第8話 エレンタム
王都エルトブールの東に存在するひときわ高い建築物。
その最上階の一室に、若い金髪の青年が溜め息を吐き出しながら、分厚い資料と向き合っていた。
「これでもまだマシになったと言うんだから、本当に困ったものだよね」
彼が目にしている資料。
それは過去の軍予算に関する報告書類に他ならなかった。
そこから彼が見て取ったものは、どれだけの軍の予算が、各貴族家に流れていたのか、また現在のクラリス軍の軍備増強が如何に困難であるかである。
そして同時に、彼は前任のラインバーグに深く感謝の念を覚えていた。
これらの資料を集積し、彼に引き継いでくれたのが、紛れもなく彼であるのだから。
そんな事を考えながら、改めて彼は今年の予算案の書類へと目を向ける。そして大きな溜め息を吐き出したところで、彼は部屋の扉が大きくノックされたことに気づいた。
「軍務大臣、アーマッド戦略省次官がお越しです。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ、お願いします」
外から響いた警備兵の声を受け、エインスはすぐさま返答を行う。
そうして一拍も置かぬうちに扉が開かれると、以前以上に白いものが目立ち始めた金髪の壮年が、ゆっくりとその姿を現した。
「どうも、お忙しい中申し訳ありません。軍務大臣」
壮年の男はそう口にすると、完璧に節度を保った敬礼を行う。
だがそれを向けられた青年は、なんとも言えぬ表情を浮かべた。
「あのですね、おじさん。今は他に誰も居ませんし、公の場ではないんですから、エインスで構いませんよ」
むしろ今のような応対をされたら迷惑だ。そう考えているのを一切隠さぬ表情で、彼はアーマッドへとはっきり告げた。
一方、その言葉を向けられたアーマッドは、思わず苦笑する。そして懐から少し汚い筆跡で書かれた一通の手紙を取り出すと、そのままエインスへと手渡した。
「ふむ、そうかい……なら、エインス。ちょっと手紙が一通届いたんだがね、至急読んでくれないかな?」
「これは……」
手渡された手紙の文面へと目を落とした瞬間、エインスは思わず言葉を失う。そして彼は慌てて顔を上げると、アーマッドは大きく一つ頷いた。
「まさかうちの情報局より早く掴むとはね。たぶんアズウェル先生か、クレハくんの仕業なんだろうけど、本当に……」
「おじさん……つまり彼らは旗色を決めたと?」
手紙に記されていたル・エーグ港の異変。
このタイミングにおいてそれをストレートに解釈するならば、貴族院はブリトニアに協力する姿勢を示したこととほぼ同義と考えられた。
「元々旗色自体は決まってはいるさ。お前たちによって、テムス達がここから一掃された時にね。というわけでだ、さてどうするかね?」
「先輩はル・エーグが本命かもしれないと危惧しつつ、一点張りすることのリスクも同時に書いておられます。しかし、このクラリス全体に警戒を張り巡らせることは些か……」
そう、五年前の帝国との戦いを経て、クラリス軍はいまだ再建途上に他ならない。
そして貴族院の抱える私兵が期待できない今、この国の領土を守ることが如何に困難か、それは容易に想像がついた。
「確かに、正直言って現実的ではないね。無理に行えば、兵士の中に貴族院の息のかかったものもいるだろうし、逆に嵌められる可能性がある。となればだ、やはりポイントを絞るしか無いだろうな」
「ええ。いずれにしても、貴族院が彼らに与するならば、最終的にはこのエルトブールこそが彼らの目指す地となる。それ故、この地を守ることが大前提。ただ問題は、先輩の危惧するカーリン……ですか」
「戦略上の重要性としては二ランク程下がるが、歴史的経緯やブリトニアの現状を踏まえると十分にありえる選択肢だろうね」
かつて一時的にではあるが支配下に収めたことのある歴史的事情と、魔石資源に乏しいと言われるブリトニアの内情。
その二つを勘案するならば、クラリス北部で最も良質な魔石産出地であるカーリンに目をつけることは、アーマッドにとってまさに妥当だと思われた。
「そうですね。貴族院との取引材料として、彼の地の割譲が最初から含まれているのかもしれません。それに僕らの警戒も薄いことが目に見えているでしょうし」
「しかしカーリンに主力を割くのは無理だな」
「となると、結局先輩のこの提案に乗るしか無いですか……」
手紙に走り書きされていた二つの提案を目にしながら、エインスは溜め息を吐き出す。
そんな彼の反応を目の当たりにして、アーマッドも思わず首を左右に振った。
「普段より一層汚いその字。彼がどんな思いでそれを書いたかが偲ばれるよ。ともかく私たちにできることは、出来る限り、連中の思い通りにさせないということだけさ」
「では、ル・エーグとポーツポーン周辺への警戒を強めてください。彼らの足取りがわかったら直ぐに連絡が届くように。それと……」
「遠征軍の準備だな」
エインスの言葉を引き取る形で、アーマッドはそう告げる。
すると、そのとおりだとばかりにエインスは首を縦に振った。
「はい。本隊の指揮を取るのは、先輩方のどちらかにお願いするとしますか。さすがに揃ってここを空けるわけにも行きませんし」
「ふむ……エインス、第一師団を動かす形ではどうかな?」
エインスの発言を受けて、アーマッドが行った提案。
それを受けて、金髪の青年は眉間にしわを寄せる。
「第一師団……ですか。確かあそこの師団長は……」
「ああ、私の同期さ。多少の贔屓目は置いておくにしても、軍の傍流を歩き続けながらにして、一個師団の指揮官にたどり着いた男だ。少なくとも、私ので良ければ有能だと太鼓判を押すよ」
言葉では多少の遠慮を見せながらも、アーマッドの表情にははっきりとした自信が見て取れた。それに気づいたエインスは、数度ばかり顔を合わせたことのある男の名をその脳裏に浮かべる。
「確かおじさんが主席で、師団長が次席だったんですよね。名前は確か……」
「エレン。で、受けてくれるかい?」
アーマッドは手にしていたオー・ド・ヴィのグラスをテーブルに置くと、隣りに座る壮年へとそう問いかけた。
エレンタム・フォン・ラムズ。
かつての彼の親友であり、ライバルであり、そして現在の王立軍第一師団長でもあった。
「ふむ……次官殿に言われてしまうと、現場の人間としては断りかねるところだな」
きっちりと固めた髪をトレードマークとする壮年は、敢えてアーマッドと視線を合わせること無く、グラスの中に注がれた琥珀色のオー・ド・ヴィを見つめたままそれだけを告げる。
そして彼はもう一度グラスを口元へと運び、そして軽く香りを楽しんだ後に口へと含んだ。
口の中がとろけるようなその味わいと、喉が焼けるような感覚。
それを軽く彼は楽しんだ後、彼はようやくアーマッドに向かって視線を向け直す。
「はぁ……君なら、嫌だったら嫌だっていうだろ。それで私の前任者に随分嫌われていたと聞くけど」
「テムス次官はこの国や軍のこと以前に、貴族院が最優先だったからな。まあ意見があわないのは致し方ないところさ。先方もそれをわかっていて、その上で私を使っていたようだしな」
テムス前戦略省次官に嫌われながら、遠ざけられつつもついぞ切られること無く軍生活を送り続けた男。
そんな彼は、自らの歩みを振り返り、自嘲気味に笑う。
一方、彼の隣に座るアーマッドは一つ深い溜め息を吐き出した。
「まあ切り札は手元においておきたかったんだと思うよ。それ以上に気の合わぬものが、軍で跋扈し始めた時期でもあったし」
「そんな彼らが今や軍の主流だ。さてさて、こんな老兵に本当に出番をくれるつもりなのかね」
エレンタムが何気なく口にしたその言葉。
それを耳にするなり、アーマッドはすぐさま言葉を差し挟む。
「おいおい、待ってくれ。君が老兵なら、この私も老兵ということになる。年は一人で取るもんじゃないんだ。私まで一緒に巻き込まないでくれ」
「はは、それは済まなかった。でも、時々思うんだ。自らの志を成すこと無く、他者に全て成された自分に、もはや居場所はあるのかと」
「軍改革は士官学校時代からの君の夢だったからね」
「ああ。そして君と共有した夢さ。でも、最終的には君の思いを託した彼らが事をなした。結果としては満足している。ただ……」
そこまで口にしたところで、エレンタムは再び目の前のグラスを煽る。
そんな彼の姿をその目にしていたアーマッドは、首を左右に振りながら彼に向かって言葉をかけた。
「違うよ、エレン」
「違う?」
「ああ。軍改革は始まっただけで、まだ何もなしえていない。だから君に声を掛けたんだ」
それは紛れも無くアーマッドの本音であった。
そしてだからこそ、彼はエレンタムの瞳から視線をそらさず、更に言葉をつづける。
「今回のことで僕らは、いや、私たちは貴族院を一掃する。その決意にゆるぎはない。だからさ、そのために君の剣を振るってくれないかな」
「貴族院を一掃する……か」
それははるか昔、彼ら二人で話し合っていた理想に近い夢であった。
この国の現状に憂いを感じた、若き青年士官だった二人。
だが、それを実際にこと成さしめようとしているのは、彼らよりひとつ下の世代となるまばゆいばかりの才能たちであった。
エレンタムがそのことに嫉妬を覚えていないかといえば嘘となる。
しかしたとえ自らの手で成し遂げられなくとも、この国に光が差すのならばそれは……
「……いいだろう」
「エレン!」
望んでいた返答。
それを受け取ったアーマッドは思わずその表情を明るくさせる。
一方、そんな親友の表情を目にして、決断を行った壮年は、はっきりと自らの決意を口にした。
「正直言って、自分抜きで進んでいくこの国の軍改革が羨ましくもあり、そして妬ましくもあった。だが、そこに私の力が必要だといってくれるのなら、喜んでこの剣を差し出そう。この国の未来の為にならな」
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