すべてが夢のままで

あずさちとせ

第1話

過去、この国エドリアを襲った侵略戦争があった。


そしてそれはすでに四年前のこと。


エドリア王国第一位王位継承者アリシアは、今年で二十歳になる。



以前は無鉄砲で、格闘好きのアリシアは、エドリアのためと、後先構わず戦場に飛び出すような少女であったが、その短慮さは影を潜め、筋肉質だった腕や足は、その面影を見出せない。

元々華奢だった体は、筋肉が落ちたことで、儚さすら漂わせている。

アリシアは、彼女専用の椅子にゆったりと腰かけ、うつろな瞳で外を見ていた。


こんな風になると思ってもいなかった。


きっと、もっと平和になれば、自分の大好きな各闘技へと没頭できるだろうと浮かれていた十六歳の少女は、もういない。

その頃の自分を思い出すと、自嘲的な笑いが漏れてしまう。


(私は、何も知らなかったのね…。)


そのことに気がついたのは、彼女の幼馴染でエドリア城に仕える神官、ギルバートが、司教の命によって辺境の村リールへと異動になった時だった。

幼い頃からずっと一緒だった彼が離れてしまうと知った時、初めて、切り裂かれるような胸の痛みを知ったのだ。

それからは、彼を城内で見かけても、彼が何か言いたげに自分を待っていても、徹底的に避け、逃げた。

その気持ちがどこからくるのか、その正体がなんなのか、わからないほどアリシアは馬鹿ではなかった。

気がついてしまったのだ。

ギルバートを愛していることに。

そして、彼が自分を見ている瞳が、自分と同じ熱を帯びているということに。

(私が、王女でさえなかったら…。)

リールへとついていき、そこでギルバートの手伝いをしながら過ごす。

なんて幸せなことだろう。

しかし、現実は重く、暗く、アリシアにのしかかってきた。

エドリア王家の直系は、自分だけ。

傍系がいるとはいえ、アリシアが王位を継がないということは、国内を混乱に陥れるだろう。

だからといって、平民であるギルバートが、アリシアと対等な位に上り詰めるまで待てるだろうか?

その頃には、自分はもう、子どもを産むこともできないくらい老いているだろう。

国を捨てることはできない。

だからと言って、ギルバートを王家に迎え入れることもできない。

だから、アリシアは口をつぐんだ。

黙って、彼の旅立ちを見送った。

それが、お互いの幸せだと、心に言い聞かせて。


そして、現在。


アリシアは、明日、結婚する。


相手は、近隣の国王、ガイウス。

気乗りしない見合いを何度も続け、断り続けてきたものの、ガイウスとの結婚には、外交事情が絡んでいた。いわゆる、政略結婚をすることになったのである。

ガイウスは、先の戦いでエドリアを侵略してきた、いわば敵である。

戦が終わり、エドリアがそう簡単には手に入らないということを知ったガイウスは、しばらくは大人しく内政をしていたが、彼の野心が、再び頭をもたげてきたのである。

エドリアは、決して強大な国家ではない。

強国ユーリクスとは同盟を結んでいるが、他国が攻めてくれば、エドリア一国では押さえられない。

だからこそ、父王は決断したのだ。

いつまでも結婚する意志を見せない娘、アリシアとガイウスを結婚させることで、エドリア領土を焦土にすることなく、ガイウスの手に入れさせる。

また、エドリアとしても、ガイウスの治めるルンディア領を手に入れたようなものだ。

巨大な国家は狙われやすいが、強国ユーリクスとは同盟を結んでいるし、世界で一番強い王宮騎士を抱えていると言われるディレシアは、平和路線を選んでいる。

当面は、エドリアにて戦争が起こされる心配はない。


そこに、アリシアの意思は関係なかった。


アリシアは、ある日突然父王に呼び出され、そのことを告げられたのである。

ギルバートと離れ、三年。

すでに生きる気力を失っていたアリシアにとって、その命令は、死と同じだった。

一生、処女王として生きる覚悟をしていた。

誰とも体を交わさないと決めていた。

命令は、彼女の心を蝕んでゆき、アリシアは、一年ですっかり亡骸のようになってしまった。

ロボットのように、日課をこなし、あとは、焦点の合わない目で外を見つめ続ける。

そんな生活を一年も続けてきた。

ガイウスが訪ねてきても、会いはするが、触れることはけして許さなかった。


「婚姻を交わしてから。」


それが、彼女の常套句になっていた。

ガイウスはじりじりしていたが、アリシアの意思を踏みにじって婚約が破談になるよりはずっとマシだと、我慢を続けている。

元々可愛らしい顔立ちだったアリシアは、成長し、更に、生きる気力を失くし精彩を失ってから、逆に、美しさが際立つようになっていた。

彼女にとって、それは、皮肉以外の何者でもなかった。


彼女がここまで病んでしまうまで、誰も手助けをしなかったわけではない。

父とて、けして娘が可愛くないわけではない。

ただ、ギルバートへの想いを知らないのだ。

夫ができ、子どもが生まれれば、生きがいを見出せるかもしれないと、父は思っていた。

そして、彼女の乳母であった、エリザベータ。

彼女は知っていた。

彼女の気持ちが、ギルバートだけに向いていることを。

だからこそ、平民を王族に入れることはできなくても、せめて結婚はしないという彼女の意思を尊重してきた。

彼女の次に王位を継ぐものは、傍系でいい。

直系は絶たれるが、アリシアをギルバート以外の誰かと結婚させようとすれば、その時点で、アリシア自身が生を拒みかねない。

エリザベータは、そこまで承知していたのだ。

その彼女も、二年前の冬に、風邪をこじらせ、肺炎で世を去った。

アリシアとガイウスの婚約を阻止できるただ一人の人を失ってしまったことは、アリシアにとって、悲劇だったのである。


そして、つつがなく結婚式の準備が終わり、とうとう、明日が式という日。

ぼんやりと外を見ていたアリシアは、この日を待っていた。


逃げ出す日を。


ギルバートには、知らせていない。

リールで一目会い、その後はディレシアを頼るつもりでいる。

そして、ディレシア王は、開かれた国政で有名な人格者だ。

最強とうたわれる王宮騎士たちを抱えるディレシアに、戦を挑む命知らずな国は無い。

危険なのは、ユーリクスを通ることだ。

同盟国であるユーリクスで発見されてしまえば、すぐに連れ戻されてしまう。

しかし、エドリアからディレシアへ行くには、ユーリクスを通る以外陸路はない。

海路は目立ちすぎる。

陸路であれば、ユーリクスへの旅人たちに紛れることもできるだろう。


そして、夜半。


寝台で横になっていたアリシアは、おもむろに起き出し、ベッドの下に隠し持っていた町娘風のワンピースを取り出した。

見咎められないように、ところどころ破き、汚してある。

明日が結婚式ということもあり、警備の手は教会にも回されている。

そのため、城内外の警備は手薄だ。

そっと自室を出ると、もう使われていない向かいの部屋に入る。

かつてエリザベータの部屋だった場所だ。


「…ごめんね、エリザ。」


ポツリとつぶやいて、部屋の窓を開け放ち、そこからロープを使って庭へ降りてゆく。

城の庭を見渡すと、裏庭であるためか、こんな風でエドリア城は大丈夫なのかと思ってしまうほど兵が少ない。

元々の俊敏さを生かして、素早く兵たちの横を通り過ぎる。

朝になれば気づかれてしまう。

そうなる前に、できるだけ遠くへ行かなくてはいけなかった。

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