あなたの矢の速度

都市と自意識

1

 わたしが長野から東京の左っかわにあるこの団地にやってきたのは、親戚じゅうから団地のおばさんと呼ばれていた人、つまりおばあちゃんの妹で、すなわちわたしにとっての大おばさんが亡くなったからでした。


 大おばさんはずっと、この五階建ての低層集合住宅の三階に住んでいました。ひとりで住むにはやや広い2LDKの部屋のなかはちょっと簡素です。わたしはそんな部屋のなかでもひときわ存在感のあるお仏壇のまえで正座をして、見よう見まねで南無……と手を合わせたのでした。


 じりじりと燃焼するお線香のにおいを嗅いでいると、すっかり忘れていたいろんなことを、ふ、と思い出します。幼稚園生だったわたしが手に持つむかしのプリキュアのグラスに、団地のおばさんが注いでくれた麦茶の味を思い出します。


 薄目を開けて左隣で正座をしているお母さんを見ます。そして次に、右隣に座る人を見ました。


 アニメや映画のなかでしか見たことのない、まるでばか高い布みたいなブロンドの髪の毛を持ち、西洋風でややがっしりした顔立ちのその人は、深い深い海に潜っているような表情をしていました(とはいっても白い不織布マスクで顔の下半分はわかりませんが)。ぶっとくて黒い眉毛がぴくりと動き、それにあわせて、横に長く尖った耳もぴくりと震えました。


 きれいな人だなと何度も思ってしまいます。


 お母さんが、すう、とひと呼吸して合掌を解いたのでわたしも真似て解きます。

 隣のきれいなお姉さんは、ワンテンポ遅れてから合掌を解きました。長いまつ毛を持つ目がゆっくりと開くのを見て、花、とわたしは思いました。




 お姉さんの名前はコクゴ・ソーントーンデイルというそうです。コクゴさんは団地のおばさんが若い頃からの知り合いだそうです。


姪孫てっそん氏、わたしのことおぼえてますか? てかアミ氏の若いころにやっぱそっくりですね本当に。ウケる」


 わたしがもっと小さかったときに会ったそうですが、わたしはおぼえていません。というか、テッソンて何?


 聞いたところ、コクゴさんはもうこの団地に50年近くは住んでいるそうです。つまり、この団地ができた頃からいるそうです。見た目は20歳そこそこのお姉さんという感じなのに、不思議です。こういうこともあるんだなあと、わたしは思います。こういうこともあるんだなあ、で済ませていいかはわかりません。


「え、おぼえてないですけど……あと弦羽ツルハです」


「そうそうツルハ氏ね。そうかまあ仕方がないですよね。ねね、アミ氏、何年ぶりでしたっけ~?」


 お盆に麦茶の入ったグラスを乗せたお母さんにコクゴさんはたずねました。


「ん~、コクゴさんと会うのはそれこそ幼稚園のときぶりとかになるんじゃないかしら」


 麦茶の入ったグラスがちゃぶ台の上に置かれていきます。わたしのはむかしのプリキュアのやつでした。子供の頃に見ていた気はするけれど、もうあまり内容もおぼえていません。


 コクゴさんはマスクをずりおろして麦茶を呷りました。四角い顎にちょっと大きな口にきっちりした鼻筋はきれいで、そして印象的な眉毛とあいまって、顔立ちだけ見ると女武士といった感じです。


 わたしも麦茶を飲みます。グラスのまわりの水滴がしずくになって垂れてしまい、すこしまえに初めて袖を通した夏服のスカートに染みをつくりました。


 お母さんはコクゴさんのことをずっとまえから知っているようでした。お母さんとコクゴさんは大おばさんのこととか、なんとかさんやかんとかさんのおじいさんがちょっと腰を悪くしてる、みたいなことを話しています。


「あの……」わたしはたずねました。「コクゴさんって、お母さんの友達……? っていうか、団地のおばさんとどういう関係だったんですか……?」


「いったじゃないの。おばさんのお友達」とお母さんがいいます。


「あと旅の仲間」とコクゴさんはいいました。


 旅? 旅行友達ということでしょうか。出会ったのもそれきっかけとか?


 そう思っていたら、お母さんは平然といいました。


「一緒にドラゴンを倒したこともありますよ」


「ね~!」とお母さんとコクゴさんは顔を見合わせて自慢気です。


 わたしは思わず指をさして「やっぱりエルフなんだ!!!!!」と大きな声を出してしまいました。

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