は参加する意思があるか確認してきた。ここは慎重に進めなくてはならない場面だ。加連の脳内では、報酬と健康を乗せた天秤が揺れていた。
「……身体や精神に害が及ぶなんてことは……」
卯月は柔和な表情は変えなかったが、片方の眉をぴくりと動かした。注目していなければ気付かないほど、ほんのわずかにだ。
「それはない……と言いたいところですが、残念ながら断言はできません。そういった事態を含めての、今回の臨床試験なのですから」
「そんな……危険じゃないですか」
「だからこそ、高額の報酬を用意したのです。一日で十万円となれば、加連さんだって普通のアルバイトではないと覚悟して来られたのでは?」
加連は反論できなかった。たしかに、金に釣られてきた。単に肉体的にきついとかの類いではないと勘づいてもいた。だからこそ、面接に来る際にも尋常ではない緊張を感じたのだ。
加連が後込みしたのはわかっただろうに、卯月はなにも気付いていない態を装って話を続けた。
「と言っても、それほど構える必要はありませんよ。脳内の反応は常にチェックしますし、危険と判断したら、ただちに戻れる態勢も整えています」
「脳の動きが、わかるんですか?」
「もちろん、映像に投影することはできませんが、緊張やリラックス、怖れや怒りなどは、数値として可視化できますから。あまりにも負担が大きくなったら、仮想空間から脱出してもらいます」
「……危険や怖れと仰いましたが、それはつまり、仮想世界ではそのようなことを経験するという意味ですか?」
「まあ……脳の活動を調べるわけですから、それなりに刺激的なシチュエーションは用意してあります。ですが、心臓が止まるほど過激なものではありません。死者を出してしまったら、開発中止はもちろん、我々だって無事には済まないのですから」
卯月は不器用な笑みを浮かべた。どうやら、本人はジョークを言ったつもりらしい。
「いかがですか? 話を聞いたからといって、無理矢理強制するようなことはしません。辞退なさいますか?」
まるで加連を試すような口調だった。挑発していると言ってもよい。
このまま辞退すれば、薄気味悪い不安は終わりにできる。臆病者と思われるのが癪というわけではない。ただ、高額の報酬はやはり魅力的だった。
「その……募集要項には、成功報酬ともありましたが?」
「それは、採用された方のみにご説明致します。条件が試験内容に関係あるものですから」
加連は悩んだが、すでに返事は決まっているだろうと囁く心の声が聞こえた。
「……やります。ぜひ、自分にやらせてください」
加連の意気込みに、卯月の瞳の奥が光ったように見えた。
「加連さんの意思は確認致しました。ですが、他にも応募された方がおりますので……」
「あっ、はい。返答は検討されてから……」
「それでは後日、メールにてご返答させて致します」
加連は、これで面接は終わったと判断した。面接が始まる前と同様に鼓動が落ち着かなかったが、ゆっくりと立ち上がった。
「今日はお時間を頂きまして、ありがとうございました。なにとぞ、よろしくお願い致します」
深々と頭を下げて、退室しようと卯月に背を向けた。しばらく間を置き、加連は振り返った。
卯月も立ち上がっていた。まともに視線が絡み合った。
行儀が悪いと思いながらも、加連は気になったことを確認した。
「すみません。もう一つだけ、よろしいでしようか」
「なんでしょう?」
卯月は、とくに抵抗もしないで受け入れた。
「募集要項には、期間は七日間とありましたが……」
「はい」
「それは、つまり……仮想空間で七日間を過ごすということですよね?」
「その通りです」
「仮想空間で七日間過ごしたら、現実でも七日間経っているのでしょうか?」
卯月の目が変わった。視線は動かずに加連を捉えているのに、彼を透かしてもっと遠くを見つめているような感触だった。
「申し訳ありませんが、その質問には答えかねます。時間の経過をどのように体感するかも、試験に含まれますので」
「……そうですか。余計なことを訊いてしまい、すみませんでした」
「いえ、なかなか鋭い視点をお持ちだ」
「いえ、そんな……。それでは、失礼します」
加連は改めて礼をして、ゆっくりと扉を閉めた。加連が出ていくまで、卯月は飽くまで笑顔を崩さなかった。
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