第10話 お勉強

「お勉強の道具、持ってくる、したいです」


 興奮気味な様子のエルヴィラを連れたアナスタシアが、羅王の部屋にやってきてそんなことを言い出した。


「勉強の道具?」


「わたし日本のお勉強する、ケンさん、道具くれたです。隠し部屋、置くしてます」


「……あーあれか! 俺と一緒にやった国語のドリル。他に絵本なんかもあったよね?」


「そうです」


 アナスタシアの言葉に羅王も合点がいった。


「でもそんなのどうするの?」


「エルヴィラ、日本語、お勉強したい。わたしのお勉強道具、日本語、わたしの国の言葉、ふたつ書いたです」


 なんとなくだが羅王も覚えていた。

 アナスタシアの持ち物には、日本語の横に意味不明な記号が書いてあったことを。

 例えるなら――

 あA・かKA・さSA・たTA・なNA

 実際には英語でもローマ字でもないが、こんな感じだったと記憶している。


「あれってアナさんの国の文字で、翻訳しながら勉強してたのか」


「ほんやく?」


「ん~、アナさんの国の言葉、日本の言葉、どっちの国の言葉も、意味が通じるようにする……でわかるかな?」


「あ~、どっちの国の言葉、わかるするしました」


「なるほどね」


 そんな会話をした結果、その勉強道具を取りに行くことにした。

 当然だが、羅王も一緒に行く。

 倉庫を経由していくので羅王が鍵を開ける必要もあるが、日も落ちていて危険で、鍵云々を抜きにしても二人だけで行かせる選択肢はなかった。


「とはいえ、この穴はやっぱ狭いな」


 倉庫に着き、異世界へ繋がっている穴をうんこ座りで覗き込む羅王は、若干ふてくされ気味に言った。


「壁のあっち、ケンさん作った部屋、あるです」


「あ、この穴の先ってトンネルが続いてるわけじゃないの?」


「トンネル、違う」


 アナスタシアが言うには、中途半端なサイズで業務に使えず、彼女の別邸的な小部屋となった建物の地下に冷暗所があるとのこと。

 そこと日本の倉庫の間にはそれなりの距離があり、大伯父はその空間を掘って隠し部屋を作っていたのだとか。

 やがてアナスタシアの結婚が決まり、彼女は父が経営する商会を出ていくことが決まった。

 だが大伯父は異世界に興味がなく、アナスタシアと会わないなら誰も使わなくなるので、扉を外して穴を塞いでしまったらしい。


 そして今回、古い倉庫に何か売れそうな物がないかエルヴィラが散策中、冷暗所も念の為に調べ、偶然にもその壁が崩れた。

 その後、存在をあらわにした隠し部屋を探索していたら、今度は日本側の壁が爆音とともに崩れてきたと言う。


 飽き性だったアナスタシアが、勉強の合間に冷暗所で涼んでいたら突如壁に穴が開き、大伯父と初対面を果たしたのが約二十年前。

 長い年月を経て娘のエルヴィラが倉庫を探索していたら、やはり突如穴が開いた。

 今度は羅王がユンボの操作を誤ったことで。


「偶然にも程があるな」


 苦笑いを浮かべた羅王がつぶやいた。


「ってなんだよ!」


 だがリオが唐突に叫んだ。


「リオくん、どしたです?」


「途中に部屋があったってことは、天井が高い場所があったってこと?」


「あるでした」


「マジかよ……。途中で普通に歩ける場所があったなら、ずっと這いつくばって進んだ俺の苦労は……」


 羅王の落ち込む様子を、首を傾げて不思議そうに見ているアナスタシア。

 まったく意味がわかっていなさそうなエルヴィラが、羅王とアナスタシアをキョロキョロと見て、やはり不思議そうな表情を浮かべている。


 そんな二人の様子に気付いた羅王は、いかんいかんと気を取り直し、持っていた懐中電灯を点ける。

 そして穴の入り口から壁の厚みをしっかり確認してみると、壁の厚みはたしかに一メートルほどだった。


「ここをずっと這って進んでたのか……」


 たった一メートルだけハイハイで通ってきた羅王は、隠し部屋のあちこちに懐中電灯の光を向けて全体の大きさを確認し、再度落ち込んでしまう。

 しかしいつまでも落ち込んでいても仕方ないので、改めて室内を見回す。

 ざっくりだが、二十畳を超える広さがあるように見えた。


「ここ、わたしの宝物、あるです」


 羅王と同じように懐中電灯を手にしたアナスタシアが、そんなことを言いながら部屋の一角に向かった。


『えっ! どうして中身が放り出されてるのよ!?』


 なにやら向こうの言葉でアナスタシアが叫んでいた。


『も、申し訳ございませんお母様。売れそうな物を探しており、その箱の中も確認したのですが、価値のある物には思えず……』


『これはわたしの宝物なのに……』


『ご、ごめんなさい、お母様……』


 アナスタシアとエルヴィラの間で、気まずそうな空気が流れていることだけは羅王も感じられ、詮索することなく見守るのであった。



 ◇ ◇ ◇



「アナさん、エルヴィラ、おはよう」


「あ、リオくん。おはよう、ございます」


「……おはよ、ござ、ます」


 羅王が寝ぼけまなこで居間に向かうと、すでに起きていた異世界母娘がおり、勉強道具を広げてアナスタシアがエルヴィラに指導していたようだ。

 それでも羅王が朝の挨拶をすると、彼に気づいたアナスタシアが挨拶を返し、エルヴィラも母親に教わったのだろう、たどたどしいながらも日本語の挨拶を口にしていた。


「昨日はよく眠れた?」


「お布団やわらかいで、ぐーぐーでした」


 アナスタシアは熟睡してしまったことを恥だと感じているのか、少しだけ照れた様子で答えた。

 その様子に羅王は、年上に対して失礼だと思いつつも、正直かわいいと思ってしまう。


 それはそうと、昨夜は隠し部屋からアナスタシアの勉強道具を回収すると、異世界側に顔を出すことなく古民家へ戻ってきた。

 すると、エルヴィラがすぐにでも勉強したいと言っていたらしい。

 だがそのことをアナスタシアから聞いた羅王は、即座に勉強道具を回収して居間の隅に置き、さっさと寝ろと言わんばかりに客間へ追いやった。

 日々蓄積された疲れからだろう、彼女らは見るからにやつれていたのだ。

 羅王が無理をさせたくないと思ったのは、当然のことだろう。


 彼女らを布団に寝かせ、トイレに行った羅王が客間の確認をすると、やはり疲れていたようで、二人ともすでにぐっすり眠っていた。

 それから自室に戻った羅王は、朝食のことなど考えて日課のゲームを控える。

 七時にセットしていたアラームで目覚め、朝食の用意をしにキッチンに向かう途中、居間から声が聞こえたので顔を出す。

 客間に目覚ましなど用意していなかったが、二人は早起きが身に付いているのだろう、すでに居間へ移動し、今に至っていた。



「借金取りは、お昼過ぎに来るんだっけ?」


 二人が起きていたことで、ご飯を炊く時間がないので冷凍のチャーハンを炒め、手抜きな朝食となったわけだが、お行儀など気にしない羅王は、口に運んだチャーハンをもぐもぐしながら尋ねた。


「はい。お昼の鐘、鳴るしたらくる、言うしてました」


 アナスタシアはお行儀の良い人だったようで、咀嚼そしゃくしていたチャーハンをしっかり飲み込んでから答えた。

 彼女の隣では、ほくほく顔でエルヴィラがチャーハンを食べている。

 何かを食べている彼女はとても良い表情をするので、羅王が最初に抱いた印象から真逆近くまで印象が変わってきていた。


「少し時間があるけど、それまでどうしようか?」


「エルヴィラ、お勉強、教えるします」


 無駄に時間を過ごすより、それでいいだろうと思った羅王だが、アナスタシアの使っていた勉強道具はしまわれていたとはいえ経年劣化があり、なにより若かりし頃のアナスタシアが使い込んでいたため、かなりボロボロだ。

 であれば、新しい国語ドリルなりを買いに行きたいのだが、二人を残して買い物に行くのははばかられる。

 何かいい手はないかと考えた。


 妙案が浮かんだ羅王は、食事が終わるとアナスタシアに食洗機の使い方を教え、大伯父の部屋にあったプリンターを自室に運んだ。

 彼は競馬のデータなどとまとめているが、プリントアウトすることがなかったのでプリンターを持っていない。

 しかし何に使っていたか不明だが、大伯父は比較的新しいパソコンとプリンターを持っており、コピー用紙も大量にあったのだ。


「この家って、本当になんでもあるよな」


 そんなことを言いつつ、自室にプリンターを設置した羅王はネットで検索を開始し、日本語を覚えるのに使えそうなあれこれをプリントアウトし始めた。


 ある程度の枚数が溜まったらリビングに運び、そのコピー用紙にアナスタシアが何か書き込んでいく。

 それを数度繰り返し、取り敢えず終了して最後の資料を持って居間に入った羅王は、アナスタシアとエルヴィラの後ろに置いた。

 すると――


「リオさま、あり、がと」


 エルヴィラが羅王に向かって日本語でそう伝えてきた。


「おー、エルヴィラはすごいな」


 何度か彼女が日本語を口にしていたが、それは母であるアナスタシアに促されるような状況だった。

 だが今は、自身の状況に合わせた言葉を自分の意思で伝えてくれた訳で、それはものすごいことだ。


 素直にそう感じた羅王は、かつて自分がアナスタシアにしてもらったように、思ったことを口にしながらエルヴィラの頭を撫でる。

 されたほうのエルヴィラは、くすぐったそうに目を細め、食事のときの良い表情とは違う、どことなく見覚えのあるかわいらしい笑みを浮かべていた。


「えっ、かわいい」


 意図せず羅王の口からそんな言葉が漏れたが、そのつぶやきはアナスタシアには聞こえていなかったようで、彼女は「エルヴィラ、お勉強、得意。わたしより、覚える、早いです」と、何事もなかったように、それでいて少し自慢気に話しかけてきた。

 それにより羅王は、わずかに浮ついたような感情が霧散し、アナスタシアの言葉に応える。


「へー、エルヴィラは勉強が得意なのか。羨ましいというかすごいね。俺は勉強が苦手だから尊敬しちゃうよ。――あっ、アナさんは自分ひとりで日本語を覚えたんだから、アナさんだってすごいと思うよ」


「リオくん、ゆっくり」


「ごめん。エルヴィラもアナさんもすごね、って言ったんだ」


「エルヴィラだけ、違う? わたし、すごいです?」


「うん、すごいよ」


 そう言いながら羅王は、無意識にアナスタシアの頭を撫でてしまった。

 しかし彼は、その行為が年上に対して失礼だと気づき、すぐに撫でるのを止めたのだが、アナスタシアは少々恥ずかしそうでありつつも、どことなく嬉しそうな表情を浮かべていた。

 しかしその様子を見て……なのか不明だが、エルヴィラが少し不機嫌になり、母であるアナスタシアに言い寄る。


わたくしがまだ覚えていない言葉でお話しをして、リオ様に頭を撫でていただくなんて、お母様はズルいです!』


『ズルをしているつもりはないのだけれど……。それに、エルヴィラも撫でてもらったでしょ?』


『お母様のほうが長く撫でていただいておりましたもの!』


『ごめんなさいね……』


 何が原因かはともかく、やはりエルヴィラは怒りっぽい子なのだな、と思った羅王は、別のことへ意識をむけた。

 それは彼女たちの髪だ。


 記憶の中のアナスタシアは、色素のかなり薄い栗色の髪で、金髪のキラキラ感とはまた違う、美しい亜麻色のストレートロングだった。

 だが再会した彼女の髪は汚れのせいだろう、くすんでいてあの綺麗な髪と同じようには見えなかったのだ。


 そしてエルヴィラに至っては、長い髪がものすごくうねっていた。

 それこそ悪役令嬢のドリルかと見まごうほどに。

 しかし現在、彼女の髪は癖こそあるものの、ゆふわウェーブとでも言うのだろうか、お上品に背中でふわりと広がっている。


 母はストレートで娘は癖っ毛と毛の質こそ違うものの、娘エルヴィラの髪色は母アナスタシアによく似た亜麻色で、今の二人の髪はとても艶々で美しい。


「これからは、シャンプーとかしっかり選んで買わないとかな?」


 今後のことは不明だが、羅王は然も当たり前のようにそんなことを考えていた。

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