第6話 辺境の地
築六十五年の古びた建物。
それがこの市で最も大きな建築物である、カーリン市庁舎であった。
その最上階の一室に、軍務長室と呼ばれる部屋が存在する。
市長であるサムエル伯爵がこの建物にはほぼ姿を表さないことから、実質的に最高責任者と呼んでもよい人物が住まう部屋。
その執務席では、ビートリー・フォン・エルネンリフトと呼ばれる壮年の男が、ふくよかな体を揺らしながら、めんどくさそうに書類へのサインを繰り返していた。
「ビートリー軍務長、よろしいでしょうか?」
「どうぞ入り給え」
突然外から響いた聞き覚えのある声を耳にして、ビートリーは溜め息を吐き出しながら許可を告げる。
そうして部屋の中へと入ってきたのは、予想通り彼の副官であるレムリポットであった。
「ビートリー軍務長。たった今、王都から早馬が到着致しまして、至急のご連絡事項をと」
「至急? 一体何だ。王都で政変でもあったというのか?」
レムリポットから用件の記された書簡を受け取りながら、ビートリーはあまり興味なさげにそう問いかける。
するとレムリポットは、王都からの連絡兵から伝え聞いた情報を、端的に彼へと伝えた。
「いえ、そのようなことはないのですが、どうやら特別警戒を行うようにと軍務大臣が各地に連絡しているとの由にございます」
「軍務大臣……ああ、あのライン家のボンボンか」
ビートリー自身は下級貴族出身であるが、士官学校の八十期を次席で卒業している。そして軍の会計畑で細やかな功績を重ねた上で、ようやくこの五位という地位にまでたどり着くことが出来ていた。
しかし軍で大きな顔をしている顔がいいだけのボンボンは、自らより一回り若いにもかかわらず、また大した戦功を上げたわけでも無いのに、すでに軍務大臣の地位にある。
もちろんあの著しい功績を上げた英雄であるならば、例え一回り下のものとはいえ、彼としてはその命令に喜んで従う所存ではあった。
だが彼に言わせれば、現在の軍務大臣はライン家と女王の子飼いという二つの幸運により、実力なくその地位を確立したに過ぎなかった。
「軍務長。声が些か大きく御座います」
「構わん構わん。あの男は前任者の功績を掠め取り、そして門地と女王の信任で出世した人間だぞ。叩き上げに近い次官連中はともかく、あの大臣のことを俺は好かん」
明確な軍務大臣に対する侮辱発言。
それを耳にしたレムリポットは、慌てて周囲を見回す。そしてすぐさま上官をたしなめた。
「お気持はわかりますが、この地は元々女王派の土地柄。発言には十分お気をつけ下さい」
「ちっ、まったくこんな田舎に左遷しておいて、そんな俺に対して無意味な命令をよこすとは……もともとあの方が昔居られた土地でなければ、絶対に断ってやるところだったのだ。しかし、親と女王の力を背景に、貴族院と奴が対峙しているこの国の状況。まさに皮肉だと思わないか?」
「否定はしませんが……ともかく、軍務長。警備の増強の件ですが、いかが致しましょう?」
「夜間の警備兵を一名増やせ」
レムリポットに問われたビートリーは、迷うこと無くそれだけを告げた。
一方、そんな上官の指示に動揺したのはレムリポットである。
「い、一名!? あの、他には?」
「他にだと? それ以上何をする必要がある」
「で、ですが、ブリトニアの侵攻があるかもしれず、その為の警戒だと使者殿からは伺いました。にも関わらず、たったそれだけで本当によろしいのですか?」
「ブリトニアは来ない。そして予算がない。だから無理だ。以上」
ビートリーはそれだけを告げると、手にしていた書簡を机の上へと放り投げた。
それをチラリと目にしたレムリポットは、その書簡の最も注目すべき文面を敢えて口にする。
「ですが、そこにブリトニアが攻めてくる可能性が極めて高いと書いて――」
「暗黒戦争を忘れたかレムリポット。あれを覚えているならば、侵攻などという馬鹿げたことをブリトニアはせんよ。海を渡っての戦争なんぞ割に合わんからな。それがわからんほど。ブリトニアの連中も馬鹿ではないさ」
「し、しかし……」
「お前もしつこいやつだな。いずれにせよ、現実的に無理なのだ。我らには金も人もないのだ。それはお前も知っていいるだろ?」
そう、そのビートリーの言葉はまさに事実であった。
もともとこの辺境地の治安維持のためだけに存在するのが、カーリン軍である。その予算は、王都からの補助も当然存在はしたが、中心は市の予算から割譲されている。
そして治安が安定している現状、当然ながら市から降りてくる予算も、それに見合ったものとなっていた。
「それはそうですが、でしたら市長に予算を掛けあう事も、検討されては如何かと?」
「市長は女王派だ。下手に借りを作ると、私まで女王派に見られかねん。貴族院と女王派との政争が帰結するまでは、迂闊な行動は避けるべきだろう。というわけでだ、夜間の警備を一名増強する。以上」
ビートリーはそれだけ告げると、もう副官に用はないとばかりに、その視線を机の上の書類へと向ける。
彼にしてみれば、これは踏み絵ではないかと思われた。
ブリトニアなどというありえぬ敵の侵攻をネタにして、現在の軍首脳部の指示に従うかどうかの踏み絵。
その為、ビートリーは予算の都合という建前を使いながら、極々最低限の対応は行ったという形式だけを取ろうと決意していた。
そんな彼の選択に対し、答えが出たのは約一ヶ月後のことであった。
王都からの使者がカーリンを訪れてから、一ヶ月がすでに経過した頃。
市庁舎でそんな出来事があったことさえ知らぬ男たちは、このカーリンにおける最も豪奢な建物の一室にて、白熱した戦いを行っていた。
「はっはっは、また腕を上げられましたな」
目の前のチェスボードの戦況を目にしながら、白髪の老人は愉快そうに笑う。
すると、彼の対戦相手である金髪の中年男性は、嬉しそうに微笑んだ。
「そうかい? 指導者がいいものでね、この歳にして自分が成長しているのがわかるよ」
「まだまだ伯爵はお若いから、これから強くなられるでしょう。お教えしている私でさえ、最近腕を上げた自覚がありますからな」
老人はそう口にすると、ニンマリと微笑む。
一方、そんな老人の言動を耳にして、サムエル伯爵は思わず肩をすくめた。
「更に腕を上げられるとは、一体どれほど遊んでおられるのやら。やはり軍務長をやめてからは、よっぽどお暇なのですな」
「まあ槍の代わりに、こうやって駒を握っているだけですから。今なら、現役時代には勝てなかった、あの男にも勝てる気がしますよ」
エルンストは軽くあごひげを撫でながら、サムエルに向かってそう宣言する。
途端、サムエルは興味深そうな視線を目の前の前軍務長へと向けた。
「へぇ、君でも勝てなかった相手がいるとはね。実に興味深い」
「いえ、市長もご存知でしょう。彼ですよ」
「彼? ああ、なるほどね。だとしたら納得だ。しかし、彼も今は何処で何をしているのだろうかね」
「この地に居た頃とは、もはやその立ち位置はまったく異なりますからな。はてさて、何をしていることやら」
同級生の前で必死に言い訳を口にしているなど当然知る由もないエルンストは、笑みを浮かべながらそう言葉を紡ぐ。
「しかし、彼がこの地を離れてもう五年か。月日が流れるのは早いものだね」
「ふふ、まったくですな」
「個人的には、一度早めに会いたいのが正直なところだ。何しろ、レムリアック産の魔石による相場の乱れを、少し考えてもらわないとならんからね」
国内でも有数の魔石産地であるカーリン市。
しかし現在、新興の巨大な魔石供給地が誕生したため、市場価格は長期下落傾向にあった。だからこそ、そのあたりの調整も兼ねて、一度当人にあっておきたいというのは、サムエルの本音である。
だが同時に、伝え聞く噂からそれが難しいであろうことも彼にはわかっていた。
「まあ私の老後生活に影響しそうなら、やむを得んので、あの男を探しに旅にでも出るとしますかのう」
「ふふ、単純に旅をする口実がほしいだけだろ。でもダメだよ。残念ながら、まだ貴方に一度も勝てていないのでね」
「案外、伯爵も負けず嫌いでいらっしゃいますな」
サムエルの言葉を受け、エルンストは苦笑を浮かべる。そして彼は、目の前の市長に対し、形勢を決定づける駒を動かそうとその手をチェスボードの上に伸ばしかけた。
しかしその瞬間、ノックさえされること無く、部屋の中へと伯爵の部下が飛び込んでくる。
「た、大変です。今すぐお逃げください」
「は? 一体何を言っているのかね?」
普段ならば規則的にも絶対ありえぬ部下の行動。
それ故に、サムエルはただならぬことが起こっていることを薄々察する。しかしそれが何かは、思い当たるものがなかった。
すると、そんな彼に向かい、部下は息絶え絶えになりながらも、どうにか肝心の言葉を口にする。
「て、敵が来たのです!」
「敵だと?」
思いがけぬ単語を耳にして、市長は眉間にしわを寄せる。
一方、そんな二人の会話を前にして、歴戦の武人は一つの仮定を口にした。
「まさか、貴族院か?」
「違います、エルンスト様。敵は……敵はブリトニアです!」
「は?」
サムエルもエルンストも、一瞬何のことだから理解できなかった。
むしろ部下にからかわれているのではないかという可能性さえ、彼らの脳裏を横切る。
しかし目の前の悲壮な表情を浮かべた男は、あまりに厳しい現実を二人に向かって突きつけた。
「ブリトニア軍の旗を掲げる大軍が、カーリン目指し進軍中とのことです。今すぐ脱出のご準備を!」
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