第2話雨の日の出会い
天気予報で傘のマークなんて一つも出ていないのに、さあ帰ろうかという時になって急に降りだしてきた。
ポタリと水を空から感じた瞬間、ぼくは駆け出していた。こういうことには敏感だから、誰よりも先に屋根の下に辿り着く。
その日、ぼくは、傘を忘れたまま、出掛けてしまった。
そこで、ぼくは、彼女に肩を、叩かれた。
「ーーーーーーー(寄っていかない?)」
彼女の口は、何かを、伝えてはいたけど、ぼくの耳には、届かない。ぼくは、両手を耳にあて、その後で、胸の前でバツを、作った。それだけで、彼女は、ぼくの事情を、察してくれた。
彼女はぼくの耳が聴こえないことを、少しの動きだけで察してくれたんだ。
彼女は、笑顔で、店を、指差した。
寄っていけ、ということらしい。
ぼくは、頷いた。
彼女の手に、引かれて、入った店の中は暗く、たくさんの人が、いた。彼女は、一つのイスを、ぼくに、用意した。そして、ぼくを指差した後で、イスを、指差した。
ゆっくりとした、動作だった。
ぼくに解るように、伝わるようにと、耳の聴こえる彼女は考えてくれたんだろう。そんなにゆっくりでなくても、ぼくにはちゃんと伝わるのに。
それでも、ぼくは嬉しかった。
ぼくのことを考えてくれた彼女に、心から感謝した。
彼女が、その時、伝えたい、ことは、ここに座れ、という、こと、らしい。
おとなしく、座っていると、急に、周りが、明るくなった。
周りの人たちは、立ち上がって、腕を、振り上げたり、ジャンプしたり、なぜか、タオルを、振り回したりしていた。
外では夕立が降っているのかもしれなかったけど、室内ではもちろんそんなことはない。そんなことはないはずだけど、床が面白いくらい揺れていた。今、雷が落ちたのかな。そう思うくらい、店内はきらびやかだった。
ステージの上では、彼女が、楽器を持った数人と、一緒に立ち、本当に楽しそうに、マイクを、握っていた。
本当に、本当に、楽しそうで、幸せそうで、嬉しそうな、彼女の笑顔に、ぼくは、一目惚れした。
歌を歌う人って、こんな風に笑うんだな。ぼくは、彼女に恋をした。
少しだけ残念なことは、ぼくが彼女の歌声を聴けないということだった。
例えば、彼女の歌声が夕立の雨の音に掻き消されて聴こえないのだったら、ぼくはまだ希望を持てたのかもしれない。その日のように夕立が上がるのを待てばよかったんだから。
でも、ぼくの耳には邪魔をする雨音も、彼女たちの熱狂的なファンたちの声援も、何一つ届かない。
音が聴こえるあなたに聞いてもらいたい。目の、見える、あなたに、見て、もらいたい。
どうか、ぼくのこの想いを。
ぼくはその日、恋をした。
夕立の降るその日、雨から守ろうとしてくれた彼女。ぼくのことを理解し、並び立とうとしてくれた彼女。
ぼくの、耳には、雨は、落ちない。だって、聴こえない耳には雨の降り落ちる音は届かないのだから。
でも、確かにその日、ぼくの心には雷が落ちた。恋という雷に、ぼくはうたれた。
ぼくは、彼女が、好きだ。
雨が上がって、入ったときと同じように、彼女の手に、引かれて、店の外に出て、「ーーー(じゃあね)」、と手を振られた後も、ぼくの胸は、ずっと、ドキドキ、していた。
その後、何度も何度も、同じ店を、ぼくは、訪れた。
彼女に会える時もあれば、会えないときも、あった。二回目に、目が逢った時には、彼女は、すごく、驚いていた。でも、笑顔で、手を握りに、ぼくの側に、来てくれた。
彼女は優しい。誰に対しても。
ぼくはきっと鬱陶しかっただろう。いや、もしかしたら存在すら目に入っていなかったのかもしれない。
耳の聴こえない人にとってライブハウスなんて所は価値のない場所だ。ぼくたちは、この耳で一生音を楽しむなんてことはできない。だから、そこはぼくたちにとって一生無縁の場所。一生、訪れたくない場所。
店に入って、ただ座って、音楽を楽しむわけではなく食事して飲み物を飲む客。
ぼくは、きっと、そんな客に、見えていた、はずだ。悪い、客だ。
悪い、人だ。
夕立さえ降っていないのに、ぼくはそこで雨宿りしたいと思って足を向ける。
あの人に、会いたい。
あの人の、笑顔に、会いたい。
いつの間にか、ぼくたちは、連絡先を、交換していた。声という、音で、伝え合うことが、できないことも、文という、言葉だったら、伝え合えた。
たくさんのことを、伝え合った。
たくさんの言葉を、送り合った。
でも、彼女の声だけは、ぼくに、届くことは、なかった。それだけが、
少しだけ、寂しかった。
ある日、ぼくは、彼女に一通のメッセージを、送った。
「好きです」
その日から、しばらく、ぼくは、店に、行けなかった。彼女の、返事も、来なかった。
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