天使の折り鶴

 柊木と出会ったのは、イオがまだ生きていた頃の話だった。そのときのイオは、いやはやまったく正常ではなかったのだ。


 イオは、屋根裏部屋で一日どころか一年過ごしているような子どもだった。

 ご飯は義母が差し入れてくれるし、洗濯も、勝手にしようものなら義母に叱られたので、屋根裏部屋から出るのは、お風呂に入るときと、用を足すときだけだったのだ。

 それ以外はポケーッとしながら、ずっと窓の外を見ていたから、異変に気づくのは早かった。

 最初は小鳥が飛んでいるのだと思った。小さな豆のような何かがふよふよ浮いていたから、巣立ちしたての雛鳥だと思ったのだ。でも、違った。


 それは折り鶴だった。


 折り鶴が、まるで生きているかのように、懸命にぱたぱたと羽を動かして飛んでいたのだ。

 そしてそれは、あまりにも自然な動作で窓から入り込み、すぅっと吸い込まれるように床へと落ちて、そのまま息絶えたかのように動かなくなった。

 浅葱色の、うつくしい鶴だった。

 イオは恐怖という感情が麻痺していた。いや、多分、恐怖以外の感情も、である。もともと、こんな環境で育ったせいか、感情の起伏自体が少ない子供だったのだ。だから、臆さず、何の疑問も抱かずに鶴に触れた。

 手触りは滑らかで、感じの良い、薄い紙だった。ひとつ残念だったのは、その紙に不自然な黒い点々が滲んでいることだった。太陽に透かして見て、裏地に文字が書かれていることがわかった。インクが滲んでいるのだ。

 イオは、さっきまで生きていた、少し温かい鶴を、躊躇いながらひらいた。罪悪感で心が痛んだが、それ以上に、この手紙は奇妙だった。


『初めまして、こんにちは。ぼくは柊木っていいます。本名はアスターだけど覚えなくていいよ。改名したからね。君があんまりにも屋根裏部屋ばっかりにいるものだから、連絡しちゃいました! 迷惑だったかな? いやだったらこの鶴を、窓から落としてください。落とさなかったら、また明日もお手紙書くね』


 ひいらぎ。少なくとも、この国の人ではないのだろう。東洋の国の人なのだろうか。首を傾げながら、太陽に背を向けて考える。それと、イオが何で、この部屋ばっかりにいることを知っているのだろう。ちら、と、外を見ても、屋根が連なっているだけで、こちらを覗く人影ひとつ、ありっこない。ますます変だ、と思っても、イオは鶴を落とさなかった。


 次の日、また折り鶴が舞い込み、イオはその身をひらいた。


『やった! 迷惑そうじゃなくて良かったです。君、今日は何食べたの? ぼくは久しぶりにドーナッツを食べました。チョコレートがかかっているんだよ。贅沢でしょ。君は甘いものは好き? ぼくの友達は薄い味が好きで、甘いものは得意じゃないんだって。それもそれで楽しそうだけどねえ』


 ドーナッツ……のスペルを見て、イオは首を捻った。ドーナッツとは何だろう。聞いたことない名前だ。でも、イオはチョコレートのスペルを見て、目を輝かせた。チョコレート! ああ、なんて甘美な響きなのだろう。チョコレートは、食べたことはないけれど知っている。脳が痺れそうなほど甘くて、天国の食べ物のようにおいしいのだそうだ。今度は宵闇よりも薄い紺色の紙を太陽に透かして、ふふ、と微笑んだ。


 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、毎日のように折り鶴は来た。内容は様々だった。今日は何を食べた。どんな景色を見た。新しい歌を覚え、どんな夢を見て、友達とどんな風に遊んだのかが、楽しそうに書かれていた。字が踊っているように見えた。

 それで、いつしかイオは、窓枠に肘をついて、外を眺めるようになった。


(外に行ったら、まず、ドーナッツを食べよう。柊木と手を繋いで、教会にお祈りに行くんだ。それで、一緒に聖歌を歌って、ホットワインを振る舞ってもらう。それで、ボールで遊んで、絵本を読んで、お腹を出してお昼寝して……。あと、何をしようかな)


 いつものように、太陽を見るためではない。

 外の世界へ、イオは想いを馳せるようになった。

 十年以上生きてきた中で、これは初めてのことだった。


***


 ある日、届いた折り鶴は、今までとはまるで違う手紙だった。いつものような、跳ねるように楽しい筆跡の面影はなく、ただ切実だった。


『こんにちは、元気? 今日はお知らせがあります。急だけど驚かないでね。

今夜、十二時ぴったりに、ぼくは君を攫いに行こうと思っています。

でも、いやなら攫いません。君のいやがることはしたくないから。もし、いやなら、この鶴を窓から落としてください。

時間は本当に少ないけれど、よく考えてほしい。

もし、ぼくについていくんなら、外に出られるけれど、一生その屋根裏部屋には戻れません。君の友達とか、一緒に住んでいるおばさんとかとも、縁を切って、一生会えなくなります。それどころか、君が歩むはずだった真っ当な人生を、奪ってしまうことになります。

どうか、少しでもいやだと思ったら、鶴を落としてください。

無理強いは、絶対、しないから』


 心臓がいやな音を立てていた。その日の紙は黒だった。裏地は白だったけれど。

 攫う、という文字を、何度も何度も反復して読んだ。攫う。攫う。攫う。最初は異国の文字みたいで、上手く焦点が合わなかった。次第に、点と点が結び始めると、囚われの姫を助けに行く王子様みたいに? と首を捻った。そして、自分は囚われのお姫様なのだろうかと考えた。ここでの生活は、まったく、不満を抱いていなかった。むしろ、手紙が毎日届き、外に憧れるだけの生活も、太陽を見ているだけの生活も楽しかった。しかし、それはイオがここでの生活しか知らないだけ、というのも、また事実なのである。

 この鶴を落とさなければ、外を見られるのだろうか。

 柊木と同じ世界を見て、そこで生きられるのか。

 途方に暮れて、窓の外を見た。世界は茜色に染まっていた。

***

 真夜中に、小さな羽ばたきが舞い降りた。

 イオは、窓の外を見て、ああ、やっぱり、と思った。何ら疑問は抱かなかった。至極当然、世界の真理だと思った。壮麗なる天使の姿に、感嘆の溜め息すら吐いた。

 どっぷりとした闇の中で、そこだけが光を放っていた。月のように輝く白金の髪。滑らかな額と、形の良い耳と、星のきらめきのようにうつくしい瞳。そして、背中をすっぽり覆い隠す、ユニコーンすら惚れ惚れしそうな純白の翼。


「本当に良かったの?」


 それでもどこか、イオに近しい何かを感じた。

 柊木の声は、手紙の字のように、どこか軽やかな響きを持っていた。眉尻を垂れて、心配そうな面持ちをしているのに。

 イオは、長年連れ添ってきた掛け布団を放り捨て、窓の外にいる柊木の手を取った。


「いい」


 久しぶりに出した声は、ひどく掠れていた。


「外の世界が見たい」


 そして、イオは最初の一歩を踏み出した。

 その背中には、柊木が推薦してくれたのだろう、純白の翼が生えていた。

 蛹が蝶になるように鮮やかに、イオはその衣を脱ぎ捨て……抜け殻は、窓辺に置いて……柊木の手を取って、一瞬の後、イオは天使になった。


「俺の名前は、イオだ。柊木」


 柊木は、泣き出しそうな顔で笑っていた。

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