第2話 黒いあいつ
村から隣町までの街道を歩くリリスの足取りは軽い。
しばらく歩くとオレンジの樹木が並ぶ畑に変わる。今はまだ時期ではないがあと少しすれば白い花が咲くのだろう。
両親と何度か通った道も今日はたったひとりだ。不安感など微塵もない、あるのは好奇心と開放感。
正直、出発前の儀式をするまでは少し不安だった。でもいざ一仕事終えてみれば、なんだか肝が据わったような気がした。さすが長年言い伝えられている伝統なだけはある。
己の乏しい記憶力によればこのオレンジ畑の先に森がある。その森を抜け、今度はリンゴの畑の中をくぐり抜けてようやく隣町だ。
青い空を仰ぎ爽やかな風を受けながらのんびりと街道を歩いていると、ふと、前方に不思議なものを見た。
リリスはぱたりと立ち止まる。
森の入口手前あたりだろうか、道の真ん中になにやら黒い物体が見える。今いるところから距離があるので、それが何なのかはまだハッキリしない。
(まさか、これが悪鬼?)
村を出れば悪鬼はびこると昔から脅されていた。実際にその悪鬼とやらを見たことはないが、あそこに見えているのがまさにそれではないか。
リリスはほかの回り道を探してぐるりと周囲を見渡した。しかし畑ばかりで道はない。畑に入って森を目指すのもいいが、自分の方向感覚には自信がない。
リリスは一呼吸おくと黒いものに向かって歩み出した。忍び足で行けば気づかれないかもしれない。できるだけ音を立てずに、できるだけ道の端を歩く。
しかし近づいてみると、それがどうやら人の形をしていることがわかった。
「人?!」
リリスは慌てて駆け寄る。
「おい、大丈夫か?!」
声をかけたところでピクリとも動かない。あわてて揺さぶってみる。
「おい、死んでるのか?! じゃあ俺が触ってるのは死体?!」
その自分が放った言葉に、リリスは「ヒッ」と勢いよく両手を引っ込めた。
そのとき、目の前の死体が身じろぎをした。
「ううー……」
(ヒエッ! ゾンビッ)
リリスは思いっきり後退した。村の年長者たちからよく聞かされていた。月のない日に墓石の下から死体が蘇って人々を襲うのだ。それをゾンビと言うのだと、墓の近くを通るときは注意しろと幼い頃から念を押されている。
すると死体と思しきそれはうめくように呟いた。
「は……腹、減った」
リリスは半ば涙目になりながら急いで自分のバッグを漁る。パンを入れておいたのだ。それを見つけ出すと、人のようなソレに素早く差し出した。
「こ、こここ、コレあげるから!」
食べ物の匂いにつられて、ソレはむくりと起き上がる。
「わっわっ、俺は食べないで! まだ死にたくないっ」
「……」
リリスの必死な懇願をよそに、ソレは無言のままパンを手に取る。そのままぺろりと食べあげた。
そのパンの味の名残を惜しむかのように親指を舐めながら、そいつはゆっくりとリリスに視線を移してくる。
(次はまさか俺?!)
背筋にぞわりと悪寒が走る。リリスは座り込んだまま後じさった。
「わっ、食べないでっ」
「……食うかよ。バカなの?」
呆れかえったような少年の声が飛んでくる。その途端、リリスの言葉がパッと明るくなった。
「そっか食わないのか、よかったー。バカなのか、よかっ……よくないわーッ」
「変なヤツ」
「変なのはお前だろ、ゾンビのくせに!」
「……あのな。俺のどこがゾンビなんだ」
目の前の男はあからさまに大きなため息をついた。リリスは小首をかしげる。
「もしかして、ゾンビじゃない?」
「違うと言っているだろう」
「……信じていい?」
「それはお前次第」
彼はそう言いながら立ち上がった。
「お陰で助かった。礼を言う」
「どこか行くのか?」
立ち上がった少年にリリスは尋ねた。相手はうなずく。
「ああ、この借りはいつか返す」
それだけ言うと振り返りもせずに歩き出した。リリスは呼び止める。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
「なんだ。まだなにか用か」
「なんだはないだろ、俺は一応お前の命の恩人なんだから。借りをいつか返してくれるんだったらせめて名前くらい教えろよ。そうしないとお前はいつまでたっても俺の中でゾンビだし、帰ったら母さんにも隣のおばさんにも言ってやるんだからな! 途中でクソ生意気なゾンビがいて……」
「……カンナ」
リリスの頭の悪そうな訴えに、彼は頭を押さえながら言った。
「俺の名前。カンナ」
「そっか、カンナね」
リリスは目的を遂げて、満足げにうなずいた。
「じゃあな、カンナ。気をつけて」
「ああ、またな」
カンナは軽く手を挙げると、すぐにその場を立ち去っていった。
「俺もこうしちゃいられないな」
とりあえず悪鬼でなくてよかった。昼ご飯はなくなったけど、一食抜いたくらいで死ぬことはないだろう。
(それにしてもインパクトある奴だったなあ)
リリスはぼんやり思った。
黒いシャツ、黒いズボン、黒いマント。黒い髪に瞳に、それから褐色の肌。リリスの白い肌や旅装束、金糸の髪とは相対的だ。真っ黒すぎて、ゾンビとまではいかなくとも死神かと思い返してしまう。
「でも、鎌持ってなかったし」
幼い頃に何度も読み直した絵本に出てきた死神の姿を思い描きながら、ひとりうんうんとうなずく。
「それに死神だったら腹が減って行き倒れることもないだろうな」
そう笑ってそれから、また会えるかなとなんとなく思うのだった。
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