空の色が青でよかった

雪方麻耶

プロローグ

 街灯が滲んで覆い被さる闇にささやかな反抗をしている。わずかな光に誘われて灯具にまとわりつく蛾は、いかにも哀れだった。帰路の途中で吸った空気は澱んでおり、饐えた匂いは彼の心に共通するものだった。

 加連真幸かれんまさきは疲れきっていた。

 児童養護施設で育てられ、高校を卒業したのは二年と七ヶ月前。特殊な環境から社会に出たばかりの彼はすでに疲弊していたが、それでも夢と希望に溢れていた。就いたのは印刷会社で、DTPによる加工や出力などに従事していた。給料はけっして高くはなかったが、一人で生きていくにはなんとかなったし、仕事の内容は加連の性に合っていた。やっと手に入れた、平凡でも落ち着いた生活があっけなく崩壊するとは、夢にも思わなかった。

 あれからもう一年以上経過しているのに、今でも脳裏にちらつく光景。たぶん、一生忘れることはなく、なにかの拍子に思い出しては再び記憶の底に沈めるのだろうと考え、その度に気持ちが重たくなる。

 年の瀬も押し迫った寒さも一際だったその日、加連は残業を覚悟していた。レイアウトソフトを使って組版しあがったデータを発注主に送信する。その作業を何度も繰り返していた。四校、五校を過ぎても校了には至らなかったからだ。加連のレイアウトに問題があるのではなく、発注主が優柔不断で何度も言い回しを直しているのが原因だった。

 加連が苛つきを太い溜息で吐き出した時、社長の村田がいきなり姿を現した。スーツの下にスイカでも隠し持ってるんじゃないかと思えるほどの太鼓腹がだふんと揺れる。

 従業員数二十人ばかりの零細企業だ。社長の御尊顔を拝むのは珍しいことではなかったが、どうにも様子がおかしかった。加連だけでなく、その場にいた全員がただならぬ気配を察し、空気が一気に緊張を孕んだ。

 村田は、固くなった空気を押し返すように声を張り上げた。


「皆さんっ。すぐに一階に集合してください」


 思い返してみるに、その時は何事だと思ったのだろうが、どうにも記憶の輪郭が滲んでいる。

 流されるままに一階に降りると、作業場の上司や先輩の面々はすでに集合しており、DTPチームのリーダーである石川の姿も見つけた。固い表情をしている。

 輪の中に見慣れない人物を発見した。高級そうなスーツをパリッと着こなしている。

 この会社の従業員は、作業着かラフな私服の者ばかりなので、加連の目にはひどく浮いて映った。


「これで全員ですか……」


 小声で村田に確認するのが聞こえた。村田はろくに確認もせずに首肯する。

 スーツの男は手を前で組むと、その場にいる全員に挑むように声を上げた。


「私は弁護士の佐々木と申します。社長である村田氏が自己破産申請をしたため、この建物は本日の十七時をもって差し押さえ物件となり、よって閉鎖致します。皆さん速やかに退去してください」


 しんと静まり返った一拍の後、どよめきの波が生じた。

 自己破産? 倒産? 言葉の意味は知っているが、なぜそんな単語が出てくるのか、わけがわからなかった。

 佐々木と名乗った弁護士は、皆の顔色が変わるのなどお構いなしに、繰り返した。


「本日の十七時をもちまして、この建物は差し押さえ物件となりました。皆さん、速やかに退去をしてください」


 互いに顔を見合わせる中、いち早く冷静さを取り戻し異議を唱えたのは工場長の猪野山いのやまだった。


「閉鎖ってなんだよ? 明日には納品しなきゃならない物があるし、来年分の受注だって……」

「みんな、言う通りにしてくれ」


 佐々木の横で目を伏せていた村田が、口を開いた。今まで聞いたこともない重たい声だった。


「社長っ」


 猪野山は食って掛かったが、社長は深く頭を下げた。


「すまない……」


 常に明るい笑顔を振りまき、時には差し入れをしてくれた村田社長の困憊した姿を見て、加連はこれは夢でも冗談でもないのだなと実感した。まだ稼働していた枚葉機の機械音だけが、耳の奥にまで浸透していった。

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