第9話 掲げし旗は
突然の激しいノック音と、断りなく開かれた扉。
それにより、業務への集中を切らされる形となったビートリーは不快気な表情を浮かべながら、目の前の部下であるレムリポットへと視線を向けた。
「どうしたのかね、騒々しいな」
「ぐ、軍務長、大変です。たった今、カーリン東部にこの地へと向かって侵攻を続ける一団が存在したと報告が!」
息を切らせたレムリポットの部下の口から発せられたその言葉。
それを受けて、ビートリーは眉間にしわを寄せる。
「侵攻してくる一団だと?」
「そ、それが、ブリトニアの旗を掲げていると」
部下のその言葉が鼓膜を打った瞬間、ビートリーの瞳は大きく見開かれた。
「な、馬鹿な。では、あの馬鹿げた情報は本当だったというのか? しかし奴らは……ブリトニアの連中は脳なしか。なぜこんな愚行を……」
「そんなことを言っている場合ではありません! 連中は遠からぬうちに、このカーリンに到着するとのことです。至急、防衛のための手配を」
レムリポットははっきりと首を横に振りながら、上官に向かってそう進言した。
しかしビートリーは、下唇を噛み締めながらわずかに視線をそらすと、そのまま沈黙を続ける。
彼の脳裏にははっきりとした迷いが存在した。
実際に敵が来たのならば、打って出るべきか、それともここを守るべきか。
そして市民をどうすべきか、市長達への対応をどうするか。
じっくりと提出書類を審査し、そして決断を下すタイプの彼にとって、この差し迫られた状況は不快極まるものであった。正直言って、とても一瞬で決断できることではない。
そう、それだけがすぐに出すことが出来た唯一の結論であった。
一方、そんな彼の姿を目の当たりにしていたレムリポットは、また上官の悪い癖が出たと理解し、険しい表情を浮かべる。
ビートリーの副官としてこの地に赴任してきた彼は、目の前の人物を決して過小評価してはいない。
むしろ軍官僚としては優秀な部類の人材であり、どの派閥にも属さず、そして大きな失態も見せることなく、着実に仕事をこなし続けてきた。
しかしながら事務官僚という枠組みを一歩でもはみ出す仕事においては、上官の能力の欠如もまた、彼は理解している。
だからこそ、自らが助言を行わねばと彼は焦っていた。
しかしながら、彼の脳裏にも、このような事態において適切と思われる選択肢など何一つ浮かばない。
そうして、この危機的状況にもかかわらず会議室内に訪れた沈黙。
それが破られたのは、開けっ放しであった扉の外から、現地採用兵である生え抜きのソレネン十位が姿を現した時であった。
「失礼致します。たった今、親書を携えてクレイリーの兄貴が……いえ、クレイリー五位が到着されまいした」
「クレイリー五位? 誰だそれは?」
聞き慣れぬ名を耳にして、ビートリーはやや棘のある口調で問い返す。
すると、ソレネンが答えるよりも早く、部屋の外からスキンヘッドのいかつい男が姿を現した。
「すいやせん。ちょっと時間がありやせんので、失礼しやすぜ」
「……誰かね、君は? 今は緊急事態なのだ。出て行きたまえ」
風貌といい、姿格好と良い、明らかにカタギの人間とは思えなかった。
それ故にビートリーは、一瞬気後れしそうになったが、部下の前でもありどうにか毅然として振る舞う。
そんな彼を目にしたソレネンは、少し気まず気な表情を浮かべながら、その口を開いた。
「あの……軍務長。こちらがクレイリー五位です」
「すいやせん、軍務長。初めてお目にかかりやす。あっしはレムリアック軍副長のクレイリー・アームと言いやす」
ツルツルの頭を軽く撫でながら、クレイリーはニッと笑うと、そう口にする。
一方、彼と対峙したビートリーは、彼のその言葉に驚きを隠せなかった。
「レムリアック……では、まさか彼のところの?」
「へぇ、軍務長は旦那とご面識があると聞いておりやす。そこで旦那から、これを軍務長にお渡しするようにと連絡を受けてまいりやした」
クレイリーはそれだけ告げると、先任の五位であるビートリーに向かい、汚い文字が綴られた一通の手紙を手渡した。
「な……これは本気なのか」
封を開けて、その文面へと目を落としたビートリーは、頬を引きつらせながら、思わずそう口にする。
すると、クレイリーは迷うことなく大きく首を縦に振った。
「へえ。旦那はそこに書かれている全てを、レムリアック伯の名の下に保証すると宣言していやす。その証としてたぶん今頃は、まったく同じ内容の手紙が王都へと届けられている頃でやしょう」
「だが、何もせず敵に――」
「いえ、それこそが最も被害を少なく、そして敵を撃退するために有効だと、旦那は言っていやした。だからこそ、責任は自分が取るとのことです。ビートリー軍務長……既に連中は、この街の側まで来ていやす。どうか今すぐご決断くだせえ」
クレイリーによるその言葉。
それを受けて、ビートリーは再び下唇を噛む。
だが彼は、先ほどと異なりすぐに自らの決断を口にした。
「決して彼の厚意に甘えるだけのつもりではない。だが、このカーリンを守るため、彼の……いや、イスターツ閣下のご提案に従わせていただこう」
「それでは、軍務長。私はすぐに皆に指示を出してまいります!」
ビートリーの決断を受けて、レムリポットもすぐに自らのなすべきことを理解する。
すると、そんな彼を後押しするように、ビートリーは大きく頷いた。
「ああ、頼む。市民には、至急この街から退去するよう連絡を。手助けが必要な者は、市の職員及び軍の人員を割いてでも、退去を手伝え」
「たぶんイスターツ隊長……いえ、イスターツ閣下の名前を使えば、渋る市民達も同意してくれるでしょう。私も一緒に参ります」
ビートリーたちの会話を耳にして、生え抜きのソレネンもこの街の誇りである人物の名を使い、市民の背を押すことを提案した。
「旦那なら、いつもみたいに頭を掻きながら、名前を使うぐらい喜んで事後承諾してくれやすよ。では、あっしは連中の足を止めるよう、部下たちを連れて打って出てきやす」
「しかし君たちだけでは……」
クレイリーの提案に対し、それがどれだけリスクの有る行為かを理解したビートリーは、申し訳無さそうに言葉を発する。
しかしクレイリーははっきりと首を左右に振ると、凄みのある笑みを浮かべながら、ビートリーに向かいその口を開いた。
「多少人数が増えても、敵の数が違っていたら一緒ですぜ。むしろ小回りがきく人数の方が、色々と嫌がらせも出来やす」
「……クレイリー五位、かたじけない」
「いえ、良いってことでやすよ。それより、部下に連絡して市長たちにも同じ行動を取るよう伝わっていることと思いやす。どうか協力して、南に向かい至急避難を完了させてくだせえ」
カーリンの街から馬で数時間ほど東へと走らせた街道沿い。
そこにはブリトニアの国旗を掲げる数百名から成る部隊が存在した。
「手はずは如何でしたか?」
たった今、カーリンから戻ってきた部隊長に向かい副長のヘルミホッフはそう問いかける。すると、彼の目の前のスキンヘッドの男は、その表情にニヤリとした笑みを浮かべた。
「へへ、今のところは予定通りだな。色々と渋り始めたり、勝手に暴発したらどうしようかと思っていたが、流石に旦那の目は確かだ」
「ということは、カーリンの軍務長は予定通り動かれたということですね」
「ああ。尻に火が付いた状態で水場のありかを教えてやれば、のろまな奴でも慌てて走りだすってとこだ。で、そっちの首尾は?」
「現在のところ、我々の存在に気づいた者達は、申し訳ありませんが、全て拘束致しております」
やや苦笑交じりに、ヘルミホッフはそう告げる。
たしかに彼とて、無関係の市民を拘束することには気が引けるものを感じてはいた。
だが、現在のカーリンにははっきりとしたブリトニアの影こそが必要なのである。
そう、近いうちにやってくるはずの、本物の影が。
「くれぐれもよく謝っておいてくれ。あと、カーリンの連中が退去したら、そいつらも一緒に南へ誘導するんだ。俺達の戦いに巻き込むわけにはいかねえからな」
「了解致しました。では、作戦は第二段階に移るとしましょうか」
「おう、良いようにやってくれ。というわけでだ、くだらねえ芝居はおしまいだ。俺たちの本来の仕事を始めるとするか」
スキンヘッドの男はそう口にすると、軽く自らの頭を撫でる。
見た目も風貌も完全に異なるが、その仕草は彼の敬愛する上官とうり二つであった。
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