おまえの骨は床の下
昔は、自分こそが最も太陽に近い場所に住んでいると思っていた。
薄っぺらな布団と、おもちゃみたいな本棚と、無駄に立派な裁縫箱と、散らかした麻の服しかないような屋根裏部屋だったけど、窓の外の景色は、世界で一番の宝物だと思っていた。いっぱいの宝石よりも、絹の服よりも、お貴族様の宝物よりも素晴らしいものだと信じて疑わなかった。
窓の外は、石の家並みがぽつぽつあって、その奥はずっと森だった。春は花が咲いて、夏は葉が繁茂して、秋は紅葉して、冬は雪が積もって、その奥に、教会のてっぺんに飾られた、豆粒みたいな十字架だけ見えて、そのまた奥、最奥に太陽が在った。まんまるで荘厳な光を、一日中ずっと眺めていた。掛け布団にくるまって、窓辺にちょこんと佇んでいた。本を読むこともなく、お裁縫をすることもなく。
字は読めた。あくまで読めるだけで、書けはしない。だってペンの持ち方も知らなかったのだ。書くという行為なんて、一度も目にしたことはなかった。
人が最初に忘れるのは声だというけれど、イオが覚えているのはママの声だけだった。面差しも体つきも知らなくって、最後に忘れるらしい匂いもとっくに忘れていて、頭を撫でてくれたことがあるか、というのも知らなくて、シスターのお姉さんが言うには、イオはママのお乳の味も知らないらしい。ママがイオに遺したのは声だけだった。絵本や、詩や、物語を読み聞かせてくれる声と、子守唄を歌う歌声の二種類。少し低くて、ゆらゆらする声だった。
ママはよくマザーグースの詩を歌ってくれた。
『おまえも、いい子にしていないと、パパに食べられちゃうよ』
ママは『お母さんがわたしを殺した』という詩を好んだ。凄く嬉しそうに、心踊っているように、スキップするように歌ってくれた。繰り返し、何度も。
お母さんがわたしを殺して お父さんがわたしを食べたの 兄弟たちはテーブルの下にいて わたしの骨を拾って床下に埋めたの……。埋められるのは嫌だなあ、と思い出すたびに表情を歪めていた。だって、太陽を見られないじゃないか。地下なんて、太陽から最も遠い場所だ。嫌だなあ、嫌だなあ。死ぬならママに食べてもらって、骨はロザリオにしてほしいなあ、と思った。イオにパパはいなかった。
「なあにしているの、イオ」
「柊木」
いつの間にか、柊木がイオの後ろに立っていた。柔らかく風が吹く、教室の後ろからニ列目の席。イオの手元を見て、柊木は目を大きく開いて、あは、と喉奥で笑った。
「待って、それぼくの鶴じゃん! やだなー、まだ持っていたの?」
「当たり前だろ。俺の宝物なんだよ、これ」
「……恥ずかしげもなく言っちゃってえ。ぼく恥ずかしいよ」
きゅっと肩をすぼめて、柊木はひとつ、鶴を摘まみ上げる。上等な紙で折られた折り鶴だ。浅葱色をした、形のうつくしい鶴。まだまだある。雪よりは濁った白色、煉瓦よりは鮮やかな赤茶色、義母の香水よりは上品な紫色。裏地は全部白だった。普段は木箱に詰めてある鶴たちが、今はイオの机にばらばらと撒かれている。柊木は何かとても嫌なものを見るような目をして、ぺいっと鶴を投げ捨てた。
「移動教室だよ。桜綾(インリン)はもう行っちゃったよ」
「早く言え。次何だっけ」
「剣術! ぼくもうやだ。弓道が四年生の選択で剣術が必修なの、絶対おかしい」
「とかいって、実技試験は学年トップだったろ、ふざけんな」
「天才でごめんね!」
この野郎、と軽く小突いて、実技服を持って二人で教室を飛び出した。
天使にとって唯一の教育機関であるこのアイリーシェ寄宿学校は六年制で、イオと柊木は去年入学した。といっても、歳は柊木の方が五歳ほど上だ。別に留年したわけじゃない。入学試験を受けていなかっただけだ。アイリーシェは基本、何歳からでも入学が可能だった。
理由としては、アイリーシェへの入学条件が挙げられる。一つはもちろん、入学試験に合格すること。もう一つももちろん、天使であること。問題は後者のほうにあった。
天使とは、人間が死んだあとの姿である。
死んだ人間の全員が全員、天使になれるわけではない。天使になれるのは、ごく一部の選ばれし人間か、天使に推薦された人物だけなのだ。つまり、年齢なんて気にできないのである。
『Мy mother has killed me……』
教室のドアのレールを跨ごうとして、足を止め、振り返る。
脚の長い机が並び、自由そうに腕を伸ばした風が吹き抜ける、がらんどうの教室の外……つまりは窓の外……で、前髪の長い女の人が、こちらを射抜いてにいと笑っていた。窓に張り付いて、低くてゆらゆらする声で囁く。
『おまえの骨は床の下』
ふいと目を逸らして、ステンドグラスが天井を彩る廊下を駆けた。白金の髪……長くて、うなじで束ねている髪……を、ぽんぽん跳ねさせて走る柊木を追いかけた。
早くしないと、授業に遅れてしまう。内申点が下がるのは勘弁願いたかった。
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