第45話 ファメールの決断
————なんと……美味いのだろうか……
レアンは口の中に広がる甘さにうっとりと陶酔した。白い肌は瑞々しく、正に果実そのものだ。喉の渇きは潤い、それどころか、全身が満たされていくこの感覚は今まで味わった事が無い。
「……レ……アン……」
レアンの腕の中で果実は震えながら音を発した。
果実の首筋に深くかぶりついたまま、レアンは甘い味わいを堪能すべく瞳を閉じた。
——可哀想なレアン……。
里桜は、レアンに首筋に牙を立てて吸いつかれながら、悲しみで涙を零した。
きっと、我に返った時自分を責めて悲しみ貴方は絶望するだろう。どう慰めれば良いのか……と、里桜はレアンを優しく抱きしめた。
どうか、お願いだから自分を責めたりなんかしないで。私は何ともないんだから。きっと皆も分かってくれる。お願いよ、レアン……。貴方は優しいから、その優しさが、今は怖い。
背に触れる細く白い手は温かく、その温もりの心地よさにレアンは瞳を開いた。
ふと、静寂に包まれたここはどこだろう? と、考えて、自分の腕の中で震えるこの甘い果実は何だろうかと見下ろした。
……ブラウンの髪が甘く愛しい香りを放つ。
口を放し、レアンは里桜の瞳を見つめた。ブルージルコンの瞳は優しく微笑んだが、レアンの瞳は真紅に染まっていた。
「リオ……?」
真紅の瞳からツッと真紅の涙がこぼれた。
「私は、何を……?」
「何も……」
「いいえ、私は!!」
「だめ、レアンっ!!」
レアンは、自分が里桜の血を啜った事を悟った。
「私は、守るべき貴方を傷つけてしまったというのですか……!!」
「違う!! レアン!! そうじゃないよ!!」
里桜を愛しく思えば思う程に募る罪悪感と悲しみに苛まれながら、上げる悲鳴は咆哮へと変わり、背に巨大な蝙蝠の羽が二対生えた。
爪は真紅に鋭く伸び、ポタポタと鮮血を滴らせる。
風圧に弾かれて、里桜は炭鉱の壁に叩きつけられ、気を失った。
「……レアン」
ファメールが悲し気に化け物をそう呼んだ。
「すまない、レアン。僕のミスだ」
唸る化け物をじっと見据え、ファメールは眉を寄せた。
「今頃、キミの眷属達も王都で同じように暴走していることだろう……止めないと、ね」
スッと腰に吊った細身の剣を抜いて化け物へと向けると、もう片方の手に握り締めている杖と交差させた。
「苦しいだろう? 今、楽にしてあげるからね」
ファメールは金色の瞳を化け物に向け、詠唱した。
——ポタリと頬に生暖かい何かが零れ落ちたのを感じ、里桜は瞳を開いた。
見上げると、灰色の髪をなびかせて唇を噛むファメールの顔が見えた。彼が里桜を抱きかかえながら飛んでいる事に気づき「ファメールさん?」と、里桜は声を発した。
「ああ、気が付いたかい?」
金色の瞳を向け、ファメールが微笑んだ。再びポタリと里桜の頬に生暖かい雫が零れ落ちる。
それはファメールの額から伝った鮮血だと気づき、里桜は瞳を見開いた。
よく見ると、ファメールはいたるところに怪我を負い、衣服も破れ、纏めていた髪止めも無く吹き荒れる風にされるがままにしていた。
「酷い怪我!」
「全くさ……。やんなっちゃうよね。かっこ悪い」
「かっこ悪いとか言っている場合じゃないよ! ファメールさん、降ろして。手当しようよ。ね?」
「いいよ。僕を見ないでくれるかな。みっともないったらありゃしない」
ファメールは唇を噛み、里桜から顔を反らした。脳裏に浮かぶ血まみれのレアンの姿が、どうにも離れない。
『兄上……すみません』
『いや、僕のミスだ』
坑道の外、眩い太陽が容赦なく照り付ける下で、ファメールは首だけとなったレアンを抱えていた。
無限に広がる砂山の上に白いローブの彼はポツンと座り、影を落としていた。
『リオと……アルカを頼みます』
『うん』
レアンはファメールが自ら消し去った魔法障壁から太陽の光に野ざらしになり、サラサラと砂の様に僅かに散った。まるで彼の存在そのものが砂漠の砂に還っていく様だ。もともと存在しなかった、幻だったのだとでも言うかのようにレアンが消えて無くなる恐怖にファメールは晒された。
『……僕を……置いて逝くなっ……!!』
心を剣で串刺しにでもされた様なこの痛みをどう癒せばいいのか!!
嗚咽を漏らすファメールにレアンは微笑むと、『いいえ』と、答えた。
『さようなら。兄上』
——唇を噛みしめ、必死に涙を堪えるファメールに抱かれながら、里桜は俯いて瞳を閉じた。
何も言わなくても、ファメールの悲しみが里桜にも伝わる。零れ落ちる雫の色は赤いものの、しかしそれは彼の涙ではと思わずにはいられない。
「キミは、怪我は平気かい?」
「うん。大丈夫。レアンが手当してくれたの」
「……そう」
痛みに耐え、僅かにファメールの呼吸が乱れた。抱きしめられている里桜にもそれが伝わり、心配そうにブルージルコンの瞳でファメールを見つめた。
「キミに、伝えておかなければならないことがあるんだ」
呼吸を整えて、ファメールは里桜を金色の瞳で見つめた。
「リタは、キミの父親に殺されたんじゃなく自殺だったらしい。キミの父親はそれを止めようとして、でもリタが飲ませた睡眠薬の効力に抗えなかったみたいだ」
ファメールの言葉に里桜は瞳を見開いた後、「そっかぁ……」と、複雑そうに俯いた。
「ありがとう。ファメールさん、教えてくれて」
「……うん」
「なんだか、変な話かもしれないけどすごく納得できた」
叔父さんに伝えられたらいいのにと里桜は思った。きっと彼が知りたかったことだろうから。真実を知り、尊敬する義兄の無実を証明できたのなら、少しでも心が癒されるだろうか。
「残された者の事なんか、少しも考えちゃいない。自分勝手で理不尽過ぎる死だよ」
「本当にそうだね。ごめんね、ファメールさん。嫌な役をさせちゃった」
ファメールに損な役割をさせてしまった事を、里桜は申し訳なく思ってそう言った。
「いいや。悲しいのはキミさ」
空を飛ぶ速度は速いものの、時折ゆらりとふらめく様な不安定さから、ファメールの体力の消耗が著しい事を物語っていた。
「ファメールさん、少し休んだ方が……」
「そんな時間は無いよ。アルカが、多分……」
そう言いながらファメールが唇を噛み締めたので、里桜もファメールの視線を追った。
宝石のようにキラキラと輝いていたはずのムアンドゥルガ王都は、赤々と燃え盛る炎を高く上げ、塵を舞い上がらせて砂煙に包まれていた。
「……何? どうなってるの?」
「リオ、教えて。『
燃え盛る王都へと向かいながら、ファメールが里桜に問いかけた。里桜は「えっ?」と、意外そうに声を発したあと、思い出すように説明した。
「赤ちゃんのへその緒を流れる血の事だったはず。あまりよく知らないけれど、医療にとっても役立つみたい。私も生まれた時に採取したってお母さんから聞いたよ。二年前、お母さんが死んじゃった後、それを使って手術をしたの。私、病気だったから……」
——なるほどね。じゃあ、エルティナはアルカにそれを飲ませたのか。
怒りに震える自分を何とか抑え込もうと、ファメールは深く深呼吸をした。臍帯血もまた、『人間の処女の血』であるのだから。
燃え盛る王都の上空は熱風に覆われていて、ファメールは魔法障壁を張ると、ゆっくりと王城へと降下した。
王室のテラスへと着地すると、息を切らせてふらつき、片膝をついた。
「大丈夫!?」
里桜が慌ててファメールの体を気遣ってしゃがみ込んだ。
「平気さ、と、言いたいところだけれどね。
「一体何が起こっているの? レアンは? お母さんは?」
「うん……」
ファメールは微笑んで、里桜の頭を優しく撫ぜながら心の中で『僕が二人とも始末したんだよ』と、答えた。
「リオ、僕の頼みを聞いてくれるかい?」
「うん、分かった。治療だよね。アルカを探して来るよ!」
「半分、当たり」
ニコリと微笑んで、ファメールは里桜を抱きしめた。
「アルカなら、後ろに居るよ」
えっ? と、瞳を上げると、ファメールの背後に漆黒の翼を生やしたアルカの姿が見えた。里桜は小さく「アダム……?」と呟き、身構えようとした。だが、ファメールが里桜を抱きしめたまま離さずに「このままで」と、言った。
「駄目だよ。早く逃げなきゃ……! ファメールさん、怪我をしてるのに!! あれはアルカじゃない、アダムさんだよ!」
「記憶が戻ったのかい? ……そう、あれはアダムだ」
ぎゅっとファメールは里桜を抱きしめる手に力を入れた。
「お別れだねリオ。少しは悲しんでくれるかい?」
「……ファメールさん? 何を言って……!」
ファメールは里桜の首筋についているレアンが立てた牙の跡に吸い付いた。甘い血液がファメールの口の中に広がる。
——このまま、ずっとキミを抱きしめていられたら、どんなにか幸せだろうか。
「ファメールさん!!」
……さようなら。リオ。
ファメールは里桜を突き飛ばした。その途端、凄まじい突風が吹き荒れてファメールを包み込んだ。
「ファメールさん!!」
里桜はファメールの名を必死になって叫んだが、風にかき消されて届かなかった。
……もう、僕を呼ぶな。と、ファメールの声が里桜の耳に届いた気がした途端、里桜は抗いようのない程に強烈な睡魔に襲われてその場に倒れた。
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