第9話 異世界母娘と独身貴族
「アナさんとエルヴィラは、この部屋を使って」
羅王は自分の部屋やトイレなどの必要な場所を伝え、古民家らしい和室の客間に布団を二組敷いて、アナスタシアにそう伝えた。
その間、エルヴィラは和室が珍しいのか、やはり物珍しそうにキョロキョロし、鼻をくんくんさせている。
多分だが、畳の匂いを嗅いでいるのだろう。
匂いといえば、アナスタシアとエルヴィラは、風呂でしっかり体や頭髪を洗ったようで、古民家に入る前とは別人のような香りになっていた。
そう、匂いではなく香りなのだ。
羅王が普段遣いしているシャンプーなどを、当然彼女たちも使ったはず。
だというのに、異世界母娘から放たれる香りは、彼の知るそれよりほのかに甘く感じるのだ。
なんとも言えない不思議な現象に、羅王は困惑する一方で興味も湧いてる。
しかし、匂いを嗅がせてくれと言えるはずもなく……。
「じゃ、じゃあアナさん、何かあったら俺の部屋にきてね」
そうだけ言うと、羅王はわずかに上気した顔で客間を後にした。
◇
『お母様!』
羅王が部屋を出ていくと、興奮した様子の娘がアナスタシアに詰め寄る。
『なんですのこのお屋敷は?!』
『リオくんのお祖父様であるケンさんの住んでいたお屋敷で、今はリオくんのお屋敷よ』
『そういうことではありませんの!』
『?』
アナスタシアはエルヴィラの言いたいことがわからなかった。
『お父様のお邸のような綺羅びやかさはありませんが、質素なように見えてそうではない質の良さ。見たことのない不思議なものや便利なもの。それに、このお部屋の床も心が落ち着く香りを放つ珍しいもの。もう何がなんだかわかりませんわ!』
『それがこの世界……としか言いようがないのよね』
興奮するエルヴィラに対し、説明ができないアナスタシアはそう返すしかなく、本当に困ってしまう。
『たしかに、他国では文化の違いで王国にはない珍しいものもあると聞いておりましたわ。そうであれば、異世界であるこの国では、
『そのとおりね』
『…………』
興奮気味だったエルヴィラだったが、アナスタシアの簡素な返答を聞いて無言になると、キリッとした表情を母に向ける。
『ねえお母様、リオ様のお祖父様がお貴族様なのは理解していますが、その中でもかなり高い爵位をお持ちだったのではありませんか?』
羅王が神だと思い込んだエルヴィラに、アナスタシアは彼の祖父である拳が、この国――日本の貴族だと伝えた。
さらに、日本という文明が進んだ世界の貴族なのだから、驚くような何かがあってもここでそれらは普通のこと。
羅王は断じて神ではない、そう言い聞かせていたのだ。
『日本の爵位を王国に照らし合わせるのはかなり難しいのよ。だからケンさんの言っていた、”「独身」貴族”というのが、王国でどの爵位に相当するか不明なの』
『「どくしん」というのは、どのような意味を持つ言葉ですの?』
『えっと~。うろ覚えなのだけれど、”ひとりぼっち”といったような意味だったと思うわ』
『ひとりぼっち……。――――! お母様、それはひょっとして、唯一ということではありませんの?』
『唯一? だとして、それがどうしたの?』
『お母様は鈍いですわ! 「どくしん」貴族、つまり唯一の貴族とは、国を治める王様しか存在しないではありませんか!』
エルヴィラの言葉に、アナスタシアはハッとさせられた。
『ケンさん……いいえ、ケン王様はすでにご崩御なされている、というお話でしたよね?』
『そうね』
『それであれば、現在の王位にはリオ様のお父がお就きになっているのでは? そしてリオ様は王様のご令息。……つまり王の子であるリオ様は、こちらの国の王族で王子様なのですわ』
『――――! で、でも、ケンさんはそんなこと……』
アナスタシアには思い当たる節があった。
拳の家に訪れると、それなりの頻度で来客があったのを彼女は覚えている。
それどころか、一部の者にはアナスタシアがお茶を淹れることもあったのだ。
そして来客者は、手土産を渡して拳に頭を下げていた。
あれはもしかすると、謁見だったのではないか?
そう考えると、アナスタシアは納得できたしまった。
『ねえエルヴィラ、もしかするとその推測、当たっているかもしれないわ』
アナスタシアはどことなく疲れた様子を見せた。
対象的にエルヴィラは、幼子のように目をキラキラさせている。
だがいつまでも浮かれていない。
エルヴィラは表情を整えると、おもむろに口を開く。
『それはそうとお母様、
娘は、アナスタシアが羅王と話していた会話の内容を知らない。
日本語がわからないのだから当然だ。
だから二人が会話をしていた際は、何もできないのでただ黙っていたのだろう。
しかし、今後のことが気になって仕方なかったのは当然だ。
そして今、羅王が日本の王子である可能性が浮上した。
だからといって、娘がその権力に
アナスタシアは表情を引き締め、毅然とした態度でエルヴィラを見つめた。
『王子様かもしれないリオくんに
『違いますわ。お母様をお助けくださったリオ様には、
『…………』
『ですので、情けなくもこちらの世界で匿っていただけないかと……』
『では、権力が目当てではないと言うのね?』
『当然ですわ! 権力を傘に立ち振る舞うなど、むしろ
借金を踏み倒そうとしたのはよろしくないが、エルヴィラが権力に
『でもごめんなさいね、エルヴィラ。私たちがこちらの世界でお世話になるか、まだわからないの』
『どういうことですの?』
『リオくんはね、あの大白金貨でお父様が作った借金を返してくれると言うの』
『お祖父様の借金を、リオ様が?』
『ええ』
『では、こちらの世界でお世話になる云々を抜きにしても、
父――エルヴィラからすれば祖父の作った借金。
その一割を明日までに返済できなければ、自分が借金の形に連れて行かれることをエルヴィラは知っている。
借金は今後の彼女自身の行く末を左右する大きな問題だ。
それこそ、エルヴィラの体が
だからなおさら、アナスタシアとしては
『それはまだわからないわ』
『え?』
『わたしが見たことのある白金貨と、この世界の白金貨は同じ材質に思えたわ。でも実際には、王国貨幣や王国で使える近隣国の貨幣とも違う異世界の貨幣。王国でそのまま使えるか不明なの』
『そ、そんな……』
アナスタシアの言葉に、娘はガックリとうなだれてしまう。
『でもね、リオくんは貨幣として使えなくても、地金としての白金と認めて貰えれば、借金の返済は可能かもしれないと言っていたわ』
『ほ、本当ですの?』
『わからないわ。だからこそリオくんは、試してみると言っていたの』
確実ではないため、娘をぬか喜びさせないよう、羅王の言っていた”試す”という言葉を使ったアナスタシア。
しかし彼女は、あの白金貨であればどこの国でも高価な物として認められる、そう感じていた。
それこそ硬貨に使われていた白金そのものが、王国のそれより価値が高いと思っている。
まかり間違っても、判別薬で銀判定されることはないだろう。
だからこそ葛藤してしまう。
そんな高価な品を羅王に出してもらうのが申し訳なく、心底心苦しいのだ。
しかも、娘が権力に
それはひどく矛盾した考えだ。
一方で、このままでは慰み者になってしまう愛娘の行く末も案じている。
自分が代わってあげたいのは山々だが、年増の自分に価値がないと言われてしまっているので無理。
アナスタシア自身の力ではどうにもならない、それが現状だった。
だから苦悩に苦悩を重ね、苦渋の選択をする。
選んだのは、羅王に甘えるという選択肢だ。
借金の返済が無理であろうとなかろうと、”一生をかけて必ず恩義に報いる”という強い決意を持って。
『も、もし借金が返せたならば、その後の暮らしはどうなりますの?
『それは……』
アナスタシアは借金返済が可能だとほぼ確信している。
しかし確実ではない。
だからこそ、借金返済後という先の話まで考えが至っておらず、今もなお心配で、返済後の生活まで考える余裕はなかった。
◇
エルヴィラは自分の都合だけを考えた言葉を発し、母が返答に詰まっている姿を見て、わがままを言って母を困らせていることに気づく。
『お、お母様、もし借金が返済できてもできなくても、リオ様とはこれからもお会いできますわよね?』
『え? そう……ね。昔はわたしが嫁いでいったことで、こちらの世界にくることはなくなったけれど、今はこうして行き来ができているし……。そういえば、今回通ってきた穴の位置は、昔わたしが通っていた場所だった気がするわ』
『つまりそれは、あの穴はずっと繋がっていた……ということでしょうか?』
『う~ん、昔はケンさんが作ってくれた隠し部屋、……お父様の冷暗所の壁とリオくんの倉庫の壁の間に、暗い空間があったでしょ?』
『あ~、ありましたわね。天井が高いのに、なぜかリオ様が這いつくばって進んでいた場所。あそこですかお母様?』
『そうよ。あの隠し部屋に、向こうとこっちにそれぞれ扉を付けてくれていたの。でもね、わたしがお嫁に行くことが決まって、もう戻ってくることはないとケンさんに伝えたのよ。それでケンさんが、穴を塞いておいてくれると言ったの」
「確かに扉は有りませんでしたわ」
「扉をなくして壁だけを塞いだのでしょうね。でもあの隠し部屋は残っていたわ。――もしかすると行き来ができないよう、ケンさんが扉を外して穴の部分を塞いだだけで、実際には繋がっていたのかもしれないわね』
『では、これからもリオ様にお会いできるということでしょうか?』
『可能……だと思うわ』
母の返事を聞いたエルヴィラは、緊張した表情を笑顔に変えた。
『お母様、
リオ様なら
それには羅王と直接会話するのが一番。
ならば、”リオ様の国の言葉は是が非でも覚えたい”と思うエルヴィラであった。
◇
『エルヴィラが日本語を覚える……。そうね、リオくんとはこの件が終わったら会わなくなるわけでもなさそうだし、それも良いかもしれないわね』
『それでしたらお母様、
『わたしもうろ覚えだし……。そうだ、隠し部屋に残したままの宝箱に、わたしの宝物であるこちらの教材がしまってあるわ』
今後のことはまだ未定だが、塞ぎ気味だった娘が前向きになったことが嬉しく思えたアナスタシアは、自身もまた少しだけ気分が上向く。
だからだろう、久しぶりに宝物を見てみたいと思えたのだった。
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