第12話 残されし者
カーリン郊外となるソバルトイ草原。
そこにはカーリンから避難してきた市民達の列が、まるで草原を横切る川のように存在していた。
「エルンスト軍務長、市民の避難が完了しました」
市民たちの最後尾の位置にて周囲を警戒していた白髪の老人は、背後より駆けつけてきた青年からそう報告を受ける。
途端、彼の表情には苦笑が浮かんだ。
「元軍務長だよ、ラムリッツ君。しかし、順調のようだな」
「はい。ビートリー様は、この手の作業が非常に得意とのことでして……」
決断は遅かったものの、その後の処置は実に鮮やかであったこと。それ自体が、ラムリッツに非常に複雑な心境を抱かせる一因となっていた。
一方、そんな若者の内心に気づいたエルンストは、ニコリと微笑みながらその口を開く。
「いや、それは素晴らしいことだよ。もちろん皮肉ではなく本心だ。人には向き不向きというものがあるからね」
「はぁ、それはそうですが」
「私ではこんな上手く、市民たちを誘導できなかった。それは紛れも無い事実さ。だから私は、自分がカーリンのためにやれることをやるだけだ。この老体にムチを打ってな」
それだけを告げると、エルンストは軽く顎ひげを撫でる。
そんな彼に対し、カーリン軍生え抜きのラムリッツは、左右を見回しながら小声でそっと呟いた。
「ビートリー様の実力は認めます。ですが、何もせず逃げるというのは些か……」
「軍人として、戦わないということが不満かね?」
若者らしい血気盛んさを見せるラムリッツの表情を目にして、エルンストは改めて彼が何を考えているのかを理解する。
すると、不承不承の呈で、ラムリッツはその口を開いた。
「不満とは言いません……ですがあまりに消極的ではないかと」
「その気持ちもわからんではないがね。だがおそらく、この行軍の絵を書いたのは、かつての私の部下さ。今では雲の上の存在となってしまったがね」
「雲の上……それはもしかしてあのイスターツ隊長ですか」
ラムリッツが入隊した直後の一年間だけ、この地で職場をともにした伝説的な英雄。
その名を出された瞬間、彼はそれ以上何も言えなくなった。
そんなラムリッツの姿を目にして、エルンストは苦笑交じりに口を開く。
「ふふ、納得したようだな。なら話は終わりだ。あとは私達に何が出来るかさ。どうしても君が不満ならば、私とともに殿を務めるかと言いたいところだが……残念、君はまだ若すぎる」
「私とともに殿? どういうことですか。軍務長は現役を――」
「ああ、引退している。だから軍務長の前に元がつくわけだが、万が一の際に命を捧げるのは、この老骨の方が良いと思ってね。予めビートリー君の同意もとっている」
人手不足故に、やむを得ずその提案を受け入れたビートリーの姿を思い出しながら、エルンストは愉快そうに微笑みかける。
すると、そんな彼の言葉を受け、ラムリッツは渋い表情を浮かべた。
「ですが、なにもそんなことを軍務長がなされなくても」
「ふふ、万が一の備えさ。市民の避難もほぼ完了しているし、まだ敵の影はない。いや、正確にはあったのだが、はてさて本物だろうかね?」
そこまで口にしたところで、エルンストは意味ありげな笑みを浮かべる。
「え……では、ブリトニアの侵攻は誤報だと?」
「いや、それはないだろう。イスターツ君がわざわざ誤報を送ってよこすはずがない。となればだ、可能性は一つしか無いわけだが……そうなると、なおさら殿は若いものに譲れんね」
そこまで口にしたところで、エルンストは右の口角を僅かに吊り上げる。
すると、そんな彼らの会話を耳にしていたのか、大柄な老人が年配の兵士たちばかりを引き連れ、彼らの側まで歩みよってきた。
「はっはっは、軍務長。既に一同、準備は出来ております」
「ケレンツ九位! アナタまで殿を?」
ラムリッツが目にした人物。
それは一昨年にカーリン軍を退役したはずの老兵、ケレンツ元九位その人であった。
「ふふ、もちろんだ。軍務長のご命令とあれば……おっと、元軍務長だったか。ともかく、軍を退役したチェス仲間の頼みならば素直に従うさ」
「ありがとう。では、若者たち現役組に市民の避難は任せて、予定通り我らは背後の警戒に当たるとしよう。あくまで、万が一の事態に備えてな」
「ふぅむ、明日くらいにはカーリンに着きそうだな」
カーリンを包むようにそびえるクロセオン山脈の中腹。
そこから遠方に大軍の姿を見て取ったスキンヘッドの男は、顎を軽く撫でながら小さく息を吐き出す。
すると、彼の側についていた副長のヘルミホッフは、南の方向を指差しながらニコリと微笑んだ。
「どうやらギリギリ間に合いましたね。市民達の姿もほとんど見えなくなりましたし、これで奴らも事情を理解することは出来ないでしょう」
「ああ。奴らの驚く顔が見たいものだ。もっとも、人の家に土足で足を踏み入れようとしているんだから、これくらいで許してはやらねえがな」
自らの生まれ故郷を、敵へと譲り渡す行為。
如何に作戦行動のうちとはいえ、クレイリーの中には忸怩たる思いが存在していた。
一方、それは彼の副官とて同様である。
ヘルミホッフはレムリアック出身であり、カーリンとは直接の縁はない。
しかしながら、この国の一人の人間として、自らの国の都市を敵に明け渡すということには、複雑な心境を覚えずにはいられなかった。
「まったくです。この借りは必ず……で、如何致しましょう。我々の初期任務は滞り無く終了いたしました。あとは予定している多少の嫌がらせを終了したら、カーリンの人達とともにレムリアックに帰還しますか?」
「そうだな、それも悪くねえ。ただ、旦那は既に動いている頃合いだろうし、そうなると第二幕に間に合わなくなる。となればだ、できれば予定された戦場で合流したいところだが――」
長年黒髪の英雄の右腕として行動をともにしていたクレイリーは、彼の上官の行動を予測して、自らの行動予定を口にし始める。
しかしそんな彼の声は、突然遮られることとなった。
「隊長。クレイリー隊長、大変です!」
「どうしたんだ、ミセボラ? 連中が反転して国に帰りでもし始めたか?」
クレイリーが率いる部隊の中で最年少の青年に向かい、クレイリーは軽い口調でそう問いかける。
だがそんな上官の言葉に対し、ミセボラは一切表情を緩めることなく、眉間にしわを寄せながら一つの報告を行った。
「いえ、もちろんそんなことではなく……実は少しばかり、思わぬものをこの目にしまして……」
「思わぬもの?」
カーリン市内の見回りを命じていたミセボラの報告に、クレイリーは僅かに首を傾げる。
すると彼は、大きく頷くとともに、自らが目にしたものをその口にした。
「ええ……実は、夜間にカーリンで数名の人影を目にしまして。どうも未だに空き巣を行っている者達がいるようなのです」
「は? 市民の避難は完了したと聞いているぜ。誰が空き巣なんかするんだ?」
「それがその、市内に潜んでいたスラムの子どもたちが、この隙を狙っていたようでして……」
その言葉を耳にした瞬間、クレイリーの両目が見開かれる。
そして彼は下唇を強く噛みしめると、急にその場から歩き出した。
「あいつらか。当然、ブリトニアが迫っていることなんて知らねえよな。ちっ、クソ!」
「ど、何処へ行かれるのですか、隊長」
突然動き出したクレイリーを追いかけながら、副官のヘルミホッフはそう問いかける。
すると、スキンヘッドの上官は一度立ち止まり、そして彼に向かって怒気混じりの声を放った。
「街の糞ガキどもをぶん殴りに行ってくる。お前らはここで待ってろ」
「ぶん殴るって……やめて下さい。もうすぐ、ブリトニアの連中がここに来るんですよ!」
ヘルミホッフは慌てて、憤りを隠さぬ上官を止めにかかる。
しかしながらクレイリーは、彼の静止をあっさりと振り払った。
「うるせえ! あいつらは必死なんだよ。そうしなければ生きていけねえんだ。だからこそ、それがわかっている俺が行かなきゃ行けねえんだよ」
苦く暗い幼少期の記憶。
生きるためには全てのことをしなければならなかったあの時代の記憶が、クレイリーの脳内を一瞬で駆け巡る。
そして彼は迷うことなく再びまっすぐに歩みだした。
「隊長……」
「やっていることが犯罪な上に、今の状況なら滑稽極まりねえ。自分の首を絞めるだけっていうな。だからこそ、大人が正しに行かなきゃならねえだろ。人生の、そして奴らの先輩のこの俺がな」
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