呪い

ふさふさしっぽ

呪い

 飲み屋で、若い女と知り合った。

 会社の後のパチスロで儲けたときに寄る、ちょっと洒落た飲み屋。

 カウンター席で隣同士になって、女が先週旅行した場所がたまたま俺も知っていた場所で、その話で盛り上がった。

 もしかしたらこのまま最後まで……。ほんの少しだけ期待した。

 女は二十代半ばか、もう少し若いくらい。肩までのまっすぐな黒髪に、紙のように白い肌のコントラストが美しく、吊り目がちなところと、小さめの口から覗く八重歯が可愛らしい。

 おとなしそうな印象だけど、俺の話にテンポよく相槌を打ち、俺の冗談にあはは、やだあ、と鈴の音のように笑った。

 かなりいい雰囲気だったが、甘い期待をしすぎたようだ。


「終電なんで、帰ります」


 あっけなくそう言うと、女は席を立った。


 なあんだ。

 まあ、そうだよな。


 俺独身だけど、四十過ぎのメタボが最近気になるフツメン(決して過大評価しているわけじゃないぞ)。

 そうそうおいしい思いはできないか。

 俺の勘違いで、女の方も、どうやって話を切りあげようか困っていたのかもしれない。

 女は会計を済ませると、俺の方に微笑みながら軽く頭を下げ、店を出て行った。

 しかしこんな時間に小娘ともいえる年齢の女が飲み屋でひとり飲んでいるなんて、なにかあったのだろうか。

 女は自分の仕事を事務職とだけ語り、深く話さなかった。まあそれは穿ち過ぎで、ただたんに飲むのが好きなだけなのかもしれないが。事実女は酒に強く、一緒に飲んでいた俺の方がすっかり酩酊状態だった。

 ふと女が座っていた丸椅子を見ると、そこに鍵の束が置いてあった。どうやら女の忘れものらしい。

 電車に乗ってしまえば、取りに戻れなくなり、さぞかし困るだろう。


「すいません、お勘定」


 仕方がない。タクシーで帰るつもりだったが、俺も電車で帰るか。

 別に下心があったわけじゃない。女に恩を着せようとしたわけでもない。単に親切心と、今日は金曜日だからタクシーがなかなかつかまらないのを思いだしたのと、それと、あの、女の若干吊りあがった黒目がちの目が、俺の頭から離れなかったからだ。

 白い顔に並ぶ、まるで闇の底を映すかのような、あの目が。


  ***


 店から外に出ると、真夏の熱気が顔を包んで、少々げんなりする。会社がクールビズ中でネクタイ不在のワイシャツをつまんで、パタパタと扇ぐ。

 もう真夜中だというのに……年々日本は暑くなっているな。酔っぱらった頭でそんなことを考えた。 

 駅はもう、すぐそこだ。終電まで、あと五分ほど。

 下りのホームに、果たしてあの若い女はいた。

 急行も止まらない、改札が北と南合わせて四つほどの小さな駅だから、すぐに見つかった。待合室などもない。

 女が着ている紺のスカートも、セミロングの黒髪も、今はすとんと、おとなしくしている。風がまったくないからだ。この暑さに、風なしはまいる。この蒸し暑さ……そういえば、女はこの真夏に長袖を着ている。紺のスカートに合わせた紺のジャケットを、きっちりボタンを全部閉めて、着用している。

 俺は努めて酔っぱらっていない風を装い(無理だと思うが)さりげなく女に声をかけた。


「鍵、店の椅子に忘れてたよ」


 手にしていた鍵束を見せる。女は「あっ」という顔になり、「ありがとうございます」と微笑んで、鍵束を受け取った。無邪気で、まだ子どもらしさを残す笑い方だ。さっき飲み屋で一瞬感じた妖艶さはそこにはなかった。

 なんとなく会話が途切れ、電車来るの遅いなと思っていると、手前の駅で緊急停止があったため、十分ほど遅れるというアナウンスが流れた。


「あ、猫」


 アナウンスが終わると同時に女がそう声を放った。

 見ると駅内に小さな猫が入りこんでいた。目を凝らすとその猫は黒ぶちで、トコトコと女に近づき、その細い脚にすり寄った。子猫ではなく、痩せた猫だった。首輪はしていない。長いしっぽをぴんと立てて、女の脚と脚のあいだから顔を出したり引っ込めたりしている。


「懐っこいね」


 俺は適当な話題が出来たとばかりに、女に話しかけた。まだかなり酔っぱらっているせいか、饒舌になる。


「お嬢ちゃん、猫みたいな目えしてるから、好かれんのかな。いや、雰囲気もなんとなく猫みたいだよ。俺、お誘いしようかと思ったのに、ふらっとかわされちゃったしさ」


 女は無表情にこちらを見ている。

 やばい。余計なことを言ってしまった。

 慌てて、「冗談だよ」と言葉を付け足そうとすると、女はにたあーっと笑った。口から白い八重歯が覗く。

 と、それも一瞬で、女はまたすぐ元の無表情に戻り、そのまま俯いて、


「わたし、猫に呪われているんです」


 と呟いた。俺はぽかんとするしかなかった。あまりにも突拍子もない言葉だ。


「の、呪われてる?」


「ええ。わたしのひいおばあちゃん……、曾祖母のときから、らいらい……、ふまれてくる、女は」


「?」


「いや、代々、生まれてくる女は、れこ、猫の、呪いをうけりゅのれす」


 ……この女、酔っぱらってる? 顔に全く出てないから今まで気が付かなかったが、呂律がまわっていない。

 実はものすごく、酔っぱらってんのか? そうだよな、俺だってかなりきてるし、結構二人で飲んだもんな。だから、こんなおかしなこと言いだしたのか。


「電車が、来るまで、きいてくれまふか、わたしが、呪われている理由を」


 俺は黙って頷いた。いや、俺が頷かなくても多分女は勝手に話し始めただろう。猫は、女の足元で、女を見上げるようにして見つめていた。


 ***


「わらしの、曾祖母は、びんぼうな、農家の娘で、十二歳のときに、奉公にだされらのれす。

 要はやすいおかねで、売られてしまったのれす。

 その日から、曾祖母は、大きなお屋敷の、奉公人として、住み込みで働くことになったのれす。

 あ、曾祖母は、たいしょう生まれの人間で、おととし、亡くなりはした。

 九十五さい、ですよ。

 まわりの人間は、大往生だね、らんて、いひますけど、あんら状態で九十五まで、

 まるで、ごうもんですよ……」


 女は俺の方を一度も見ずに、反対のホームの方を向いて話した。線路を見つめているわけでもなく、空中を見つめている。いや、酔っぱらっているせいで、何も目に入っていないのかもしれない。

 酔い過ぎでいきなり倒れたりしないか俺はいささか心配だった。それと同時に、ちょっと面倒なことになったな、とも感じていた。まあ、電車さえ来れば、さよならなんだけど。


「ある日、それは起こったのです」


 いきなり女がしっかりした口調で話したので、俺はほんの一瞬、不覚にも怯んでしまった。だが相変わらず女は向かいのホームの方を向いている。


「曾祖母が奉公に出て、何年かした頃、お屋敷の奥さまが……、この奥さまというのが大の動物嫌いで、屋敷に居ついていた野良猫が子どもを産んで、にゃーにゃー煩くって、しょうがないから、まとめて捨てて来て頂戴って、奉公人達に頼んだのです。当時奉公人はそのお屋敷に三人だか四人だかいたらしいのですが、奥さまのご命令には逆らえません。皆で親猫と子猫を集めて、木箱に全部一緒に詰めたんです。そして」


 女はそこでぐるん、と顔をこちらに向けた。アーモンド形の目を見開く。


「一番年少だった曾祖母が、年長の奉公人に命じられて、その木箱を川に流したんです。木箱は開かないように釘を打ってありました。数日後、曾祖母に命令した年長の奉公人は、竈の火を焚くところに頭を突っ込んだ状態で死んでいるのを発見され、曾祖母は、にゃあにゃあ、としか話せなくなりました」


 ***


 タイミングを見計らったかのように、黒ぶちの猫が「にゃーん」とあくび混じりの声を上げた。


「これが、祖母が曾祖母から聞いた話で、全ての始まりなのです。曾祖母はそれから一言も発さず、おしとして生きることになったのです。しゃべろうにも、猫の鳴き声しか口から出ないのです。わたしも、一度だけ聞きました。あれは人間の声ではありません。まるっきり、猫の鳴き声です」


「にゃあにゃあしか話せないのに、よくそのことを自分の娘や孫に伝えられるね」


 俺はそう言うのが精いっぱいだった。なんだかこの小娘の気迫に圧倒されていた。

 というか、こいつ、酔ってたんじゃないのか? さっきとまるで違って、今は冷静に淡々と話している。


「筆談ですよ。ちなみに最初にこの話を聞かされたわたしの祖母は、全身毛むくじゃらで生まれてきました。処理しても、すぐに生えてくるのです。祖母の娘、わたしの母は、生まれてから今まで削り節とミルク以外口に出来ません。それ以外の食べ物は、すぐに吐いてしまうのです」


 そのとき、助け船のように、構内アナウンスが流れた。「一番ホームに、電車がまいります」

 気がつけば、俺は汗をぐっしょりと、全身にかいていた。

 息苦しい。なんだろう、この息苦しさは。暑さのせい。そうだ、この風もない暑さのせいだ。

 はやくこの訳の分からない女と別れて、一人暮らしのアパートへ帰ろう。そうすれば、またごく普通の気ままな生活が始まる。

 俺は、電車が来る方を見つめた。視界の端に、女の視線を感じる。吸い込まれそうな、黒い二つの目。

 と、いつのまにか女は俺のすぐ近くに立っていた。俺は間抜けにも「わあっ」と声を上げてしまった。女は俺の方を向き、おもむろに自身が着ている、紺のジャケットのボタンに手をかけた。


「電車が来ますね……」


 ひとつ、またひとつ、ボタンを外していく。


「曾祖母も、祖母も、母も、それでも結婚して、子を、産みました。それでも好きだという男性が、現れたのでしょう。でも、わたしは……」


 ジャケットのボタンを全て外すと、しっかりした生地の黒いブラウスが現れる。女はそのブラウスのボタンにも手をかけた。


「わたしで呪いは終わりです。終わるはずなんです。だって、こんな女を抱きたいとは、誰も思わないでしょう」


 黒のブラウスが俺の前で開かれた。

 女は下着を付けていなかった。ただ、いくつもの乳房が、なにかの果実のように、そこにはきちんと並んでいた。

 本来二つであるそれは、ピンポン玉くらいの大きさで、鎖骨の下から腹のすぐ上まで、五段続いていた。

 全部で十個の、整然と並んだ白い果実。

 いや、果実というより箱詰めされた饅頭みたいだ。中身が詰まったまっ白い饅頭が十個。そのすべての饅頭の頂点には桜色の餡子がぽちりと乗っかっている。

 電車がホームに入ってきた。

 女は素早く服を整えると、何事もなかったかのように、その電車にゆっくりと乗り込んだ。


「あ、俺も乗らなきゃ」俺がそう思ったときは、もう遅く、電車のドアはすでに閉じていた。


 ドアの向こう、若い女は、無表情に、やや吊りあがった二つの目を、俺に向けていた。

 うっかり足を滑らせたら、引きずられて、どこまでも落ちていきそうな、深い深い黒い目。禍々しいように感じるのに、どうしようもなく魅力的にも思える。

 俺は、彼女の目から、目を放せない。

 電車が発車する瞬間、彼女がにたあ、と笑った気がした。笑った瞬間だけ、別人のような気がした。

 電車が去っていく。風が通り抜ける。あとには、俺と、黒ぶちの猫だけ。猫は、彼女と同じアーモンド形の目で、意味ありげに俺を見上げる。

 またあの飲み屋へ行けば、会えるだろうか。

 あの、乳房がたくさんあった女と? あれじゃまるで動物じゃないか。 あれは、なんだったのか。

 俺は、酔っぱらった頭で必死に考えた。必死に考えても、結局は、あの底なしの目にたどり着く。なぜだろう。俺はまた彼女に会いたいのか。あの目に見られたいのか。俺はすでに、うっかり足をすべらせちまったのか。

 意識がだんだんと遠くなり、俺はその場に座り込み、黒ぶち猫と一緒に眠ってしまった。眠りに落ちる瞬間、座り込んだ俺の脚の上で猫が「キャハハハハハハ」と鳴いたような気がしたけど、俺の意識はすぐに闇に落ちてしまった。

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