流せない

@Da-Riato

流せない

 夢は幸せな家庭を持つことだった。

刺激的な生活でなく、むしろ静かな幸せでよかった。

夫と子供といっしょに楽しく家で食事しているような細やかなものでよかった。

昔は容易に想像できた。

家族みんなで談笑して、暖かな光が身体に温もりを与えてくれるのが想像できた。

しかし、今ではその光の届かない奥の玄関から入ってくる肩を怒らせた男が冷気をつれて、私がタバコの煙を払うのと同じようにそれをかき乱した。

会話はない。

夫は働かず毎日遊び呆けている。職場内でのいじめにあい、それに追い討ちをかけるように親が亡くなったことを知らされて心が感情を誤変換、ミスリードさせていた。

私はといえば何の取り柄もなく、就職することはできず、アルバイトで毎日働いている。

たまに日雇いのバイトを挟んだりして休む暇なんてない。

それでやっと質素な生活ができるくらいだった。

夫は今日もテーブルに置いた食事を目にすることなく自室に入っていった。

その時、私はキッチンから夫の方を罪の意識さえ感じながらチラリと見るが、やはり夫は私を反射した光を一切捉えることのできない方向を向いていた。

もはや悲しみなんて感じない。

私の精神は外の現象を捉えようとする行為を放棄していた。

そうすれば心を通るものなんてない。

胸が苦しくなんてならないのだ。

私はなるべく静かに黒雲母のように薄い廊下を歩いて子供の部屋へ向かった。

暗い廊下のどうしても鳴ってしまう軋みを聞いた壁も自分が床の道連れにあって一緒に崩れ落ちてしまうのではと少し背中を丸めているように見えた。

子供部屋のドアを静かにノックする。

ゆっくり開けるとやはりドアの軋む音がする。

内開きの扉にするんじゃなかった。

開けるたびに思う。

子供はいつも図書館で借りてきた本を布団の上で読んでいる。

「ご飯できたよ」

息の割合が多い。

身体中の排気ガスを外に排出しないといけない。

私の出す声にはいつも身体中に充満し脳や筋肉を腐らせる焦げたため息が混ぜっている。

そろそろ私終わりなのかも

最近思う。

子供は返事なしに布団から出て私と手を繋いだ。

それから部屋の電気を消して扉を閉め、テーブルに向かおうと肩をそちらに向けた。

なにこれ、こんなの私の望んだものじゃ…

目をブラックホールのように暗くしその情景の光を逃がさない。

目を瞑っても眼球に残る光が視神経を刺激する。

私は空いてる方の手で頭を叩き、こめかみを強く抑えた。

私の目は吸い込みすぎた不要な光を涙として排出しようとした。

私は一切鼻をすすることなくそれを拭った。

食卓についた二人は白い光の下、食事をする。

すると突然、子供が口を開いた。

「お母さん、どうして僕を産んだの。」

無邪気かつ少し賢かったこの子は私の排気ガスに火をつけた。

それはあまりにも唐突で信じられない出来事だったため頭が働かず、なにも言葉が出てこなかった。

しかし、自分の精神を誤作動を起こし、今までの記憶にある情景がどんどん心へと流されていく。

「お金がないのになんで僕を産んだの」

初期微動で小さく震える手は自然と箸を置き、ペラペラの座布団からゆっくりと立ち上がり玄関へ向かう。

靴を履こうとするが熱いものがもう昇ってきている。

それはものすごく重くて背中が丸くなる。

急いで外に出ようと履きかけのまま身体を持ち上げようとするが、力んで声をあげそうになる。

それを手で抑えて必死に堪えた。

倒れ込むようにして外に出ると、扉が閉まるまで眉を吊り上げてまだ流すまいと感情を溜め込んだ。

閉まるや否や泣いた、いや感情をそのまま吐き出した。

生物学的な生理現象としてではなく、感情を心が認識する前に全て涙でぶちまけた。

危険だったから

自分や自分の周りに危害を加える可能性を本能的に自分の内側に感じたから

感情を生体反応へと変換させまいと自分を狂わせた。

その姿がどんなだったかは言いたくないし正直あまり覚えてない。

 一旦落ち着くと、母親はドアノブに手をかけて部屋の中に入った。

電気は消されていて真っ暗だった。

唯一月明かりがカーテン越しに床を優しく照らしている。

いつもは小さいと思っていたこの部屋も、今だけはそこまでの道のりがとても長く感じられた。

私は怖くて、暗闇が隠してくれたというのに目を瞑った。

そしてそのまま、窓に近づきカーテンを手に取った。

少しだけ目を開きカーテンをめくりかける。

しかし、暗闇を消したくなくて手が止まってしまう。

そのまま何分経っただろう。

めくることができないままずっと私は立っていた。

私は結局寝ることにした。

目を瞑ったまま壁伝いに進んでいく。

寝る前にトイレに行こうと私はトイレに向かった。

私はトイレの近くに来ただろうと思い片目だけ少し目を開けた。

トイレには灯りがついていて誰かが使っているみたいだった。

だが、少し違和感があった。

わからない。

もしかしたら軋みが私の背中を押したのかもしれない。

それか扉の先の静けさが私に誘ったのかもしれない。

もしくは真っ暗な廊下に漏れた光のようで光でない白い何かが私に奇妙な刺激を与えたからかもしれない。

私は扉を開けた。

すると、血まみれの白衣を着た女がトイレに向かって立ち、何度もトイレを流していた。

ジャージャー ジャージャー

私はびっくりして尻もちをついてしまう。

柔らかい床がまるでクッションの様に私のお尻を包んでくれた。

さっきまでこんな音聞こえなかったのに。

女は血が特に下半身にべっとりとついていた。

私は身の危険を感じてキッチンに向かおうとその方向を見るが、何も見えない。

女の方を向き直る。

ジャージャー ジャージャー

女は何度も流している。

子供部屋の方も見てみるがやはり何も見えない。

まるで光が届くところにしか世界が存在しないようだった。

ジャージャー ごぽごぽ ごぽごぽ

何かが詰まったらしい。

私は腰を壁に擦り付けながら立ち上がり恐る恐る女に近づいた。

そして

「な、なにしてるの。」

私は声を震わせて言った。

女に恐れていたのかはわからない。

けれども、おもらくもっと別のものを恐れている様な感覚だった。

光に、世界に恐れている様な、そんな感覚だった。

ごぼごぼ ごぼごぼ

「流れない流れない」

女は囁くようにしていった。

ごぼごぼ ごぼごぼ

「流れない流れないの」

女はずっとレバーを力強く引いてトイレを流している。

私はゆっくりと女に歩み寄り、女を警戒しながら、一度女の表情を見た。

青白かった。

血の気がひいていて死んだ人のようだった。

目はずっと下、トイレの中を見ている。

私は視線の先を見た。

頭だけ穴の奥に詰め込まれて、流されようとしている赤ん坊がいた。

女はまだレバーを引いている。

力強く。

私はあまりにもショッキングな光景を目の当たりにしたと思い、声を上げながら女を突き飛ばしながら倒れ込んだ。

女はすぐに勢いよく立ち上がりトイレに飛びついてきた。

私はそれを足で防いでまた突き飛ばした。

そしてすぐに立ち上がり、トイレのドアを閉め、女を外に出した。

私は背中で扉を押さえて入ってこられないようにしようとしたが、その必要はなかった。

女は入ってこようとしないどころか存在が消えたような気すらした。

私は急いで子供を引き上げた。

すると、赤ん坊は必死に泣いて私に縋るように体に抱きついてきたの。

可愛いと思わない?

だから私はその子を大事に育てることにしたの。

大事に大事に大事に大事に...

 「お母さん、大丈夫?」

子供が部屋から顔を覗かせている。

反応がなかった

だから出るしかなかった

そうするしかなかった

「お母さん」

廊下とキッチンの電気はつけっぱなしにしておいた。

(母親が暗いトイレから出てきた)

しかし薄暗く思えた。大きく見えたからだ。

母親はおかしかった

姿勢がよかった

胸を張っていた

輝いて見えた

母親はこちらを見た。

全ての光を反射したギラギラの目をこちらに向けていて顔を見れない。

眩しい

「おかあさん?」

それは肩を狭い廊下の両壁にぶつけながら、躊躇うことなくギシギシと音を鳴らし勢いよくこちらに迫ってきた。

どこにそんなスペースがあるんだと思わせるほど大きく手を広げて。

子供は逃げれなかった

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