第2話 海峡を駆ける
快晴の空と澄み渡る青い海、そして海原を駆ける無数の船団。
それはまさに数百年ぶりにラ・マンティア海峡に広がる光景であった。
公式、非公式を合わせて極々小規模な商取引などは現在も続けられている。しかしながら、これほどの大船団がこの海を渡るのは、かつて暗黒戦争と呼ばれた時以来であった。
そしてそんな船団の中央には、他の船より一回り大きな帆船が存在する。
「船長、我らが船団で遅れているものはいないか?」
小さいながらも船内に用意された彼の執務室において、ブリトニア軍の司令官を務めるフランツは、椅子に腰掛けたまま引き締まった声を発する。
すると、この部屋へと報告に訪れた船長のワットーは、軽く頭を下げた後に、堂々と口を開いた。
「いえ現在のところ、我ら第一陣に問題ありません。予定通りル・エーグの港へ揃って入港できるかと思います」
「そうか。ならば結構」
予定通りの報告を受け、フランツは満足そうに一度頷く。そしてそのまま足を組むと、再びその口を開いた。
「まあ、いずれにせよだ、船のことは君たちに任せる。問題が無いようならば、このまま予定通り進めてくれ」
「了解いたしました」
そう返答を行うと、ワットーは颯爽と部屋から立ち去っていく。
それを見送ったところで、フランツ付きの副官であるマリアーヌは、ゆっくりとその端正な口を開いた。
「どうやら、ここまでは予定通りのようですわね」
「ああ。ここまではな」
マリアーヌの方へと視線を向けること無く、フランツは謹厳な表情を保ったまま言葉を返す。
普段は部下に対し愛想の良い上官にも関わらず、あまりにらしくない反応。それに違和感を覚えたマリアーヌは、上官に向かって疑問を投げかけた。
「何かご懸念でもありますでしょうか?」
「済まない、心配させたかな。いや、特に懸念するといったようなことではないのだ。ただ……」
渋い表情を浮かべながら言葉を途切れさせたフランツに向かい、マリアーヌは先を促す。
「ただ?」
「ただ、到着地で待っている連中が、本当に信頼できるか……そこに若干の不安があってな」
そのフランツの言葉を受け、マリアーヌはようやく上官の懸念を理解する。
「ル・エーグを実効支配しているのは、彼の国の四大大公であるブラウ公……ですか」
「そのとおりだ。能力あるものを要職につける。それを信念とする我らが女王陛下と異なり、彼らは血筋のみで国の未来を動かそうとする者たち。例え約定を交わしているとはいえ、そんな彼らと、本当に手を取り合うことができるものかと不安でな」
「確かに、もともと約定の文面にも、些か彼らのおごりのようなものを見受けました」
今回のクラリス侵攻にあたり、貴族院との間に極秘裏に結んだ協定。
その際に互いに交わした文面には、彼らクラリス貴族の鼻持ちならぬ傲慢さがにじみ出ていた。
一方、彼女が口にした文面を思い起こしたフランツは、ややうつむき加減のまま小さく溜め息を吐き出すと、ゆっくりとその視線をマリアーヌへと向ける。
「ああ、君の言うとおりではある。だが、上陸作戦を無傷で行えるという条件は、他の何ものにも代えがたいほど魅力的だ。如何に懸念があろうとも、そして連中の手が汚らわしかろうとも、握手は交わさねばならん。部下たちの命には代えられんからな」
「望まぬ握手もやむを得ない……ですか」
そう口にすると、マリアーヌも小さくため息を吐き出した。
元々一市民にすぎない彼女は、眼前のフランツに見出されて、今やこの大部隊の副官という地位まで引き上げられた者である。
それ故に、血筋を何よりも重んじるクラリスの貴族院の考え方は、彼女自身にとっては決して相容れぬものであった。
そうして狭い室内に沈黙が訪れたところで、突然部屋の扉がノックされると、外に待機させていた護衛兵の声が響く。
「フランツ司令官。あの……同行者として乗船されておられる少年がお見えなのですが」
一瞬、この場にはそぐわぬ単語を耳にして、フランツは眉間にしわを寄せた。だが、すぐに該当すべき人物を脳裏に浮かべると、彼は入室許可を与える。
「少年? ……ああ、彼のことか。どうぞ入ってもらいたまえ」
フランツのその声が部屋の外へと響き渡ると、一拍の間をおいた後に、船室の扉がゆっくりと開かれた。
そしてそこからは、この軍船とはまるで不釣り合いの華奢な銀髪の少年が姿を現す。
「やあ、船旅は順調なようだね」
「ええ、予定通り我が軍は進んでおります。それでいかがしましたかな、ゼス殿?」
フランツは目の前の少年に向かい、意識して対等に接するよう努力しながら、来訪の目的を尋ねる。
すると、少年はその頬を僅かにゆるめ、同年代の少女ならば一瞬で心掴まれそうになる笑みを見せた。
「いやぁ、我が国にはここまで優れた船はありません。ですので、せっかくですから、少し見て回らせてもらえればと思い、その許可を頂きに参ったのです」
「それはそれは。そうですね、現地に到着するまでの間でしたら、ご自由に見て回って頂いて構いませんよ」
努めて穏やかな表情を浮かべながら、フランツは目の前の少年に向かいそう答える。
すると、ゼスはまるで天使のような笑みを浮かべ、そして喜びの隠せぬ声で問い返した。
「本当に良いのですか?」
「ええ、ただ乗員の運行の邪魔になるようなことだけは、控えて頂けると助かります」
「もちろんですよ。フランツさん、いや、フランツ司令官ありがとうございます」
そう口にすると、銀髪の美少年は軽い足取りで部屋から退室していく。
そうして船室の扉が閉められた瞬間、マリアーヌの呆れたような声がフランツへと向けられた。
「司令官、いくらトルメニアの使者だからとはいえ、あのような子供に対して、遠慮し過ぎではありませんか?」
「言いたいことはわかる。だが、彼がトルメニアからの使者であることは、紛れも無い事実なのだ。だからこそ、無碍に扱うわけにはいかないのだよ。見た目が如何に子供であろうとな。それに……」
「それに?」
いつものようにフランツの言葉が途切れたのを受け、マリアーヌはその先を促す。
すると、フランツはゆっくりと首を左右に振った。
「いや、たぶん私の思い過ごしだ。気にしないでくれ」
そう口にすると、フランツは足を組み替え、その後にゆっくりとため息を吐き出す。
そんなフランツの姿を目にして、マリアーヌは思わず眉間に手を当てた。そしてしばし悩んだ末、目の前のブリトニアの柱石たる上官の内心を慮り、彼女はそれ以上その話題を口にするのを辞める。
代わりに彼女は、たった今出て行ったつかみどころのない不思議な美少年の名をその口にした。
「トルメニア最年少の枢機卿、ゼス・クリストファー……か」
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