ワインレッドのマニキュア

 あの日、イオは外の世界を見たくて、折り鶴を持っていたわけではない。今までの生活や人生を捨てるなどと言った、御大層な覚悟なんて微塵も持ち合わせていなかった。

 ただ、折り鶴を捨てる勇気がなかった。

 ただそれだけの、滑稽な話だったのだ。


「……夢か」


 深夜一時。宿舎は共同部屋で、イオの部屋にも、他に三人、規則正しい寝息を立てて眠っている。鳩時計は眠りを妨げないよう、気遣うように、静かに鳴っている。イオはあのときとはまったく違う、清潔なシーツにくるまれて眠っていた。薄っぺらな布団じゃなく、柔らかなマットレスで。薄汚れていなくて、むしろ暗闇の中でもぼんやり光るような白さのシーツで。思わず溜め息を吐いた。

 水を飲もうと起き上がって、ふと、窓の外を見た。宵闇に三日月が浮かんでいる。雲一つない快晴だ。柊木に攫われた夜も、こんな感じだったと、ぼんやり考えていた。

 コツ、と礫が窓に当たる。風があるのだろうと洗面所へ向かった。目が覚めるほど冷たい水を思うさま飲んで、口元を拭って、また戻る。依然として、礫はコツ、コツ、と当たっていた。


「……オ」


 囁きが聞こえた。何も聞かなかったふりをして、ベッドに入ろうと思った。イオは天使になってから、幻聴や幻覚をよく見る。


「……オ、……イオ!」


 ぱち、と瞬きをして、慌てて窓へ駆け寄った。あまりにも聞きなれた声で、一度も幻聴として聞かなかった声だ。

 窓の外では、月を背に、悪戯っ子のような顔で微笑む少年が、翼を広げていた。


「柊木。何でこんな時間に」

「いやあ、ちょっと眠れなくってさ」


 困ったように眉尻を下げながら、柊木は手元の小瓶を揺らした。四角い小瓶に、ワインレッドの液体がゆったりと揺蕩っていた。蓋には小筆がついている。


「マニキュア、塗り直さない?」


 イオは即座に頷いた。どうせ眠れなかったのだ。散歩でもすれば眠れるだろうと思った。

***

 アイリーシェに厳しい校則はなく、柊木もイオも普通にマニキュアをしている。イオにマニキュアを教えたのはもちろん柊木だが、当の柊木は、ワインレッドのマニキュア以外断固として塗らなかった。血のような色。少し黒っぽいと柊木はさらに喜んだ。

 天使になってから抜群に目が良くなり、夜目も利くようになった。お陰で、世界の端から端まで、輝いているように見える。迷わずイオたちは泳ぐように飛び、いつもの教会の十字架に腰掛けた。

 柊木に小瓶を渡され、蓋を開けると、どろどろとマニキュアが小筆から小瓶へと尾を引いた。それをちょちょっと落とし、柊木の整えられた薄桃の爪へ、丁寧に塗る。


「戦争あるって言ったでしょ」


 柊木は世間話のように口を開いて、イオも、うんと頷いた。


「あれさ、ぼくの故国がやるんだって」


 マニキュアを塗る手を止めて、柊木を凝視した。——故国。柊木の生まれ、死んだ国。

 柊木は、何ともない顔で、中途半端に塗られた足の爪を見ている。


「ぼくの生前の話ってしたっけ」


 ぷらぷらと爪を乾かす柊木。平静を装ったのに、自分でも驚くほど震えた声が出た。


「してないに決まっているだろう」


 天使の間で、生前の話はご法度だ。残忍なやり方で殺された者もいるし、幸せに生涯を遂げた者も、不治の病で幼くして死んだ者もいる。千差万別の生涯は、ときに人をひどく傷つける。魂を救うことを生業にしている天使に、そんな残酷な現実を、見ずともわかる現実を、突きつける必要はない。お涙頂戴と言わんばかりに過去を披露する馬鹿は、そもそも天使に選ばれない。


「話していい?」


 だから、わざわざ生前の話を持ち出すなんて、余程の事情がない限りあり得なかった。

 マニキュアの小筆を摘まむ手が、ごっそりと体温が抜け落ちて、冷たくなっていく。それでもイオは頷いた。真っ白になった頭で頷いた。柊木はにこりともせず、ありがとう、と言った。

 柊木の紡いだ物語は、淡々と、メトロノームのような単調さで語られる。

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