第5話 交わされた約束
クラリス北部にはポーツポーンとル・エーグと呼ばれる二つの海運都市が存在した。
ポーツポーンは古来より王家の直轄地として栄え、現在もエルトブールとの間には日夜荷馬車が相互に行き交うほどの繁栄を見せている。
一方、ル・エーグは基本的にそのような環境にはない。
彼の地は元々巨大な漁港であったが、ブリトニアとの暗黒戦争を経る中で、巨大な軍港として長らくその存在意義を有する事となった。
しかしながらブリトニアとの停戦がなり、海戦などという行為が程遠くなって以降、その存在意義は急速な低下を認める。そしていつしか彼の地に住む人々でさえ、忘れ去られた軍港などと、その存在を自嘲するようになっていった。
そのような状況が一変したのは、ちょうど三十年前のことである。
エリーゼの祖父である先々代国王のカペセルは、その即位直前まで弟であるベバルチフと政争劇を繰り広げることとなった。
この際に、表立ってカペセルの後押しをしたのが若き日のクラムフェルト・フォン・ブラウ、つまり現在のブラウ大公である。
結果として、彼はその功績を認められ、ブラウ公爵領にほど近いル・エーグの独占使用をカペセルによって許可されるに至った。
そして現在、ル・エーグはブラウ家を支える貴重な商業港として、その役割を担っている。
所狭しと商船がずらりと並ぶル・エーグ港。
だがこの日、明らかにその様相は普段と異なった。
道を行き交う商人たちの姿はなく、また港に停泊しているのは無骨な無数の軍船。
しかもその船のいずれにも、クラリスとは異なる旗が立てられていた。
そう、かつて暗黒戦争にて長らく雌雄を決したブリトニアの旗が。
「ようこそ、お待ちしておりましたぞ。フランツ・ウィレンハイム伯」
「こちらこそ、初めましてブラウ公。この度のご厚意、厚く御礼申し上げます」
港へと降り立ち、彼を待ち受けていた老人。
その蛇のような目を持つ老人に向かい、フランツは深々と頭を下げる。
途端、ブラウはにやりと右の口角を吊り上げると、目の前のブリトニアの壮年の男に向かって軽やかに笑いかけた。
「はは、フランツ殿。あなた方を迎え入れるのは、むしろ我らの総意。こちらこそよく来てくださったと感謝を述べたいところでしてな」
「かたじけないお言葉です。しかし噂に聞いておりましたル・エーグ港は、所狭しと商船が行き交う港と聞いておりましたが……これはまさか?」
「さよう。貴公たちを迎え入れるために、一時的に港を封鎖させて頂いた。もちろん、一時的に商人たちにも退去してもらってですな」
先程までの恐縮が嘘のように、ブラウは敢えて恩着せがましい口調でそう告げる。
もちろんそれは、ブリトニアのためにここまでの事をしてやったというブラウの主張以外の何ものでもなかった。
一方、そんな意図を見て取ったフランツは、敢えて悠然とその厚意を受け止める。
「それは流石ですな、ブラウ公。貴公のこの地における治世が素晴らしいからこそ、民たちが従うのでしょうから。いや、ただただ感服致しました」
ただその手腕を褒められるだけに終わったブラウは、機先を制しそこねたと内心で舌打ちする。だがその表情からは笑みを絶やすことなく、彼は更にフランツに向かって言葉を重ねた。
「いえいえ、そんな大したことではありませんよ。うわさに聞く、オリヴィア女王の治世に比べましたら、私などはまだまだといったところ。真に仕えるべき女王がいらっしゃるあなた方が実に羨ましい」
「ありがたきお言葉。あのブラウ公がそのようにおっしゃっておられたこと、本国に戻りし際は必ず女王陛下にお伝えいたします」
「これはこれは恐縮ですな」
ブラウは内心で二度目の舌打ちをする。
それは暗にこの国の女王を貶める発言を行ったにもかかわらず、フランツが喰い付いてこなかったためであった。
そして同時に、目の前の男は一筋縄ではいかないと彼はここに確信する。
一方のフランツは、会話の主導権をそろそろ奪わんとして、敢えて正面から本題を切り出した。
「さて、ブラウ公。予定としてお伝えいたしておるとおり、後からやってくる第二陣を迎えたところで、我々はこの地を発つ予定としております。その際に、後背のことをお任せすると書状を送らせて頂いておりましたが、問題はございませんかな?」
「ああ、そのようなお話でしたな。もちろん何一つ問題などございません。万が一クラリス軍が貴公たちを襲わんとするならば、我々がその背後を討つ。その準備は既に整えております」
「ありがたい話ですな。では事が上手く運びましたら、我々はブルトーニュ地方を割譲頂き、貴公らのこの国を正す為の活動に協力する。予定通りその形で進めさせていただきます」
フランツは矢継ぎ早に、この場にて条件の確認を行っていく。
そのあまりに性急な対応に、目の前の男を取り込み、そして自身の目的のための一助とせんと目論んでいたブラウは、ほんの僅かに苦い表情を浮かべた。
だがそれはほんの一瞬だけの出来事であり、目の前のやや神経質そうな可愛げのない男に向かい、彼はすぐに温和な笑みを浮かべ直す。
「まあその辺りは、ゆっくりと膝を詰めて話し合うことにしませんか。長旅でお疲れのことでしょうし、その慰労も兼ねて宴の準備を行っております。よろしければ、これよりご案内させていただきましょう」
そのブラウの言葉に、フランツは一瞬考えこむ。
そしてその顎を軽く右手で擦りながら、彼はブラウの予想外の事をその口にした。
「それは実に嬉しい話ですな。ですが、申し訳ありませんが少しお待ち頂けますでしょうか。歓待頂くとなれば、どうしてもお連れせねばならぬ同行者が、先ほどから見当たらず困っておったところでして」
「ほう……同行者ですか?」
「ええ。トルメニアという国の枢機卿をやっている少年でしてね。本来ならば、この場でご紹介させていただく予定だったのですが……はてさて、どこへ行ったものやら」
フランツは溜め息を吐き出しながら、船の中でも目を輝かせながらあちこちを見て回っていた少年のことを口にする。
一方、全く情報にない同行者の存在を耳にして、ブラウは改めて目の前の男に問い直した。
「トルメニアの枢機卿が一緒にいらっしゃると、つまりそういうことですか?」
「ええ、船が寄港するまでは、デッキの上におられたのですが……何分まだお若くて好奇心があまりに旺盛のようでして」
「ほう、しかし好奇心旺盛な少年と言われますが、如何ほどのお歳で?」
「確か、まだ齢十四と伺っております」
その年齢をフランツが口にした瞬間、さすがのブラウも目を大きく見開く。
そして目の前の男の口ぶりから、彼と若き枢機卿がそれほど親密でないと見て取ると、ブラウは敢えて皮肉げな言葉を吐き出した。
「……それはそれは。然しその歳で枢機卿だとは、一体どんな理由があったものやら」
「ともかく、彼を見かけましたら、ともに向かわせて頂きます」
「分かりました。では、一足先に会場にて、お待ち申し上げておりますぞ」
ブラウはそう口にすると、案内役の執事を一人残して、そのまま立ち去っていった。
そうして、その場に残されたフランツは、後ろに控えていたマリアーヌに向かって声をかける。
「で、本当にあの子は何処に行ったのかね?」
「それが全く見つからぬようでして……」
「物珍しいのはわかるが、これが一国の代表として同行しているというのだから困ったものだ。しかしまさか、異国の地で子供の御守りをさせられることになろうとはな」
フランツはそう口にすると、虚空に向かって大きく息を吐きだした。
積み荷を下ろす作業を行っている者以外、全ての者が降り立ったはずの船の一室。
そこに一人の少年と、黒い一つの影の姿があった。
「ふふ。少し待たせたようだね、エミオル。フランツもおせっかいというか、なかなかに諦めが悪くてね。諦めて一人でブラウのもとに向かわせるのに、時間がかかってしまったよ。それで、噂の英雄君はどうしてる?」
薄ら笑いを浮かべながらゼスは、エミオルと呼んだ目の前の黒き影に向かいそう問いただす。
「はい、極秘裏に帝国入りしたと報告を受けております」
「ふぅん、帝国か。やはりね」
「予想されておられたのですか?」
黒き影は、些か驚いた口調でそう問いかける。
するとゼスは、軽い口調で右の口角を吊り上げた。
「予想というよりも、他に選択肢がないと思っていたのが正直なところかな。我が国がキスレチンを攻めている今、この国を助ける余力を有しているのは何処かという話でね」
「……なるほど。確かにそう考えれば、他に手はないですな」
ゼスの言葉に納得したエミオルは、深々と頭を下げながら同意を示す。
一方、そんな彼の前に立つ少年は、その思考を既にその先へと進めていた。
「で、帝国に入った彼はどうしたんだい?」
「それがかなり厳重な情報統制が敷かれているようでして、残念ながら詳細は……ただ帝国軍内部で、まったく新たな編成が行われているとの噂が存在しています」
黒い影から告げられた情報。
それを耳にして、ゼスは小さく溜め息を吐き出した。
「ふぅん、このタイミングで……か。おそらくそれかな。彼はああ見えて、皇帝たちに気に入られてそうだしね」
「となると、此度も帝国は我らに牙を向けてきますか」
「おそらく、それが自然な彼らの役割なんだろうね。実にくだらない役回りだけど、彼らがそうしたいっていうのなら邪魔はしないさ。もちろん後悔だけは、させてあげるけどね」
それだけを口にすると、少年の口元にいびつな笑みが浮かぶ。
それを目の当たりにしたエミオルは、わずかに声を震わせながら、確認すべき問いを口にした。
「それで今後は如何なされるおつもりでしょうか? 一度本国に――」
「戻らないよ。色々と面白いことも分かったし、せっかくだから、もう少し彼らと行動をともにするつもりだ」
影の言葉を遮る形で、ゼスははっきりとそう告げる。
すると、黒き影は僅かに意外そうな表情を浮かべた。
「それは結構ですが……しかしあんな連中に、貴方の興味を引くことなどございましたか?」
「まさに今、十分楽しませてもらっているところでね。何しろ、彼らの邪魔をしなければ船の中を好きに見学して良いと言ってくれるお人好したちだ。おかげで、彼らの持っている機密文書の殆どを見させてもらっている最中でね」
その言葉は、中性的な美しさを備える少年の口から、何気ない出来事の一つのように紡がれた。
一方、その意味するところを理解した黒き影は、小さく首を左右に振り、小さく吐息を吐き出した。
「……相変わらずですね、貴方様は」
「ふふ、そうかな? 僕はただ、約束の範囲内で動いているだけさ。実際にまだ彼らには迷惑をかけていないのだからね。ともかくその御蔭で、とても興味深いことがわかったよ。そう、オリヴィアがカリブルヌスを持っていないということをね」
厳重に管理された機密書類に記されていたその事実。
それをゼスが口にするも、エミオルは思いもかけぬ内容故に、一瞬理解ができなかった。
「は……今なんと?」
「今現在、オリヴィア女王はカリブルヌスを所有していない。信じられない話ではあるが、どうやら事実のようさ」
「し、しかし、ブリトニアの王とはつまりカリブルヌスを持つ者。つまりあの神剣こそが権威の象徴と聞きます。にも関わらず、女王が持っていないとは……では、カリブルヌスは一体何処に有ると言われるのですか?」
「彼の手元さ」
その短い言葉は部屋の中に冷たく響いた。
途端、それが何を意味するのかを理解したエミオルは、信じられないとばかりに確認を口にする。
「で、では……あのカリブルヌスを有しているのが、まさに我らにとって忌むべき人物であると、そう言われるのですか?」
「おそらくね。それを確認するために、今しばらく彼らと行動しようと思っている。物を知らぬ名ばかりの枢機卿としてね。多分そうしていれば、自然と彼に出会えると思うんだ。この国の英雄と呼ばれる男、そう、ユイ・イスターツという名の調停者とね」
ゼスはゆっくりとその名を口にすると同時に、端正なその口元を歪ませる。
それは冷酷な暗殺者と名高いエミオルの心を震わせるほどに、あまりにも美しく、そして歪な笑みであった。
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