第32話 アダム
無抵抗となった里桜をファメールは見下ろした。
——この女さえいなければ……アルカを殺せる者はこの世に居なくなる。
それなのに里桜を傷つけたくないと思っている自分にファメールは困惑していた。
アルカが殺されるくらいなら嫌われた方がマシだと思うのと同じ位にファメールはそう思っていた。
眠りの魔術を使い全てを済ませてしまう事がもっとも合理的だ。それなのに何故自分はらしくもない行動をとっているのか。
ふた月待って、もしも里桜の気持ちが自分に向いてくれればこういった無理やりな行為に及ぶ必要は無かった。しかし計算めいたその行動を素直に取る事がファメールにはできなかった。里桜に好かれる様にしなければと思いながらも、どこか矛盾のある行動をとり嫌われるように仕向けてしまうのだ。
根っからの天邪鬼気質に嫌気すら覚える。
「リオ。手荒な真似をしてすまないとは思っているさ。けれどもうすぐ
——
里桜は心ここに非ずといった風で、呆然とファメールの放った言葉を脳内にこだまさせた。ただ目の前で金色の瞳を哀しみで歪ませる男を見つめることしかできない。
「自分自身困っているんだ。こんな真似なんかしたくなかった。そしてそれを間抜けにもこうして今キミに伝えている事実にも驚いている。僕はもっと自分が
情けない……と、ファメールは続けた。
——ファメールさんの心は深く傷ついている。傷つけたのは私だ。私の存在が彼を傷つけているんだ。
……ごめんなさい……!!
ブルージルコンの瞳から溢れる涙見てファメールはズキリと心が痛んだ。その痛みすら屈辱だった。
眉を寄せるファメールを見つめながら里桜は祈るように深く息を吐いた。
——助けて。アルカ。
守ってくれるって、言ったよね? どうしてここに居ないの? エルティナさんの所に居るからなの? 私、どうすればいいのかわからないの。
だって、ファメールさんがすごく悲しそうなんだもん。本当は優しいファメールさんがこんなにも悲しんでるの。私が悲しませてしまってるの! ねえ、アルカ。どうしたらいいのかなあ……。
「ファメール」
コツコツと、部屋の壁を叩く音がした。
ハッとして振り返ったファメールにアルカが悲しそうな灰色の瞳を向け、室内に立っていた。
「一人で勝手に傷つくな」
その言葉にファメールの手から力がふっと消えた。
「リオ、こっちへ」
アルカが優しく声を放った。
「ホラ、大丈夫だからおいで」
パッとファメールから逃れ
「ごめん。怖い思いさせちまって。守るって言ったのに悪かった」
グスグスと泣きじゃくる里桜の耳元にアルカは静かに言った。
「ファメールとリオが本気で好き合ってるなら、オレは邪魔しちゃいけねぇってそう思ってたんだ」
「どうしてそんな事言うの? アルカが手を差し伸べて助けてくれたのに。そんな風に突き放すの?」
「ごめん」
震える里桜の頭を優しく撫で、背を撫でてアルカは里桜を落ち着かせようと宥めた。
ファメールはベッドの上へと座り、項垂れると「リオ」と、凛とした声を放った。
「アルカを殺せば魔族は全員死ぬんだ。レアンも、イリアナも、デュランも、僕も。ムアンドゥルガという国全てが消える。いや、国どころか世界全体が消えて無くなるだろう。マナの泉の魔力供給なんてただのおまけに過ぎない」
里桜はファメールの言った言葉に眉を寄せ、アルカを見つめた。アルカは『本当だ』と、ファメールの言葉を肯定するように頷いた。
「兄上はいらっしゃいますか!」
息を切らせてファメールの部屋の扉へと駆けつけたレアンに視線を向けると、ファメールは力なく笑った。その様子にレアンは僅かに息を呑んだ。
これほどまで憔悴しきったファメールを見るのは初めての事だったからだ。
「……兄上、リオの様子が妙だったので気になって探していました。一体何があったのです?」
「丁度良かった。レアンも一緒に訊きなよ」
ファメールは立ち上がりクローゼットから新しい上着を取り出して羽織った。
アルカは「もう大丈夫だから」と、里桜を宥めながらソファへと座らせて、レアンは室内の椅子へと腰かけた。
ファメールは里桜とアルカの座るソファと対になった一人掛けに腰かけると、髪から滴り落ちる水滴を拭いた。
「アルカ、キミは気づいていたんだろう? リオが帰る為にはキミを殺すしか方法が残されて無いって事にね」
ファメールの言葉にアルカは頷いた。
「……やっぱりね。だからリオを僕に譲ろうとしたんだ。自分では怖くて何もできないから僕に任せた。そうだろう? 彼女が処女を失う事を狙ってね」
「それは違う! そういう理由なんかじゃない! 譲るとか、そんな言い方するなよ。リオはオレの所有物じゃない!」
「じゃあ一体なんだってのさ!? この世界を滅ぼしたいとでも言うつもりかい?」
アルカは唇を噛みぎゅっと拳を握りしめて押し黙った。ファメールは大きくため息をつくと、レアンを見つめた。
「レアン、キミも知っているだろう? アルカが死ねばムアンドゥルガが……この世界がどうなるのか」
「……はい」
「リオにはアルカを殺す力がある。聖剣が扱えるんだと話したよね?」
里桜は首を左右に振った。
「絶対殺したりなんかしないよ! 帰れなくったって構わないもの!」
「キミの意思だなんて関係無い。キミを操る魔術を使ったらどうなる?」
ハッとして里桜はファメールを見つめた。ファメールの眼差しは優しく里桜を見つめ返した。
「キミに渡した指輪は一応守りが効く様にはできているけれど、僕以上の魔力を使う相手には無効さ。だから僕は手っ取り早くキミから処女を奪おうと思ったのさ。聖剣は処女じゃなければ扱えないからね」
レアンは驚いて椅子から立ち上がった。
「兄上! それは余りにも……!」
「煩いよレアン。キミのその騎士道精神なんかこの際どうだっていいんだ。黙って聞きなよ」
レアンはぎゅっと拳を握りしめると、椅子を持ち、里桜の側へと置いて座った。それはファメールから里桜を守るかのような位置だった。
「私は、そんな方法絶対に認めません!」
「キミの許しを乞おうだなんて思っちゃいないさ。アルカも、リオも、皆僕を恨んで憎んで貰ってもかまわない。そんなことは小さい事さ。どうだっていいんだ」
「ファメール」
アルカは心配そうにファメールを見つめた。
——違うだろう、だから一人で傷つくなって言っただろう? と、アルカは唇を噛んだ。
「リオにはカインの刻印が与えられているんだ。誰も彼女を殺す事なんかできやしない。相打ちでも狙えば別だろうけれどね。僕は、この世界を護る為なら、それも覚悟していた。レアン、キミにリオを殺す覚悟はあるかい?」
レアンは首を左右に振り、押し黙った。膝の上でぎゅっと拳を握り締め、悔しそうに叩きつける。理屈ではファメールの言うことは理解できても、どうしても許す事ができないのだ。
アルカは「待った」と、さっと手を出した。
「どっちの気持ちも分かってる。いがみ合う必要はねぇよ」
そう前置きをした後、アルカはファメールを見つめた。
「……悪い、いつも全部お前に背負わせちまって。もうすぐ
「例え無力だとしてもリオを殺すくらいの力はあるだろう?」
「兄上『アダム』はリオを殺そうとすると?」
「するだろうね……リオ、キミは危険なんだ。それはこの世界にとっても。そして、キミ自身にとってもね。キミがここで存在する為には
『周期』とは、『アダム』とはなんだろうと里桜は疑問に思った。だが、今は自分かわいさで身を守っている場合ではない。ファメールの目的は分かった。そして自分が帰れない事も。このままこの世界に残るしか道が無いのなら、自分がすべきことは一つだ。
里桜はぎゅっと拳を握りしめ、己を奮いだたせようと必死になって瞳を閉じた。
——怖がってばかりいてはいられない。この世界に沢山の大事な人が居る。私に優しくしてくれた大切な人達の生活を脅かさない事。それは日本に帰る事なんかよりもずっとずっと重要な事だ。
「……ごめんなさい」
里桜は震える唇を動かして言葉を発した。
「分かった。私がこの世界に残るならそれ相応の覚悟が必要って事なんだよね」
アルカの手を肩から降ろし、里桜はアルカを見つめた。
「アルカも、怖いよね。私がアルカを殺せちゃうんだもん。だからずっと避けていたんでしょう?」
「違う! リオ、それは絶対に……!」
「もういいよ」
アルカは優しいからそんな風に言ってくれるのだろう。立ち上がると里桜はレアンの肩に触れた。
「レアン、ごめんなさい。牙を折ろうとするだなんて絶対に駄目だよ。大丈夫、そんなこともうしなくていい。考えなくていいから」
「……リオ?」
里桜は決心した様にファメールの側へと赴いた。
「ファメールさん。私が元の世界に帰りたいだなんて言ったから、そんな辛い決断をさせちゃったんだね。本当にごめんなさい。私、元の世界になんか帰らない。それでも不安は無くしておかないと、安心できないんだよね? だから嫌かもしれないけど私と……」
ふっと笑った里桜の瞳から涙がこぼれた。
——こんな形でなんて嫌だけれど、でも、そんなの我儘だよね?
「リオ!」
レアンは立ち上がって里桜の肩に触れた。
「いけません。そんなことをする必要などありません! リオ、帰りましょう。私の邸宅に。皆貴方の帰りを待ちわびています」
「じゃあ、レアン。キミがしてやるといい」
「そういう事を言っているんじゃありません! 兄上、リオは一生そんな傷を背負って生きる事になるのですよ? わかっておいでですか!」
「よく考えなよレアン。キミの立場もね。眷属達を捨てる気かい?」
「ですが!!」
「いいの、大丈夫だよ。心配しないでレアン」
里桜はレアンの肩に触れて首を左右に振った。
「どうってことないよ。平気だから。ね? 私、皆と一緒にここに居たい。だから自分の意思だよ。無理やりなんかじゃないもの」
——叔父さんに襲われた時の事、思い出さなきゃいいけど……。
と、恐怖と不安に怯えながら必死にそういう里桜が余りにも不憫で、レアンは唇を噛んだ。
「あっはっは! 傑作だなぁこりゃあ!」
突如笑い声が室内に響いた。
「揃いも揃ってバカ面並べてやがるぜ!」
声を上げて笑ったのはアルカだった。皆驚いてアルカに視線を向けると、アルカは手を叩いて尚も笑った。
「なんだこれ。何の茶番だ? みーんな俺に依存して生きてやがって、バカみてぇだなぁ、おい」
やれやれとアルカは肩を竦めた後、ギロリと鋭い目でファメールを睨みつけた。
「おうファメールよぉ、てめーなんかオレの下僕風情だろうが。図に乗ってんぢゃねーよ。目障りだっつーの、クソが」
ファメールがハッとして素早く詠唱した。アルカの振り下ろした剣の方が僅かに遅く、ファメールの張った魔法障壁が剣を弾いた。ニィっと唇の端を持ち上げてアルカは笑うと、ギロリと里桜を睨みつけた。狂気に満ちたその瞳に、里桜はゾクリと恐怖を覚え竦んだ。
「どうしちゃったの……? アルカ」
「レアン! リオを守れ! 早くっ!」
「はい!」
「その女を寄越せよ。ホラ、殺してやるからよぉ! 俺が自分の眷属をぶっ殺したって問題ねぇだろぉ? ああ!?」
「黙れ
ファメールが詠唱し、印を切ると光り輝く魔法陣が現れた。レアンは里桜を庇い、抱きしめてその後の光景を里桜に見せないようにした。
血しぶきが舞う。部屋中が真紅に塗り固められたように汚れた。
何が起こっているのか、アルカは一体どうしたのかと、心配になって顔を上げようとした里桜の頭を、レアンは強く抑えた。身動きが取れず里桜は顔を上げるのを諦めた。
「僕としたことが迂闊だった……」
息を切らせて震える声をファメールは発した。ポタポタと肩先から落とす血液はアルカのものではなく、ファメール自身のものだった。
失った片腕を庇う様に無事だった片方の手で押さえながらゆっくりと歩を進めた。
ファメールの魔術により切り刻まれたアルカの肉体は、絨毯の上に血まみれになって横たわっており、辛うじて残った頭部の瞳は鋭くファメールを睨みつけていた。
灰色だったはずの瞳は真紅に染まっており、それは血のせいではなく眼球そのものの色が変化している様だった。
「へへへ。やるじゃねぇか、ファメールよぉ」
「煩い」
下品な笑い声を上げるアルカの首をファメールは蹴った。
「消えろよアダム。キミなんかに用はない」
「はっは、『いつもより時間が早い』って顔に書いてあるぜえ?」
「そうさ! 何故だ!!
「カインの野郎がこの世界を捨てようとしてるからさ」
「!!!!!」
「
アルカは狂った様に大きな笑い声を上げた。その声は当然の如く里桜の耳にも届いた。
——一体アルカはどうしてしまったの? 何が起こっているの?
レアンに抱かれながらも里桜は恐怖で震えた。
「ファメールよぉ。お前はすげぇな。感服するなぁ」
「……何がさ」
ファメールとアルカが尚も会話を続けた。
「これほどにオレを切り刻んでおきながら、カインの刻印が発動しねぇ。要するにお前はオレに殺意を抱いていねぇってコトだ」
「何が言いたいのさ」
「オレがもし、お前に殺意を抱かせるような事をしたらどうなる?」
「ふん。そんなものはありえないね。僕には大切にしているものが無い。この僕の肉体でさえね。たとえキミに殺されそうになったのだとしても僕は殺意を抱かないだろうさ。今までで十分過ぎる程分かっているはずの事じゃないか」
ポタポタと切り落とされた肩先から血を滴らせながらファメールは言った。アルカは真紅の瞳を細めてニィッと笑った後、これみよがしにゆっくりと視線をレアンへと向けた。
——いや、違う。レアンが抱く里桜へと視線を向けたのだ。
そしてファメールの反応を見るべく再びゆっくりと視線をファメールへと戻したが、ファメールは顔色一つ変えないままじっと冷たい視線をアルカに向けていた。
——里桜を傷つけようとも、僕はキミに殺意を抱く事は無い。
ファメールの冷たい視線はそう言っているのだ。例え心の奥底にある感情がどうであれ、ファメールは決して揺らぐ事を許されない。
レアンは里桜を抱いたまま唇を噛み締めて俯いた。
——自分には不可能な事だ。アルカを傷つけることも、大切な人を傷つけられて殺意が芽生えない事も。だからいつも、
「……レアン?」
小さく里桜が言ったが、レアンの耳には届いていない様だった。
「……っ!」
苦痛に耐えきれずファメールはその場に膝をついた。身に着けられたアクセサリーが擦れ合い、甲高い音が発せられる。
その音に里桜はファメールの身に何かあったのだろうと困惑した。
「ファメールさん! ねぇ、どうしたの!?」
里桜が震えながら「レアン、離して!! お願い!!」と、悲鳴の様に叫んだので、レアンが思わず力を抜いた。
その隙をついて里桜はレアンの腕から抜け出した。
そして切り刻まれて血まみれで横たわるアルカを目にした。
「……よぉ、リオって言ったか。初めまして。俺は
ぬらぬらと真紅に光る瞳で里桜を見つめるアルカに絶句すると、レアンが素早く里桜を捕まえて再び顔を覆い隠した。下品な笑い声を上げるアルカの声を、レアンに抱かれたまま震えながら聞く。
「時間切れだよアダム」
ファメールの言葉にニィッとアルカは笑い、「また来るぜ。愛しい弟達」と言い残すと瞳を閉じた。
切り刻まれたアルカの肉体が徐々に修復されていく様をファメールは力ない瞳で見つめた。そしてスッと残った方の手を里桜の方へと向けて翳し、小さく詠唱をした。レアンの腕の中で里桜が気を失ったかの様にくたりとし、規則正しい寝息を立てた。
「見せないつもりが、私のミスです」
「仕方ないさ。記憶を消せば問題無いよ」
里桜を抱き上げて立ち上がると、レアンは彼女の体をベッドの上へとそっと寝かせた後、部屋の隅に転がっていたファメールの腕を拾いあげた。
「まいったなぁ、いつもよりこっぴどくやられちゃったよ」
ファメールが自嘲気味に笑った。
「くっつくかな。それ」
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