第7話 在処

 何度も強く鼓動する心臓に耐えながら、里桜は扉の前でぎゅっと瞳を閉じた。


 ——アルカに早く逢いたい……けれど、どうしよう。なんだか怖い……


 気持ちが焦る。それを鎮めようと、ゴクリと息を呑んだ。乱れる呼吸を整える為に深呼吸をしようとし、代わりにため息を吐いた。


「里桜、先にどうぞ」


ファメールが気を利かせて木製の扉を開き、里桜を室内へと促した。


「大丈夫、綺麗だよ。アルカもきっと気に入るはずさ」


勇気づけるように里桜の背に優しく触れて促すファメールにお礼を言い、里桜は胸を張った。


 ベージュの毛足の長いカーペットが敷き詰められた室内は薄暗く、だだっ広い程に広かった。部屋の奥は大きなガラス張りの窓になっており、都会の夜景が輝き、広がっている。


緊張しながら足を踏み入れ、部屋の一番奥の黒い机に掛けている人物の姿を見止めた瞬間、里桜の心は最高潮に鼓動した。


 スーツの袖から見えている右手は機械仕掛けの義手で、暗く落とされた灯りの中、僅かに光が反射していた。漆黒の長い髪に白い肌の男は、無表情のまま里桜を見つめ、僅かに唇を横に引いた。


 ドキドキと、激しく鼓動する心臓が苦しく思わず手を当てて、里桜は願う様に男を見つめた。


 ——お願い、どうか、『アルカらしく』私を迎えて。笑って、明るく迎えてよ。


 お願いよ、アルカ……


 しかし、その里桜の願いは叶わず、彼は微動だにせずに里桜を見つめていた。


 重苦しい沈黙の中、里桜は頭を下げて挨拶をしよう、まずはちゃんと名前を名乗ろう、と口を開こうとした時、ツッと涙が頬を伝って、ポタリとカーペットの上に零れ落ちた。


 唇が震える。手も、肩もだ。零れ落ちた涙がカーペットに染みこみ消える様を見下ろしながら、里桜は身動きがとれなくなってしまった。


 ——自分で思っていたよりも、私はアルカに逢いたかったんだ。ずっと、ずっと待ち焦がれて、諦めようとしながらも心の奥底で願い続けていた。


『リオ、ひっさしぶりだなぁ! 逢いたかったぜ!』


 そんな風に、ニッと笑ってアルカが言ってくれる事を期待していた。考えたら苦しくなるから、叶わない願いを願い続ける事に疲れて、考えない様にしていた。


 現実のアルカがどんな環境下に身をおいているのか知りもせず、アルカがもしも里桜に逢いたいと思わないとしたらと、考えるにも及ばなかった。アルカにとって、異世界での思い出は辛く痛い記憶でしかないのかもしれないのだ。


 ——それなのに、こんなところに喜び勇んで顔を見せにきて、アルカは忌々しく思っているのかもしれない。招待状を送りつけたのも、疎ましく思っていたからかもしれない……。


 零れ落ちる涙を必死に堪えながら、里桜はお辞儀をした。


「お久しぶり、です。あ、初めましてになるの、かな。……里桜です」


 声が震えるのが自分でも分かった。沈黙を守る漆黒の髪の男を前に、里桜は顔を上げる事ができず、俯いたまま肩を震わせた。


 ——お願い、何か言って!

 と、里桜は心の中で叫んだ。緊張と恐怖で押し潰されてしまいそうだった。


「……悪い」


ポツリと漆黒の髪の男が声を発した。


「俺は、脚が片方義足なんだ。もっと側に来てくれ」


震える両肩を抑える様に両手で握りながら、里桜はゆっくりと漆黒の髪の男へと近づいた。


 すっと通った鼻筋。整った形の唇。髪の色は違えど、近づくにつれて彼がアルカと同じ顔だということが分かった。そして、彼の瞳の色が灰色である事に気づき、優しく微笑むその表情に背を押された様に里桜はタッと駆けた。


 ——アルカが、微笑んで私を待っていてくれた……!


灰色の瞳を細め、抱き付く里桜を、義手を使い両手で抱きしめて、彼は言った。


「逢いたかったぜ……」


 込み上げた涙は洪水の様に里桜の瞳から溢れだし、頬を伝った。この瞬間を何度夢に見ただろう。あり得ないと諦めながらも、夢は思いに正直にこの瞬間ばかりを何度も何度も再生した。

 目覚める度に虚しく、締め付けられそうな心にぎゅっと歯を食いしばり耐えてきたが、今それは夢の中の幻ではなく現実となった。

 本物の、アルカだ……。


「私も……逢いたかった、アルカ!!」


 ——ああ、アルカだ! アルカがここに居る。やっと逢えた。逢えたんだ!現実世界の、本物のアルカに!!


「……アルカじゃねぇよ」


 ……え? と、里桜は彼の灰色の瞳を見つめた。


「俺は、だ。招待状にもそう書いただろう? 間違ってんじゃねぇよ、小娘」


絶句する里桜に、アダムはため息をついた。


「なんだよ、随分な反応じゃねーか。俺には逢いたくなかったってワケか?」

「アダム……さん? え? じゃあ、アルカは?」


瞳を見開き、呆然としていると、スッと煌めく刃がアダムの首筋に宛がわれた。研ぎ澄まされた切れ味の良さがよく分かる程の薄刃のナイフは、僅かにアダムの首の肉を傷つけ、薄っすらと血が横に滲んだ。


「アダム。里桜に触るな」


ナイフを握るのはファメールだった。金色の瞳で睨みつけるように威嚇するファメールは、怒りと殺気の籠った低い声を発した。アダムはフンと鼻で笑うと、溜息をついた。


「ちっ。うっせぇなぁ、はいはいわかりましたよミシェル殿」


里桜がアダムから離れると、アダムは僅かに名残惜しそうに里桜を抱きしめていた手を見つめた。


「どういうことだ! アルカはどこだ!」


怒鳴りつけるファメールの声色はいつもの冷静な調子とは打って変わり、ビリビリと振動すら感じる程の殺気が込められていた。


「いねぇよ」

「何故!」


アダムのYシャツの襟首を掴むと、ファメールは今にも首にナイフを刺し込まんばかりに威嚇した。


「おいおい、穏やかにいこうぜ? な?」

「穏やかでいられるものか! 僕のを返せ!」

「返すって何だよ。盗ってなんかいねぇだろ……」


ガン!! と、長い脚でファメールが机を蹴った。里桜はびくびくしながらその様子を見つめ、音に驚いて慌てて入って来たヴィベルが里桜を庇う様に自分の後ろへと手を引いた。


「だまれアダム! 殺してやる!」

「おい……」

「何故お前なんだ!!」


アダムは舌打ちをすると、「ミシェル」と、ファメールを呼んだ。


「僕をその名で呼ぶな!」


ファメールの殺気は尋常ではなかった。全身の毛が逆立たんばかりに金色の瞳を鋭くし、アダムを睨みつけている。


「いつからだ? 最初からお前だったのか!? アルカをどうした!!」

「目覚めたのは俺だ」

「何故!!」


 アルカだと信じていた人物が、まさかのアダムであった事実が、ファメールには許せなかったのだ。昏睡状態から回復した半年間、こいつが素知らぬ顔でカインの体を自由に使っていたというだけで虫唾むしずが走る。それに気づかなかった自分にもだ。


「分かった。説明するから聞け」

「ガブリエルはどこだ!」

「別の部屋に居る。あいつはお前と違って協力的だぜ? ホラ、座れよ」

「煩い! 早く言え! 殺されたいのかっ!!」

「いいから座れって。な? ほら、小娘も怯えてるじゃねぇか」


ファメールはアダムの前の机の上にどっかりと腰掛けると、アダムの座る立派な椅子のひじ掛けに足を乗せた。


「……座ったよ。話せよ。早く!」


おかしな真似をしようものなら直ぐにでも殺すといった具合で、ファメールは殺気の込もった金色の瞳でアダムを見下ろした。


 里桜はヴィベルの後ろにしがみ付く様に怯えていて、ヴィベルにとってもあそこまで激情したファメールを見たのは初めてだったので、警戒し、いつでも里桜を守れるようにと注意を払っていた。

 アダムはやれやれとため息をつき、「俺だって不可抗力なんだぜ?」と、肩を竦めた。


「カインの奴は、あの世界が崩壊する時に、俺じゃなくカインとして里桜に聖剣で刺されたんだ。だから、カインじゃなく俺がここに居るってワケだ」


ガン!! と、ファメールがアダムの座る椅子を蹴った。


「そんなはずがあるものか! 僕と対峙したとき、間違いなくお前だった!」

「あの後入れ替わったんだよ」

「お前がそう仕向けたんだろう!!」

「んなマネしねぇよ」


ギラリとナイフを光らせて、ファメールが威嚇した。


「お前を殺せば、カインは帰ってくるんじゃないのか?」

「止せって」

「試してみようじゃないか」

「やめとけ。こいつはカインの体だ」

「中身がどうしてお前の様なクズなんだ! アルカがお前なんかをこっちの世界に送り込んだだって!? そんなこと、信じられるものか!!」

「事実そうなってんだろうがよ」

「納得いくものか!!」

「ファメールさん」


里桜が恐る恐る声を上げた。


「あの、ね。アダムさんの言ってる事は多分正しいと思う。私、最期にアルカと話したもの。アルカと話して、お別れを言い合って、聖剣を……アルカの胸に、刺したの……」


里桜はその時の事を思い出しながら、ファメールを見つめた。


 聖剣はアルカに吸い込まれるようにツッと何の抵抗もなく入っていった。眩い光に覆われて、気が付くと里桜は病院のベッドだった。

 ——帰って来ちゃったんだ……

 と、一人涙を流し、ふと傍らに座って眠るヴィベルの姿に目が行った。


 私が異世界に行った意味を、無かったものにするわけにはいかない。と、里桜は手の甲で涙を擦り、ヴィベルを起こした。


 その時の事を一つ一つ思い出しながら、里桜は顔面蒼白になり、震える唇を動かした。


「ごめんなさい。知らなかったの。……どうしよう、私がアルカを殺しちゃったの?」


ふっと泣き崩れる里桜を、ヴィベルが慌てて宥めた。アダムは「違う!」と声を発し、里桜を見つめた。


「小娘! 勘違いすんじゃねぇ! いいか、あいつは自分で選んだんだ!」


アルカが別れ際に言っていた言葉。


サ、リオにそっくりな瞳の女性を探すよ。絶対に』


何故『生まれ変わったら』と言ったのか、ずっと疑問に思っていた。

 ——こういう事だったんだ。アルカは現実世界に戻る気なんか無かった。あの時の『さよなら』は本当の、二度ともう会わないという『さよなら』だったんだ。


「いやだ……アルカ、どうして……!」


 ——アルカは、私となんか会いたく無かったの?


 声を上げて泣く里桜の様子に、ファメールはぎゅっと歯を食いしばり、全ての憎しみを込めた瞳でアダムをじっと見据えた。


 里桜をどう慰めれば良いのか分からず、ヴィベルは彼女の肩を優しく撫でる事しかできなかった。


「アルカにもう会えなくなっちゃった。私が、逢えなくしちゃったんだ……!」


 泣きながら声を発する里桜の背を撫で、ヴィベルも悲しみを堪えながら唇を噛みしめた。里桜がどれほどにアルカに会う事を望んでいたか、彼女が口にしないまでもヴィベルは気づいていた。

 朝、赤い瞳のまま誤魔化す様に元気に『おはよう!』と微笑む里桜に、何度心を締め付けられる思いをした事か知れない。

 何故、里桜の側から、彼女にとって大切な人程居なくなってしまうのか。こんな悲しい思いをさせてしまうのであれば、彼らに関わるべきでは無かった。探すべきでは無かった。


「どう仕向けて入れ替わった? 話せよ、クズアダム!!」

「違う!! 俺だって抵抗したんだ。現実世界になんか興味もねぇしな。けど、俺に生きろってあいつは言いやがったんだ!」


ファメールが机の上から片足でアダムの腿の上を踏みつけた。身を乗り出し、アダムのネクタイを掴んでぐいと引っ張った。


「嘘をつくな! アルカがこの世界を……里桜と会えるかもしれない未来を捨てたとでも言うつもりか!」

「ああそうだ! あいつが捨てたんだっ!!」


ガツリ! と、鈍い音が響いた。ファメールに殴られ、手に付けられていた指輪で顔を切り、血を垂らしながらアダムが舌打ちをした。


「ってぇなあ! このクソが!」

「黙れアダム! お前なんかがこの世界に生まれて来るな! その顔でしゃべるんじゃない、今すぐ消えろっ!」

「……なんだよ。俺だって望んでなんかいねぇってのによぉ!」


 唇を噛み、アダムはファメールを睨み返した。


「カインの野郎が勝手にやったことを、俺のせいにすんじゃねぇっ!」

「だまれ。お前に用は無い。今すぐ息の根を止めてやるよ」

「やれるもんならやってみやがれ!」

「僕を甘く見るな、ゴミ掃除位できるんだからね」

「ダメっ!!」


里桜が縋りつく様にアダムを抱きしめて、ファメールから庇った。


「ファメールさん、止めて!」

「里桜! 危ないですからっ!!」


ヴィベルが慌てて里桜を庇うようにファメールの前へと身を挺して躍り出た。


ガン!!!


「#$&☆△□!!!!!」

「あ。ごめん」


ヴィベルの後頭部を思い切り殴り、ファメールは肩を竦めた「悪気は無かったんだ」と、言った後、「チャンスだと思って手を止めなかったのは確かだけど」と、チロリと舌を出した。


「ファメール様~……!」


 ——私に一体何の恨みが!

 と、ヴィベルは悶絶しながら両手で後頭部を抑え、うずくまった。


「アダムさん、大丈夫? 唇のとこ、血が出てるよ」


里桜がハンカチでアダムの頬を拭き、心配そうに介抱する姿に苛立ちを覚えながら、ファメールはトンと机から降りた。


「ヴィベルのせいでシラケちゃった」

「里桜、私の心配は皆無ですか。そうですか……」


落ち込むヴィベルを一瞥し、「で? ガブリエルはどこさ? ここに居るんだろう?」と、肩を竦めると、ナイフをパチンと折りたたんだ。


「ああ。ったく、ムカツク野郎だぜ! クソ野郎がっ!」

「嫌ってくれて結構。キミなんかに好かれたくないからね。クズアダム」


 里桜はアダムの傷をハンカチで拭きながら、じっとその顔を見つめた。白い肌に漆黒の長髪。そして灰色の瞳。この世界のアルカも綺麗な顔をしているな、と、見入っていると、アダムが困った様に片方眉を下げた。


「悪いな、小娘。中身が俺で。折角こっちでもカインの野郎と会えるはずだったのにな」

「アルカは死んじゃったの?」

「いいや、生きてるさ。安心しろよ、必ず逢わせてやる」

「ホントに!?」

「まあな。ったく、ミシェルの奴が否応なしで俺の話を聞こうともしやがらねぇから。まずは、えーと、ガブリエルの奴ならこっちだ」


 アダムは里桜に手当のお礼を言い、立ち上がった。杖を付き、ついて来いと顎を向けて室内の壁へと向かうと、壁に向かって義手を翳した。

 ピッと僅かに電子音が鳴り、壁がスゥッと奥へと下がった後に左右に開かれた。更に奥へと続く廊下の足元にライトが照らされて、アダムは杖を付きながら中へと入って行った。


 里桜はヴィベルとチラリと目を合わせると、アダムの後に付いて行き、ファメールは腑に落ちなそうな顔をして両腕を組んだ。

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