Bパート


 想定外の日向斗の言葉に、ルナはぽかんと口を開けた。

 常にあの飛んでいる光の妖精に辛く当たっているいつもの日向斗なら、きっと自分に対してもまた拳骨だのアイアンクロ―だのをしてくるものかと思っていた。なのに、そんな気配は微塵もない。


 また、自分を馬鹿にしているのか。

 誰が思い通りになるものか、と思ったが。


「気になるんだろ、味見くらいさせてやる」

 こちらに視線を向けずに言われたその言葉に釣られる。

 一度甘いものの口になってしまうと、甘味の誘惑には逆らえない。

 それは人間でも、闇の住人でも同じだった。


 恐る恐る階段を登り、指されたテーブルとその奥に立つ日向斗に近づくにつれて、同時に相手の感情が伝わってくる。

 雰囲気。動き。表情。ルナはそういったものをぼんやりと見れば、近くの存在が何を考えているかをある程度感じ取ることができた。だからこそ戦いの中で相手の先を読めたし、負け知らずだった。

 ――だからわかる。今日向斗の中にある考えは、「寝られないのか」という納得と、「まあついでだし話を聞くか」という情報収集の意図くらいなもの。


 初めて相対したとき。パンチを受け止められた時、そして腕を極められた時に放っていた、底冷えするような怒り。そして無機質で攻撃的な、うまく言葉にできない激しい感情は、どこにもない。

 闇を求め、闇を深める自分たちでさえ竦んでしまう感情を胸中で抱え込む日向斗の事をルナはひどく恐ろしく感じたが、そんな重く強い感情が簡単に消えてしまっていることも、ルナにしてみれば同じくらい恐ろしい。

 矛先のない衝動的な憎しみや怒りならまだしも、今まさに矛先になるはずの自分に対しても、今は何も感じていないなんて。


 何を考えているのかが、掴めない。わからない。

 わからないことは怖いこと。

 つまらないことより、よほど悪い。


「ホットミルクでいいかい?」

 思考と観察に夢中になる中で呼び掛けられ、ルナはびくりと震えた。

 それと共に今この現状に引き戻された思考が、目の前のクッキーに戻る。均等に並べられ、型も使っていないのに均一の大きさに整ったまん丸のクッキーたち。まだ熱いのだろうが、そのおかげもあってか匂いは部屋いっぱいに広がり、それを嗅いだルナの腹の奥を、きゅうと締め付ける空腹感が襲う。


 じっと。本当に穴が開くほどじっと見るルナ。

 自分の問いにさえ答えられないほどか、と日向斗は飲み物より先に大きめの皿を用意すると、手慣れた手つきで天板の上の満月を一つ、また一つと剥がし、凡そ半分をルナの前に置こうとした、のだが。


「お、っと」

 それと同時に半ばひったくるようにして皿を引き寄せ、両手でクッキーを掴んで食らうルナ。年頃の少女がやる行動にしては些かがっつきすぎている……というよりも。それは五歳児か或いはもっと幼い子供ががっついているような、そんな様子だ。

 マナーもルールもなく、手づかみで食べかすをぼろぼろとこぼしながら、指を舐めて、頬袋を作ってなおまだ次を口に入れる。

 その目は、これまで日向斗が見てきた中で最も輝いていた。


 一分と経たず、渡した更に乗っていたクッキーは全てルナの口の中に納まり、ぱんぱんに膨れた口をもくもくと動かしている。余りの食い気に呆れと驚きを半々にしながら、日向斗は火傷をしない程度にレンジで温めた牛乳を渡した。


 そうして、口の中のクッキーと一緒にほんのりと甘いホットミルクを呑みこんだルナは満足げに息を吐いたが、すぐに日向斗を見つめてくる。

 じっと、じっと。特徴的な星形のハイライトは、夜でも昼でも変わらず彼女の瞳の中で日向斗を映す。


 いい加減、そうして見つめられるのに居心地の悪さを感じ文句を言おうと日向斗が口を開きかけたあたりで、ルナの方が言葉を放つ。


「ボクに何が聞きたいのさ? トイフェルみたいな難しい話、ボクにはぜんぜんできないよ?」


 聞きたいことがある、などと日向斗が切り出したわけでもないのに先回りしてそう口を開いた。日向斗の中にすぐさま訝しむ思いが湧き上がるが、ルナはそれさえも見越したように先回りしてみせる。


「ボクは何を考えてるか、ぼんやり見ればわかるの。だから怒られないと思ってここまで来たし、話もしてあげていいかな~と思ったって、こと。これでわかる?」

「……それはまあ、便利な力だね」

 そう淡白な感想を口にしながら、日向斗は自分の内心を簡単に見透かされるのだろうかという不信感。そして、どうしてそんな力を持ちながら、相手の気持ちが、痛みが慮れないのかという不快感が浮かぶ。とはいえ、逆に隠し立てや腹の探り合いなど面倒なことをしなくて済むと割り切ることにし、息を吐いた。


 自分のマグカップに冷たいままの牛乳を注いで、丁度ルナの対面となる席に着く。そして彼女の厚意を有難く受け取り、質問をぶつけることにした。


「――妹が、闇の王国の幹部を倒した、というのは、本当か」

 ルナは、首を傾げた。その話は、既にトイフェルがしていたと思ったから。


「ほんとだよ? 嘘なんかつくわけないじゃん」

 だとしたら、なんだというのか。魔法少女たちが挙げた戦果を誇りたいとかそういう話なのかと思えば、内心などを覗く以前に日向斗の顔は苦々し気に歪んでいる。


「その、幹部というのは。今どうしている?」

 日向斗の中の感情は、強い後悔。

 ルナには、質問の内容と感情の内容とが全く結びつかずに困惑する。心が読めても質問の意図が読めない、というなんともちぐはぐ状態にもやもやとしたものを感じ、表情がむすっとしたものになるのを感じながらも質問には答える。


「知らないよ、あのおじさん乱暴でキライだったし。でも、倒されてからは見てないし、ボクも興味ないもん」

 狂乱のシャドー・イクトゥス。力で以て絶望を呼び起こそうとする武闘派気取りの魚面。ルナからすればただの乱暴者で、同じ幹部として名を連ねていること自体がルナにとっては嫌だった相手。自分だけじゃなく、トイフェルのことも『女だから弱い』みたいな口振りで馬鹿にしていた。

 結局、そんな風に馬鹿にしていた魔法少女にボロボロにやられ、そのあとは影も形も見当たらない。ルナはいい気味だと思っていたが、しかし。


「何がそんなに悲しいのさ、ぜんぜんわかんない」

 日向斗の心中の後悔はより一層濃くなり、同時に悲しみさえもが続々と溢れている。


 意味が分からなかった。

 強い相手に勝った。それは誇るべきことのはずだ。

 しかも相手はきっと、魔法少女の二人のことも相当に馬鹿にしていたはずだし、そんな相手が消えたところで罪悪感もないはずだろうに。


「妹が、殺す殺されるの戦いをしていた。それに気付けなかったことが不甲斐ない。兄失格だ、俺は」

 自分の問いに対しての答えだと思わしきその発言に、ルナは納得する。


 強い事。それは価値を証明することだ。だから凄惨に、そして無慈悲に戦うことは、自分の存在意義をより高めてくれる。

 だから戦うことは楽しい事だし、相手を痛めつけるのも楽しい事だった。

 そしてトイフェルはそれを支えてくれていた。自分の気付かない弱点や戦い方を教えて、より相手を強く、そして激しく壊す方法を考えてくれた。


 日向斗もそういった助言ができなかったことが、心苦しかったのだろうか。

 ――そう思っていたが、どうやら、違うらしい。


「……魔法少女が強いのは、嬉しくないの?」

 魔法少女、つまり、日向斗の妹たちが敵を倒したことそのものを後悔しているような。そんな状況になったこと自体を後悔しているような日向斗の素振り。

 そうなると、本当に意味が分からなかった。


 弱い奴は、『』。

 そのはずなのに、魔法少女たちに『戦ってほしくない』と思っているのが、あまりにも理解不能で、ルナは首を一層ひねる。

 日向斗が妹のことになると性格が変わるように、それこそスイッチが入ったように怒って突飛なことでもやってくると知っている。だから本当は魔法少女は自分が戦った時よりもっと強かったんだろう、だから取り戻したいのだろうと思っていた。けれど、そうでもない。


 どんどんと『わからない』が積もっていく中で、日向斗は溜息交じりに零した。



「強い人間になるってのは、相手を暴力で叩きのめすことだけじゃない。それに、誰かを殴る蹴るで黙らせることだけが強さだなんて、俺は思わない」

 日向斗は冷たい牛乳を飲み干すと、残ったクッキーをクラフト紙のパッケージに詰めてルナへと差し出す。トイフェルに渡せと短く告げながら。


 呆然と、それを受け取り、言われるがままに部屋へと戻ったルナ。

 完全に冴えてしまった目で天井を見つめながら、うわ言のように繰り返す。



「……力があることは、強さじゃない……?」



 胸に痛みはもう残っていない。

 ただ代わりに、胸の奥を隙間風が通り抜けていくようだった。



 ◆ ◆ ◆



 日向斗がいつもの通りに朝早く目を覚まし、朝食の支度をする。

 味噌汁。卵焼き。麦ごはん。特別何かを考えることもない、いつも通りの朝食。


 ――二人分の材料を切り終えた後に、これでは足りないと思い直すのも。

 身構え続けても、騒々しく寝坊したと飛び出してくる妹の姿がないことも、昨日と全く同じ。


 そのはず、だったのだが。

 がたん、どが、だだん。何かが倒れる音が下から響き、コンロを止めて日向斗が駆けつけて見てみれば。


「放せ、このっ!」

「逃がさないカフ! 正体を現したカフね!!」


 髪を掴んで引っ張るカフタンと、それを引き剥がそうとするトイフェルの姿。

 物音からもわかっていたが、相当に暴れたのだろう。テーブルとその近くに並べてあった椅子がなぎ倒されている。


「朝から何をやってるんだ、近所迷惑だ」


 呆れと怒りを込めつつ呼び掛ければ、トイフェルの方ははっと状況を理解したらしくおとなしくなるも、カフタンの方は一切トイフェルの髪を引っ張る力を緩めず日向斗に訴え出た。


「ヒナト、こいつが逃げようとしてたんだカフ! それに、もう一方も姿が見えないし、やっぱり嘘をついて逃げるつもりだったんだカフ!」

 その言葉に、眉を上げる日向斗。


「それ、いつから?」

「ぼくがさっき起きたときには、もういなかったカフ! 夜にどこかへ出かけて行ったに違いないカフ!」

 ――夜中。昨日の夜更けに、日向斗とルナが話したそのあとだろうか。


 理由は定かではない。だが気にかかるのはトイフェルの様子だ。

 いますぐにでも駆け出しそうな落ち着きのない様子で、いつものこちらの機嫌を伺うような素振りも、饒舌さもない。


「トイフェル、ルナって子は何も言ってきてないのか」

 

 凡そ肯定と同義の沈黙に、日向斗は思わず乾いた鼻息が漏れた。


「他人の妹は攫っておいて、随分と虫のいい話だ」


 顔を上げることもない。今日向斗が口にしている台詞が、ひどい嫌味であると同時に、反抗のしようのない真実であるからだ。


 他人の身内は奪ったが、自分の身内は助けたい。

 それをまさか被害者の前で堂々とのたまえたなら、面の皮が厚いなどという次元ではない。


 ――だから。

「妖精、お前はこいつを見張りながらあいつを探せ。俺は俺で探しに行くから」

「……は?」


 当然のように日向斗が言った台詞が、トイフェルには理解できなかった。


「な、なにを言ってるカフ!」

「一回聞いたら理解してくれないか。ルナを探しに行くんだよ。そう遠くには行ってないはずだし」

「どうしてカフ! 何かの罠かもしれないカフよ!?」


 カフタンは困惑のままに問いかけるが、日向斗は説明するのも億劫だと言わんばかりの溜息をつく。


「なら、朱音や青葉は助ける人間を選んでいたか?」

「う、うう……」

 カフタンは、言葉に詰まる。

 朱音は自分を悪意を持ってからかっていた人間を、魔法少女として助けていた。それを朱音は、『正義の味方なら当然だよ』と笑顔で言い切った。

 青葉は長刀の大会で妨害をしたライバルを、魔法少女として助けていた。それを青葉は、『自分にしかできないことだから当然』だと静かに言い切った。

 そして、日向斗も当然のように告げた。

「赤の他人に手を差し伸べられないような人間が、家族を助けられるはずがないじゃないか」


「でも、でも! 嘘をついてる可能性があるじゃないかカフ!」

 そう言って、トイフェルを睨むカフタン。

 その疑問も最もなものだ。世界を絶望と闇で満たすことが目的で、他人を簡単に傷つけることができて、実際に被害を与えている。信用できる要素などどこにもない。


「そうかもね」

「なら!!」

「だからもし嘘をついていたのなら、闇の世界だろうが何だろうが、果てまで追いかけて殴りに行く。

 ――それもまた、当然のように。誰かを助ける道理を説きながら、裏切りへは私刑を下すと。全く同じ温度で告げて。


「どうする?」


 最後に、話の矛先はトイフェルに向けられた。

 協力は惜しまないが、裏切りは許さない。自身のスタンスを示したうえで、どうしたいのか。そう日向斗は問うている。

 手が震える。恐怖なのか、焦りなのか、混乱した頭では自分の思考さえ判断がつかない。


 だが、胸中を埋め尽くすのは、ただ一つの姿だけ。


 喫茶店の柱時計の鐘が鳴る。まるで彼女を急かす様に。


 ◆ ◆ ◆


 同時刻。


 ふらふらと、ルナは街をあてもなく彷徨っていた。


 あの後、一睡もできず夜明けも間近になって、彼女はあの喫茶店から飛び出した。日の出が近づき、空に濃紺と薄紅のグラデーションがかかる。それにトイフェルの髪色を重ねるが、同時に、日向斗が零していた言葉が思い返される。


(力だけしか強くないボクは、強くない、のかな)


 鼻で笑ってしまえばそれで済むの言葉が、胸の奥に穴をあけてしまったようだった。

 寝不足で痛む頭を押さえながら、壁に背を預けてうずくまる。時期は五月、気温が上がり陽気が目立つ時期とはいえ、朝一番はまだ寒い。

 かじかむ指先を服の袖に隠し、どうすれば、どうしよう、と答えの出ない考えをまた考えていたルナの耳に、違和感のある足音が近づく。


(……なんだよ、こんな時に)

 顔を上げ、半開きの目で姿を見れば、それは一人の男だ。確かあれは、この世界に来て最初の日にぼこぼこにした男の一人。今その眼差しはひどく胡乱で、口を半開きに、あーとかうーとか、声にならない言葉を上げながら片足を引き摺る不格好なさまでこちらへ向かってきていた。


「ねぇ、今いらいらしてるんだからどっかいけよ」

 背丈の差が30cmを超える相手に、命令するように吐き捨てるルナ。それもそのはず、歩いてきた男の中には、今『アクマーダー』が取り憑いている。


 元々この世界に来て最初の戦力にするつもりで、二人で男たちを気絶させ全員に『アクマーダー』を埋め込んだ。

 その直後、日向斗に捕らえられるというアクシデントは起きたものの、成長を見計らったところで日向斗にぶつけ、後輩だという彼らへの情で動きが鈍ったところで、十体近い『アクマーダー』全てを日向斗に寄生させる。

 うまくいかずとも信用の点数稼ぎに役に立つだろうと、トイフェルから聞かされており、ルナもそこまで気に留めていなかった。


「あ、んむ――――あ、ァ――」

 意思の無い寄生生物のような『アクマーダー』は、事細かな命令は覚えられないが、少なくとも幹部の言うことには従うはず。

 だが、今のルナの言葉を受けても、眼前の男は微動だにしない。それどころか、腕を伸ばしてルナを捕まえようとさえしてくる。


「もう、もう! なんなのさ、全部、いらいらする!!」

 何もかもうまくいかない。わからない。

 そんな子供らしい癇癪のまま、いつもと同じ暴力によって目の前の問題を排除しようと、がら空きの腹部に拳を打ち込もうと、したところで。


 思い返される、あの言葉。


「――ッ!」

 殴る蹴るで黙らせることだけが強さだなんて、思わない。


 びた、と。殴りつける直前で、動きを止めて。


「なら……なら、ボクはどうしろっていうのさ……」

 へたり込む。どうしてあんな言葉一つで心かき乱されるのか、こんなにも考え込んでしまうのか。自分の中がぐちゃぐちゃになっていくような感覚。


「あ――ま―――」


 そんな自分を、見下ろす男。

 俯き、熱くなった目を擦り、鼻を啜るルナ。


 その頭上に、びちゃびちゃと。黒く生暖かいものが降り注いだ。


『mu――mur mum mum murrrm mum』

「な、え、なに、なにこれ」

 まだ成長しきっていないはずのアクマーダーが、男の身体から抜け落ち、ルナの身体にこびり付く。意味不明な音とも声ともつかない呻きと共に、もがく身体を覆い、呑み込み、身体全てを包もうとする。


「や、やだ、やめてよ、このっ、離れてよ!」

 だが、暴れても、足をばたつかせて踏みつけても、不定形の身体には意味がない。びしゃと弾けた飛沫がさらに彼女に纏わりついては、重く、重く彼女の動きを縛る。

 泡立つ黒に包まれて行く視界。柔らかいような、空を掴むような、地面に足をついているはずなのにその感触すら朧げになって沈んでいくような。


 そして同時に。

 『自分ルナ』という感覚が、溶けていくような怖気が、唐突に彼女を襲った。


「――や、いや、なんで、なんで」


 そんなはずはない。そんなはずはないのだ。

 自分は違う、そのはずなのに。


「とい、ふぇる……」


 視界から、光が消えるその瞬間。

 星の光が、その目から失せるその最後。


 名前を呼んだのは、認められたかったはずの母の名前ではなく。

 ずっと共にいた、家族のような相手の名前だった。


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