第2話
隣町フーレに着く頃には、太陽が少し顔を出し始めていた。
焦って走る速度を速めるが、やはり、昔よりも体力が落ちている。
(ちゃんと、鍛えていればよかった…。)
後悔するが、すでに遅い。
もう、アリシアは選んだのだ。
王位も、父も、何もかもを捨てて、ディレシアへ亡命すると。
交渉は、ディレシア王を挟んで行えばいい。
そして、身の安全を確保して、ほとぼりが冷めたなら、ギルバートと会いたい。
できるなら、一生添い遂げたい。
そのためには、今は、とにかく一人で逃げることが大事なのだ。
一人走る夜道が、どんなに心細くとも。
朝日が昇り、太陽が南中にさしかかろうというとき、アリシアはリールにたどりついた。
まだ、兵の手は及んでいない。
しかし、急がなくては。昔よりも、確実に足は衰えている。
追いつかれるのは時間の問題だ。
記憶にある教会を必死に思い出しながら、ギルバートを目指して町を走った。
そして、とうとう見つけた。
教会の裏、畑で、庭仕事をしている彼を。
三年ぶりにギルバートを見たアリシアは涙した。
何も変わっていない彼の姿。
さらさらの金髪。
切れ長で涼しい目元、美しい翡翠色の瞳。
穏やかな笑みをたたえる口元。
すらりとした背。
柔らかな雰囲気をまとった彼は、どこも変わっていなかった。
もう、これで、思い残すことも無い。
気づかれないうちに、ここを去り、ディレシアへと向かわなければ。
もう一度、彼に再会するために。
そう心に決め、教会の彼に背を向け、再度走り出そうとした、そのとき。
「…姫様?」
その聞き覚えのある、柔らかなテノールに、アリシアは反射的に振り返ってしまった。
驚いた表情でアリシアを見つめるその瞳に、自分が映っている。
「ギ…ルッ…!」
耐え切れなくなり、ぽろぽろと涙がこぼれた。
そんなアリシアを見て、ギルバートは慌てて駆け寄った。
「どうなさったのですか!?今日は婚礼の日では…!?」
アリシアとガイウスの結婚の話は、エドリア中に知れ渡っている。
もちろん、ギルバートの耳にも入っていた。
もう、彼女は大切な人を見つけたのだと、彼はそう思っていた。
だというのに。
目の前の彼女は、三年前に比べて、明らかに弱っている。
明るく太陽だった彼女は、今はまるで暗い大雨のようだ。
顔も腕も、全てが痩せ細り、逆にそれが美しさを引き立たせている皮肉。
ギルバートは、気がついた。
アリシアが、逃げ出したことに。
理由は、わからない。
しかし、彼女は確かに逃げ出し、自分の元へ来た。
声をかけられなかったことから、きっと、会うつもりはなかったのだろう。
どうして…?
疑問が、彼の心を支配した。
なぜ、彼女は逃げ出したのだ?
どうして、自分のところへ来たのだ?
わからない。
わからないが、わかっていることは一つだけ。
エリザベータが生きていれば、きっと彼女もそうしただろうということだけ。
「…姫様。この命に代えても、姫様のことはこのギルバートがお守りいたします。」
それは、愛し合う二人の、悲劇の幕開けでもあった。
ギルバートが、そう跪くのを見て、アリシアは狼狽した。
ちがう。
彼を巻き込みたくない。
彼を連れて行くわけにはいかない。
自分だけなら、命は助かるだろう。
でも、一緒に行けば、彼は助からない。
一国の姫をかどわかした大罪人として、死刑になるだろう。
それなのに。
何も言うことができなかった。
そんなに酷い表情をしていたのか。
ギルバートは、アリシアを見上げると、くすりと苦笑した。
「…姫様は、昔から、嘘が苦手でいらっしゃいます。顔に全て、書いてありますよ。逃げ出して、いらしたのでしょう?理由は存じません。理由など知らなくとも、主の命をお守りすることは私の役目…」
「やめて!」
ギルバートが言い終わらないうちに、アリシアは叫んでいた。
全て役目だと、使命などと、言わないで。
あなたの気持ちはもう知っている。
十分すぎるほど知っているのよ。
「そうよ、私は逃げた!あなたが好きで、恋しくてたまらなくて、こんな姿になってしまったのは、あなたを失ったから!こんな婚姻、エリザがいれば止めてくれたわ!でも、もうエリザはいない!だから、逃げるしかなかった!一目あなたを見て、また逃げるつもりだった!私と一緒になんて来ないで!死罪になるとわかっていて、ついてなんてこないで!使命だなんて言わないで!私はもう、あなたの気持ちを知っているのよ!」
アリシアの剣幕に、ギルバートは呆然とした。
今、姫様は何とおっしゃったのだ?
私を好いてらっしゃると?
私が死罪になるからついてくるなと?
使命だと、言うなと?
「ひめ…さ…ま…?」
震える両足で、なんとか立ち上がり、アリシアを正面から見てみれば、彼女のなんと小さいことか。
エドリア城で過ごしていた頃は、誰よりも勇敢でたくましく、背の割りに大きく見えた彼女が、今はとても小さい。
やせ細ったからだけではないだろう。
自分しか頼る者がいない。それに気がついてしまったことで、ギルバートにはアリシアがとても小さく見えたのだ。
「ならば、私も逃げましょう。」
決然とつぶやいたその言葉に、アリシアは殴られたような衝撃を受けた。
「駄目よ、私をかどわかしたと、死罪にされる!生きていて欲しいのよ!だから声もかけないで立ち去るつもりだったの!お願いだから、ここで待っていて!ディレシアの王様から、お父様にかけあってもらうから!晴れて自由になったら、迎えにくる!だからお願い!ここで待っていて!死に向かうようなことはしないで!」
必死のアリシアを、ギルバートは黙って抱きすくめる。
迎えにくるなど、男の言うことだ。こういうところは、変わっていないなと心でつぶやきながら。
「姫様。私は。ずっとあなたに恋焦がれてきたのです。やっと通じ合えたというのに、離れ離れになれと命じるのですか?この三年、私が長く感じなかったとでもお思いですか?」
ギルバートの腕の中で、アリシアは泣いた。
そして、覚悟した。
彼は、頑固で、頑なだ。
きっと、どうしたって自分と一緒に行くだろうと。
リールに来なければよかったと後悔する反面、ギルバートと気持ちが通じ合えたことが嬉しくてたまらなかった。
「…わかったわ。おまえは、私と来るというのね。それは、命に関わると知っていて。」
静かにそう呟くと、「はい。」と答える声がした。
名残惜しそうにゆっくり体を離し、二人は、リールを飛び出した。
リールから国境までは、町が無い。
それだけ見つかりにくいということだが、エドリアから走り続けてきたアリシアに、休むところがないのは苦しいことだった。
しかし、捕まればギルバートが死罪になることがわかっていながら、足を止めるわけにはいかなかった。
また、国境には、問題がある。
エドリアの兵士が常駐しているのだ。
もし、伝書鳩を使って連絡が行っていれば、大量の兵士が待ち構えている可能性も高い。
しかし、ディレシアへ向かうには、ユーリクスとの国境を越えて行かねばならない。
「エリザがいれば…」
それは、二人共通の思いだった。
エリザベータは、瞬間異動呪文を使うことができた。
魔法力が高いエリザベータは、エドリアでも屈指の魔法使いと言われ、魔法学の講師も務めていたほどだ。
しかし、エリザベータが居ない今、アリシアとギルバートにはどうしようもない。
必死で走り続け、もう少しでユーリクスとの国境、というところだった。
「アリシア姫様!」
「アリシア!」
はっと後ろを振り返ると、馬に乗る父と、婚約者ガイウス。
そして、多数のエドリア兵が、今まさに追いつこうとしていた。
「姫様!」
ギルバートが、アリシアの手を取って、更に走る。
とにかく、ユーリクスまで。
そうすれば、治外法権だ。
ユーリクスに、この兵を連れていくことはできない。
そんなことをすれば、戦争と思われても仕方が無い。
二人がユーリクスに入ってさえしまえば、王たちは、ユーリクス王に書状を出し、捜索、保護を願い出なければならないのだ。
「ギルバート…!おまえ!王への忠誠を忘れたか!」
「私の主は神と姫様でございます!その忠誠、一度も違えたことはございません!」
「戯言を!」
叫ぶ王とガイウスたちに、ギルバートは幻影を生み出す呪文を紡ぎ、投げつける。
「ヴィジョン!」
幻影が、王たちを惑わし、足を止めさせる。
「姫様!今のうちに!」
そう振り返るギルバートの眼に、信じられない光景が飛び込んできた。
「姫様!?」
何年も、まともに食事もとらず、運動することも怠ってきたせいだろう。
アリシアは、極限だった。
ずっと極限状態だったのだ。
それが、父とガイウスを見たことで、一瞬絶望が頭を掠めてしまった。そして、彼女の気力を萎ませ、体中から全ての力が失われてしまった。
そして、力尽きた。
ギルバートの眼に映るのは、息も絶え絶えに倒れる、アリシアの姿だった。
「姫様っ!」
夜の森に、ギルバートの絶叫がこだました。
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