第5話 初恋の女性

「~~! あ、あなた、リオくん? ケンさん、孫、リオくん?」


「!!」


 なんとビックリ!

 妙齢の疲れた感じのお姉さんが、片言ではあるが日本語を口にしたのだ。

 だがあまりの衝撃に、羅王りおは言葉を発することなく固まってしまう。


「~~? ~~~~~、~~~~~~~……」


 そんな彼の態度から、お姉さんは言葉が通じていないと思ってしまったのだろうか、困り顔でまた意味不明な言葉でボソボソとなにかを言っていた。


「あ、俺、羅王! 拳じいちゃんの孫の羅王!」


 お姉さんの困り顔に気づいた羅王は、『あなたの言葉は伝わってますよ』と示すように、慌てて言葉を口にした。

 実際には、自分たちの関係が大伯父と又甥だなどと言わない。

 そもそも祖父と孫という関係性を保っていたのだ、今も考えるまでもなく『自分は拳の孫だ』と自然に口をついていた。


「あ、う~、も一回、言う、して」


 羅王がまくし立てるように言葉を発してしまったため、お姉さんは上手く聞き取れなかったらしく、つたないながらも言葉を繰り出してきた。

 その言葉を聞いた羅王も、自分の失態に気づく。


「俺は、羅王です。拳じいちゃんの、孫です」


 今度はゆっくり、聞き取りやすいように言葉を区切って口にした。


「! ……? わたし、知る、リオくん、すごく、ちっちゃい、でした」


 表情をコロコロ変えながら、地面に向いた手の平を自身の胸の前くらいに置き、お姉さんはそう言った。

 羅王はなんとなくその高さまで身を屈め、自然と顔を上げてお姉さんを見る。

 そして、女性を見上げた彼の視線と彼女の視線が交差する。


「――――あっ! も、もしかして……、アナーシャ、姉ちゃん……?」


 瞬間、羅王の記憶が一気に蘇る。


 羅王が小学校に上がる前、一年弱の短い間だが、大伯父の家に預けられていた時期があった。

 その期間の約半年ほど、ほぼ毎日のように遊びに来ていた外人のお姉さんがいたのを思い出す。

 年の頃は、今思えば女子中高生くらいだっただろうか。


 庭を駆け回れば亜麻色の長い髪を風になびかせ、艶のある琥珀のような瞳をはめた大きな目を、へにゃりと細めて楽しそうに笑っていたお姉さん。

 一緒に文字を書く練習をした際には、自分のほうが上手に書けたと大人気なく言い張り、それでも『リオくん、がんばてた』と片言の日本語で褒めながら頭を撫でてくれる、年齢の割にやんちゃで優しい女性だった。

 

 他にもあれやこれやと楽しかったことを思い出すが、なんといってもこの女性は、リオが初めて好きになった人――初恋の女性だったのだ。


 しかし、楽しかった日々は終わりを迎える。

 いつものように彼女が遊びにくるのを羅王は待っていたが、何時になっても姿を表さない。

 たしかにお姉さんは、毎日必ず遊びに来ていたわけではない。

 だが三日も姿を見せないのは初めてで、彼の不安は即座にピークへ達する。

 そして大伯父に聞いてみると、『あの娘は引っ越ししたから、もうここにはこない』そう言われたのだ。


 幼い羅王が初めて恋心を抱いた少女は、別れの言葉を交わすこともなく、彼の前から姿を消した。

 綺麗な思い出だけを残して。


 だがその思い出も、時間とともに色褪いろあせてゆき、形のわからぬ幻影となって羅王の中で揺らめき、女性に興味を抱かない、という足枷になっていたのだが――


「ほ、本当に、アナーシャ姉ちゃん?」


 羅王の中でモノクロどころか消えかけていた思い出が蘇り、はっきりと色を取り戻していく。


「リオくん、また間違う、してるです。わたし、アナーシャ違う。わたし、アナスタシア」


 幼い羅王はアナスタシアと発言できず、ずっとアナーシャと呼んでいた。

 そのため、記憶ではアナーシャという名前になっていたのだ。


「そんなのどっちでもいーよ! それより姉ちゃん、俺、ずっと姉ちゃんに会いたかった!」


 記憶の片隅に追いやられていた想いだが、思い出してしまえば『ずっと会いたかった』になっている。

 それほど記憶というのは曖昧なもので、都合の良いものなのだ。


 そして、感情が爆発してしまえば体も動いてしまう。

 羅王は、自分が今年二十五になるの大男なのを忘れ、ついでに金の塗料が附着した軍手をしていることも忘れ、幼い頃と同じようにアナスタシアに抱きつき、あの頃のように双丘に顔を埋め、年甲斐もなく号泣する。

 抱きついた位置は、彼が膝立ちになっていたことで、約十九年前とほぼ同じだ。


「リオくん、大きいなるしても、子どもです」


 かつてそうしてくれたように、アナスタシアは羅王の頭を抱きかかえ、優しい笑みを湛えた。

 まるで、十九年の歳月など流れていなかったかのように。


 だがそれは違う。

 実際には十九年の時間が経ち、様々な状況が変わっているのだ。

 ここは十五歳のアナスタシアと六歳の羅王が存在していた時間軸ではない。

 むしろ今は、当時のアナスタと同じ年頃の少女がこの場に存在しているのだ。


「~~~! ~~~~~~~~~~!  ~~~~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~~……、~~~~~~~~~~~~?! ~~~~~~~、~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」


 その少女とは、よくわからない状況をただ黙って見守るだけだったエルヴィラだ。


 だが彼女は、意味不明な出来事をただただ見せつけられたことに不満を抱いたのか、しびれを切らしたように叫んでいた。

 それは羅王に対してではない。

 その矛先は、彼女と一緒にいたアナスタシアに向けられており、エルヴィラの表情は、まさに鬼気迫るものであった。


 ◇


『お母様! リオ様は神様ですのよ! 不敬にも神をひざまづかせ、あまつさえ頭を抱きかかえるとは……、お母様は何をお考えですの?!』


 エルヴィラはいきどおっていた。

 それは、自分がないがしろににされたことへではなく、自身の祈りが通じたことで顕現なされた神に対し、常識人だと思っていた母が犯した暴挙に対してである。


 そもそも神が人前にその御姿をお見せになること自体、御伽噺おとぎばなしの中でしかありえない出来事で、現実世界で会話を交わすすべどころか、神が使う言語など知られていない。

 実際にエルヴィラも、リオ様のお力(?)によりお名前だけは認識できたが、それ以外のお言葉は理解でない、という至極まっとうな事実を体験させられている。

 だというのに、母とリオ様が神の言葉で会話を交わしていた……ように感じた。

 教会に属する敬虔な信徒でもない、一般人である母が。


 その事象に疑問を抱くも、後で母から説明してもらおうと考え、事態の推移を見守っていたエルヴィラ。

 だが徐々に様子がおかしくなり、あろうことかリオ様が母に跪き、間髪入れずに抱きついて号泣してしまったのだ。

 訳のわからない状況だが、彼女でも一つだけわかったことがある。


 神の頭を抱える云々は別にして、神が只人ただびとに跪いている構図が、常識的に考えてありえないことだ、と。


 これは王侯貴族に対する不敬をも超え、神罰級の重い罰が下されると感じた。

 一方で、母の無礼も神に誠心誠意謝罪すれば、万が一であってもゆるしてくださるのではないか、そう瞬時に思い至る。

 そして思ったからには即行動。


『お母様、早くその手をほどき、神罰が下される前に伏して赦しを請うてくださいまし!』


 エルヴィラは母に向かい、あらん限りの声で忠告したのであった。


 神であるリオ様の足にしがみつき、わざわざ足を運ばせたのみならず、あのような下郎に神の持ち物をお渡しさせる、という大失態を犯した自分自身の行動は棚に上げて……。


 ◇


『えっ? あっ? エルヴィラ、これは違うのよ? リオくんは神様ではなく、えっとぉ~……』


 久しぶりの再会に、すっかり二人きりの世界に没頭していたアナスタシア。

 だがそれでも、ただならぬ勢いでまくし立ててくる娘の声で我に返る。

 しかしながら、様々な感情がゴチャ混ぜになり、上手く言葉が出てこない。

 とはいえ娘の前で、旦那様――離婚されたので元旦那だが――以外の男性を、自分の胸に抱いているのはよろしくない、そう判断するくらいの理性は持ち合わせており、羅王の頭を抱いていた腕を解いた。


 ◇


「ん、あれ?」


 自身を包んでいた腕が解かれたことで、羅王も我に返える。

 だがなんとなく、アナスタシアとエルヴィラの間に、険悪というかただならぬ空気が漂っていることに気づいた。


「エルヴィラって怒りっぽい子なのかな? 最初もすごい剣幕で怒鳴ってきたし。――まぁあの二人がどんな関係かわからないけど、二人でなにやら話があるみたいだし、外野の俺は少し席を外そうかな」


 そんなことをごちり、羅王はゆっくり後退りするのであった。



 ◇ ◇ ◇



「リオくん、ここ座って、いいです?」


 アナスタシアが申し訳無さそうに、そう聞いてきた。


 エキサイトするエルヴィラと、それをなだめるようにしていたアナスタシアの長い話し合い。

 羅王からすると意味不明な言葉で繰り広げられていた話し合いも、しばらくしてどうにか落ち着いたようで、彼は自分の倉庫に戻ることを提案した。

 それを了承したアナスタシアが、エルヴィラと一緒にきてくれたところだ。


「どうぞどうぞ。これスポドリだけど、姉ちゃんも飲んで。――あっ、エルヴィラもどうぞ」


 ピクニックテーブルセットへ着席した二人に対し、用意していた紙コップにスポドリを注ぐと、羅王はそれをうやうやしく勧めた。


「わたし、助けてもらうしたです。お礼しないでした。リオくん、たくさんたくさん、ありがとでした」


「礼を言われるほどのことはしてないけどね。でも姉ちゃんを助けられたなら、良かったと思ってるよ」


 緊張はしたが、最終的に塗料のスプレー缶を渡すだけで済んだ。

 それも、ある意味で羅王自身は楽しみながら。

 結果的に助けたことになったが、彼は重々しく捉えていない。

 なので、羅王が口にした言葉は彼の本心なのであった。


「リオくん、わたし、姉ちゃん、違う。あ~う~、エルヴィラ、わたし、子ども。わたし、おばちゃん? です」


「ん?」


 急に話が変わった。

 しかも、アナスタシアの発する日本語が片言すぎて、言葉の意味が今ひとつ理解できなかった羅王は、聞いた言葉を復唱しながら意味を理解しようとする。


 そして気づいた。

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