第1話 誘い

 年明けは無職で迎えた。通常は近所の土手まで行って初日の出を拝んだり、神社に詣でたりしていたが、とてもそんな気分にはなれなかった。昼近くまでを布団の中で過ごした。

 あの日、倒産の報告があった後で、事後処理をするために一ヶ月ほど残ってくれないかと持ち掛けられたのだが、考えるまでもなく断り真っ直ぐ自宅に帰った。三ヶ月間は失業手当を受け取り無職で過ごしたが、どんなに節約しても生活にかかる支出はゼロにはできない。貯蓄は目に見えて減っていく。生きるためには糧を得なくてはならないという、当然の摂理からは逃れられない。

 加連は、完全に干上がる前に就職活動を始めた。高望みはしない。人並みの生活が送れるだけの収入があればよい。それでも、一度社会から落ちこぼれてしまった加連に、世間は思っていた以上に冷たかった。

 就職活動には求人サイトを活用した。デスクトップパソコンなど持っていなかったが、スマートフォンがあれば閲覧も応募も可能だった。求人サイトに登録しレジュメを書き込むだけでも、胃の辺りに熱い燻りを感じた。

 最初はこれまで就いていた仕事内容と同じ職で、正社員の募集をしている先に応募しまくった。会社は低迷の波に飲み込まれて沈没したが、加連自身に不手際があったわけではない。それなりの経験を積んだ自負が、同じ仕事を欲するのは当然の権利だと主張した。

 中には通勤時間が二時間近くの会社まであったが、贅沢は言っていられなかった。百社に迫る数の会社にレジュメを送ったが、面接までこぎ着けられたのは、たったの四社だった。

 連絡をくれた先には、すべて赴いた。まさに藁を掴む心境の面接だったが、結果はいずれも不採用だった。

 採用までこぎ着けられなかったのは、面接の時に例外なく質問された内容のせいだと思った。なぜ卒業後に就職した会社を一年余りで辞めたのか。その後の三ヶ月間はなにをしていたのか。そして、家族はいないのか。

 どんなに声を大にしても、当事者にしかわからない心境がある。社長の経営手腕が至らず、倒産の憂き目に遭ったのだと訴えても、面接官の反応は一様に淡白だった。家族はいなくとも、まっとうな養護施設で育てられた。きちんと学業も修め、高校まで卒業していると話しても、苦労は伝わらなかった。少しずつ人としての尊厳を削られていく。これでは自身に問題があるみたいではないか。加連は自覚できないくらいにゆっくりと濁っていった。



 安アパートの自宅に入った途端に、全身が重たくなった。蓄積された疲労が一気に表面まで浮き出て、視界が焦点を結ばなくなる。

 靴も脱がないまま、その場にしゃがみこみたい衝動に駆られた。踏ん張っても踏ん張っても、重たい石を両肩に乗せられたみたいに、全身が沈み込んでいく。それは人生の重みではなく、執拗に加連をいたぶる運命の重さだった。

 加連が借りているのは、玄関を開けたらすぐに居住スペースになっているワンルームタイプだ。風呂は三点ユニットバスで、ゆっくりと湯船に浸かって疲れを落とすなどとてもできない。

 どこで間違ってしまったのか自問するも、明確な答えになどたどり着けない。もっと頑張れば報われたのか。もっと要領よくやればすり抜けられたのか。常日頃から経済の動きを勉強していればよかったのか。どれも一理ある気がするし、それでも自分には無理だったのだろうと自虐的に思う。ここのところ、まぶたを閉じると養護施設の職員や児童の顔がやたら浮かんだ。再就職に悉く失敗したのは養護施設出身だからだとは、意地でも考えたくなかった。

 いつまでも突っ立っているわけにもいかない。今晩もスマートフォンで求人サイトを眺めながら、コンビニ弁当で夕食を済ませよう。

 今従事しているアルバイトは、最初の就職先と同じ印刷業者だった。二十四時間稼働している出力部門があり、夜間のDTPオペレーターを募集していたので応募した。夜勤というのが抵抗があったが、採用が決まった時には歓声を上げるほど喜んだ。しかし、作業内容はDTPとは名ばかりで、実際にはオンデマンドで出力した紙媒体をカットしたり、パネルに張ったりして商品にする仕事だった。パソコンを操作して出力する作業もあるにはあったが、作業全体の一割にも満たなかった。

 頭は使わないが、体を酷使する。なにしろ、一日中立ちっぱなしの動きっぱなしなのだ。休日は土日祝日と決まっておらず、月末に休みたい日を申請する方針だ。おかげで面接は受けやすい。それでも、夜勤明けから自宅に帰らず面接を受けるのも、かなり気力を振り絞っての行為だ。早くよい結果を得られなければ、いずれ限界が訪れて、再び無気力に陥ってしまう不安があった。

 加連はテーブルにスマートフォンを置き、もう何度も訪れた求人サイトを閲覧した。帰りがけに買ったのはハンバーグ弁当だ。ハンバーグと飯を交互に口に放り込み、咀嚼する音だけが室内を漂った。いつの頃からか、食事はもっとも孤独を実感する時間に変わっていた。

 とにかく、現状のままではいけない。どんなに節約しても食費や光熱費、それに家賃は払わざるを得ない。アルバイトだけの収入では日に日に貯金が減っていき、やがて底を尽きるのは確実だ。金と一緒に精神的にもどんどんすり減っているのを、嫌でも実感する。人はパンのみにて生くるものに非ずではないが、起きて、働いて、食べて、また寝る。これは果たして人生と呼べるのか。今さら社会的地位などどうでもいい。しかし、残っているわずかな矜持が、もっと人間味のある生活を欲している。

 養護施設では、衣食住の心配をすることはなかった。金がないというのは、ここまで恐怖を駆り立てるのだと人生で初めて学んだ。経済に支配されている現代で人間らしく生きるためには、どうしても金は必要だった。惨めな生活を打破すべく、時間さえあれば求人サイトを覗く癖がこびりついてしまった。

 必死さと惰性が混ざりあった目でページを手繰っていたら、参加報酬ならびに成功報酬という単語が飛び込んできた。

 なんだこれは?

 最初に加連を惹き付けたのは、報酬額だ。期間は七日間で、参加した者には七十万円の報酬を支払うと記してあった。一日で十万円ということだ。社名を確認すると、一般社団法人リブルティアとあった。加連は知らない団体だった。従業員数は三百人で、仕事内容は情報技術に付随するサービスと記されていた。今ひとつイメージしづらかったが、要するにIT企業みたいな業務を一般社団法人で行っているのだと解釈した。

 この規模で、一日十万円のバイト代なんて異常だ。異常過ぎる。いったい、なにをやらされるんだ。提示されている金額を凝視するほど、嫌な感じしか抱けなかった。それでも、金額の魅力には抗えない。

 誘われるがままに、加連はページをスクロールした。

 内容は、仮想空間下における人間の心理的影響の調査とあった。臨床試験に臨む協力者を集っているので、希望者を求むと記されている。途中での退場もあるかも知れず、そうなったら仮想空間の中で過ごした日数分の報酬を支払うとのことだ。

 ……つまり、三日過ごしたなら三十万円受け取れるということか。

 詳細は面接時に伝えるので、関心を持たれた方は、ぜひ応募してほしいとの文章で締め括られていた。

 食い入るように読み終えた加連は、どうにも胡散臭いと思った。報酬が尋常ではないほど高額だし、仕事内容もわかりづらい。仮想空間下におけるとは、いったいどういうことなのだろうか。この七日というのは、仮想空間の中での七日間なのか。現実とのズレは生じるのか。わずかな文面からでは読み取れない。生じる疑義は想像で補うしかなかった。

 それに、成功報酬についての説明が一切なかった。第一、なにをもって成功とするのか。それも面接時に説明するということだろうか。

 経済に翻弄され散々な憂き目を見た加連には、誘蛾灯としか思えない内容だった。帰りがけに見た蛾と自分を重ね合わせた。


「……くだらねえ」


 自分の部屋でなければ、唾を吐きたい心境だった。こんな怪しげな求人を掲げる団体など、まともであるはずがない。載せる方もだ。次からは違う求人サイトを利用しようと決め、ごろんと横になった。

 白い天井を見つめていると、物思いに耽ってしまう。

 今の自分は、あの天井と同じだ。白。所々に汚れが浮き出ている濁った白だ。汚れ以外はなにもない。


「……………………」


 しばらくすると、一蹴したはずの怪しげな求人が浮き上がってくる。粘度の高い汚水から湧き出て水面を膨らませ、ついには弾ける気泡のようだ。なにを馬鹿なことを考えているんだと振り払うものの、数秒後には再びそれを考えてしまう有り様だった。

 七日間……。アルバイトの更新日は近い。今の勤務先は入れ替わりが激しい職場だ。去る者は追わずのスタイルを貫き、年がら年中求人広告を出している。アルバイトは使い捨て感覚で、執着はしない。

 次回は更新しませんと申請すれば、あっさりと辞めることができる。そして、一度は去ったものの再び舞い戻る者だって多い。失敗したなら、自分がそうしてはいけないという法はない。出戻りでも肩身の狭い思いをせずに済む環境だ。決めるなら早い方がよい。参加した日数分しか報酬が出ないと明記されているところなんか、意外と誠実な会社なのではないか……。

 悶々としながら数分が経過した。もう、次を更新するつもりはなくなっていた。七十万円あれば、しばらくはアルバイトから逃れられる。休日を狙って面接を受ける煩わしさもなくなる。じっくりと腰を据えて就職活動ができる。どんな仕事だろうと、今より悪くなることはないはずだ。

 加連は起き上がり、スマートフォンを手に取った。スリープしていたのでスクリーンは黒一色だったが、指を乗せると明るくなり、リブルティアの求人が浮かんだ。

 このページを表示したまま、寝転がったのか……。

 その事実が、自分がこの求人の誘惑を断ち切れていない証拠だと語り掛けられているようで、いかに金銭に困窮しているかを突きつけられているようでもあった。

 再び募集内容を熟読した。すでに頭に入っているが、自分を納得させるためだった。指先を応募を希望する送信するアイコンの上に置いた。数秒考えてから、とんっとアイコンをタップし、レジュメを送信した。

 送るだけなら金はかからない。まず通らないだろう。万が一面接までこぎ着けられたら、適当な理由をでっち上げて断ればよい。応募するだけだ。応募するだけ……。

 そう自分に言い聞かせるが、万引きをして出口に向かう子供のように、加連の心臓は大きく脈打っていた。

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