第4話
その日の夕餉が終わると、いつになく剛介はそそくさと文机に向かった。書見に集中しようとしたが、今日はどうにも気が散ってしょうがない。夕餉時、伊都はいつものように給仕をしてくれたが、まだ怒っているのか、それが気になった。何せ、視線を合わせようともしないのである。あれや此れやと思い返す内に、とうとう今日の分の書見は諦めて、本を閉じた。
もっとも伊都も伊都で、剛介の様子をちらちら見ながらも、今までのように無邪気に近寄っていったりはしない。多分、あの奈緒とかいう女性に、剛介への想いを気づかれてしまったに違いない。ほんの一瞬だが、奈緒の目に、全てを悟ったような光が浮かんでいたのを、伊都は見逃さなかった。唐突に席を立ってきたのは、あれ以上余計なことを探られたくなかったからだ。昼間の事を思うと、今までのようには振る舞えなかった。
そのようなぎくしゃくした空気は、家長である清尚ですら気まずい。いっそ、伊都に酒の支度でもさせようかと思案していたときだった。
「伊都。済まないが、酒の支度を頼む」
珍しく、剛介から伊都に酒の支度を頼んだ。時に父親の清尚の晩酌に付き合うことはあるが、剛介から酒をねだるのは、清尚の記憶にはあまりない。
(何か心境の変化があったかな)
清尚がそう感じるほど、いつもの剛介らしくない振る舞いである。
「はいはい」
伊都は、まだ不機嫌さを漂わせながらも、熱燗と酒肴の支度を整えた。丁度、夜空にはぽっかりと十六夜の月が浮かんでいる。恐らく縁側で、月見酒と洒落込むのだろう。
「飲み終わったら、ちゃんと流しへ運んでおいてくださいね」
言われなくても、律儀な剛介は片付けてくれるに違いない。わかっているのに、今日は昼間の一件で、どうしても言動に棘が含まれるのを、押さえきれなかった。
伊都の手によって手際よく熱燗の支度が整えられると、剛介はそれを盆に乗せて、濡れ縁に出た。
伊都が自分の事を想っている。では、自分は?
このところ、伊都が美しさを増しているのは認めざるを得ない。気立ての良さは、四年も暮らしているのだから、よく分かっている。だが、伊都が他の男に嫁ぐかどうかは、剛介が決められることではないのだ。
(それでも)
昼間の奈緒の言葉で気付かされたが、剛介自身も、本音では伊都が他の男と並ぶのは面白くないのだ。だが、他の男に攫われたくないという思いは、本当に兄としての思いなのだろうか。ああ、もう。こんなことを、誰に相談したらいい。
一人煩悶しているらしい剛介を、清尚は興味深げに眺めた。あの後、登美子から昼間の一件を聞き出していた。どうも、剛介との友人の見合い(と呼べるかどうかは疑問だが)は、不調に終わったらしい。娘の想いに薄々感づいていた父親としては、これを機に、一気に伊都と剛介の縁談に持っていっても良かったのだが、正式に婿として迎えるのならば、自分から申し込む気概を見せてほしい気もする。
どちらも、清尚にとっては大切な娘と息子であるからだ。
「剛介殿。お付き合いしてもよろしいですかな」
義父の言葉に、剛介ははっと振り向いた。その顔は、既に赤みを帯びている。徳利は一本が空き、二本目に差し掛かろうというところだった。剛介にしては、いつになく早い飲みっぷりだ。
「そんなに呑まれると、明日に差し支えますよ」
からかうような義父の眼差しに、剛介は体をもぞもぞと動かした。
「義父上。伊都が大人になったからには、嫁に出すおつもりですか?」
(これは……)
いつになく、剛介は伊都のことを気にしている様子だ。もしかしたら、剛介も伊都のことを意識しだしているのか。
「どうでしょう。今少し、早い気もしますな」
やや意地悪く、清尚は剛介に相槌を打った。
「もしも、ですよ」
意を決したかのように、剛介は切り出した。
私が伊都を
剛介の言葉に、清尚は思わず快哉の笑みを浮かべた。やはり、剛介も伊都の事が気になっているのだろう。剛介が女性に慣れていないせいか、二人は普段、必要以上にあまり言葉を交わさない。だが夫婦になれば、それも徐々に解消されていくかもしれない。
それにしても。
二本松からこの地に落ち延びてきて以来、剛介は気が抜けない日々だっただろう。その中で、剛介の中には、ちゃんと人間らしい感情も育っていた。そのことに、清尚は安堵した。
「もちろん。元より、そのつもりでした」
義父の言葉に、剛介は瞠目した。まさか、自分が伊都の婿候補だったとは。
「剛介殿も、伊都のことがお嫌いではないのでしょう?」
「はい」
酒の勢いを借りているにせよ、それは剛介の偽らざる本心だった。まだ、この感情が恋なのかどうかは分からない。だが、妹に対する情というのとは、明らかに違う気がする。
「伊都を、他の男に嫁がせたくはないです」
「それを聞いて、安心しました」
清尚は、笑みを深めた。
「母親を早くに亡くしたために、普通の娘よりも至らぬ所もございましょう。それでも、伊都が剛介殿の妻となるのであれば、亡き妻もあの世で喜ぶに違いありません」
かたり、と杉戸の方から物音がした。
「伊都、そんなところで聞いてないで、こっちへ来い」
明るく弾むような声で、清尚は声を張り上げた。その言葉を聞いて、剛介は狼狽した。まさか、今の話を聞かれていたのか。
諦念したのか、杉戸の向こうから、伊都が恐る恐る顔を覗かせた。さらに、清尚はとんでもない提案をしてくれた。
「剛介殿。少し酔い醒ましに歩かれてきたらどうです?伊都、剛介殿にお付き合いしてこい」
「義父上?」
若い二人に、きちんと話をさせてやろうとの清尚なりの配慮だった。義父の言葉は強い。剛介は仕方なく、ふらつき始めている足元に雪駄をつっかけて、玄関を出た。その後ろに、伊都もそろそろとついてくる。背後に伊都の気配を感じながら、剛介は湯川の土手まで黙々と歩を進め、土手にごろりと寝転がった。目を閉じると、川面を渡る夜風が心地良い。
義父の言葉通り、相当酒が回っていたらしい。今になって、酒量が過ぎたのを、若干後悔していた。
「剛介兄様、大丈夫ですか?」
伊都の声に目を開けると、不自然な位近くに、黒々とした双眸があった。こら、酔っ払いに、そんなに顔を近づけるものではない。これが他の男だったら、たちまち手を出されるところだぞ。
「多分」
「多分、ではないでしょう。飲み過ぎです」
昼間の諍いは何処へやら、伊都にまで心配される始末である。まさか、自分の感情を持て余して酒量が過ぎたとは、恥ずかしすぎて口にはできない。
伊都も、剛介の隣に腰を下ろした。膝を崩した姿勢で座っているから、足首から脹脛にかけて、白く滑らかな、陶器のような肌がちらちらと覗いている。酒の勢いも手伝って、理性を失いかけている今は、目の毒にしかならない。まったく、罪なことをしてくれる。
しばし奇妙な沈黙が続いた後、切り出したのは伊都だった。
「本当なのですか?」
何を、とは問い返さなかった。先程の清尚との会話を、やはり伊都はしっかり聞いていたに違いない。返事代わりに、むくりと上半身を起こすと、不意に伊都を抱きすくめた。義理の兄妹とはいえ、伊都の体にこれほど触れたことなど、今までなかったことだ。
剛介の両腕に、伊都がすっぽりと収まる。その項からは、何とも言えない、甘酸っぱいような花の香のような、良い匂いがしていた。男のごつごつした体とはまったく別の生き物が、その腕の中にあった。
「剛介……さま」
いつになく荒々しい剛介の振る舞いに戸惑ったように、伊都が囁く。その呼び方が、「剛介兄様」でないことに、剛介は気づいた。
「伊都。私と夫婦になってほしい」
伊都を抱きすくめたまま、剛介はきっぱりと言った。するりと出てきたその言葉に、剛介自身が驚くくらいに。
「……はい」
伊都は柔らかに、剛介の願いに答えた。
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