第10章 ブルトーニュ編
第1話 翼を得て
軍の出立式を控えたまるでお祭りのような喧騒。
それが帝都の外れにある帝国軍第二駐屯地の四方八方で生じていた。
普段は謹直で物静かな帝国軍人も、直前に行われた極秘発表を受けて、まるで熱に浮かされたかのように一人の男の名を口にする。
そう、先だってひっそりとその姿を表し、内々にこの国の皇女との婚約が発表された一人の男の名を。
英雄ユイ・イスターツ。
それはかつて最大の敵と目され、そして後に彼らとこの国を救った英雄の名である。
実際の所、雲隠れしていたこの数年の間も、帝国軍人にかぎらずこの国の人々は絶えずその存在を噂し続けていた。
だが思いもよらぬ命令とともに、突然姿を消したはずの他国の英雄が彼らの指揮官に就任したと発表されると、如何に帝国の軍人であろうとも、とても心境穏やかではいられなかった。
一方、話題の中心である当人は、駐屯地にある最も背の高い本部施設の最上階から、そんな慌ただしい兵士たちの動きを、まるで人事のようにぼんやりと眺めていた。
「英雄殿。帰ってきてそうそうだが、ミラニールと比べてこの帝都は如何かね?」
突然背後から掛けられた聞き覚えのある声。
それを受けて、ユイはゆっくりと後方を振り向く。
「リアルト陛下……」
「ふふ。久しいな、英雄殿」
リアルトはそう口にすると、そのままユイの隣まで歩み寄る。そして軽くユイの肩に手をおいた。
「ご無沙汰いたしておりました」
「ああ、本当にご無沙汰じゃのう。前回は最後でまんまと逃げられたからな。しかしあれは初めての経験じゃった。余が真に欲するものを手に入れ損ねたのはのう」
苦笑を浮かべながら、リアルトは軽く肩をすくめる。
その仕草を目の当たりにして、ユイは軽く下唇を噛みながら二度頭を掻いた。
「そうですか……ですが、結局こうしておめおめと貴国を頼りに来ました」
「それは情勢の変化というものじゃよ。だいたい英雄殿にその気がなければ、そのまま隠遁することも可能であっただろう? 結局は余自らの力で、手に入れられなかったに等しいものじゃ」
「そうでしょうか?」
リアルトの見解を耳にして、ユイは疑問を口にする。
すると、目の前の老人は軽く右腕を突き出すと、ゆっくりとその拳を握りしめた。
「ああ。余は欲するものをこの手で掴みとる。それを信条にこの老年になるまで生きてきた。見渡すかぎりのこのレンドの大地も、有能な家臣達も、そして愛する妻たちもな」
そう口にしたところで、リアルトはニコリと微笑む。そして目の前の男に向かい、改めてその口を開いた。
「それで英雄殿……いや、婿殿。ミリアとは会ったのかね?」
「ええ、涙を流されましたよ」
「ふふ、まあ失踪した想い人が突然帰ってきて、そしてすぐに出征する。あやつの気持ちもわからんでもない。しかし、女を泣かせるとは……いや、我が娘を泣かせるとは、お主は本来なら極刑ものじゃな」
皇帝は軽く笑い声を上げながら、ユイへとその視線を向ける。
そんなリアルトの瞳は、その表情と異なり一切笑っていなかった。
「全くもって、言葉もないところです」
「一応、反省はしておるようじゃな。ならばいい。できればあの子を幸せにしてやってくれ」
「陛下……」
「結局だ、どんな権力を持つ皇帝であろうとも、子の前ではただの親にすぎんものだよ」
皇帝は視線を遠く離れた帝都の街並みへと移しながら、苦笑交じりにそう口にする。
隣に立つユイは、同じように帝都の街並みを眺めやりながら、呟くかのように言葉を発した。
「そういうものでしょうか。私には子がおりませんのでわかりませんが」
「それはそうだ。だいたい英雄殿に隠し子が居れば、余もミリアのことを考えなおさねばならんところじゃ。とはいえ、正直なところ懸念は少しばかり残っておるがな」
「懸念? 何のですか?」
「ふふ、隠し子はおらんだろうが、貴様を狙っておる女性がおると聞く。例えば、クラリスの至尊の座を頂いている女性とかのう」
リアルトはそう口にすると、意味ありげな笑みを浮かべる。
ユイは頭を掻きながら、すぐにその口を開こうとしたが、そんな彼の発言は突然後方から発せられた一人の男性の声にかき消された。
「親父殿。私の個人的な調査によると、どうやら他にも女がいるみたいですよ、そいつにはね」
「ノイン!」
発言者へと視線を向けるなり、ユイは抗議をするかのようにその名を呼ぶ。
だが動揺を見せるユイとは対照的に、この国の皇帝は高らかと笑った。
「はは、英雄色を好むか。まあ基本的には結構なことだ。ただしミリアを最優先にしてもらわねばならんがな」
「いや、何か色々と誤解があるようですが……」
困惑した表情を浮かべながら、ユイはそう口にする。
すると、リアルトは急に真剣な表情を浮かべなおすと、ユイの耳元に顔を寄せて、小さく呟いた。
「ふふ、まあいずれにせよだ、基本的に余とその方の思惑は一致しておる。英雄殿、まずはブリトニアを、次にトルメニアを……そして修正者を排除してみせよ」
「な……リアルト皇帝。あなたはどこまで……」
リアルトの発言の中に含まれていた一つの言葉。
それを耳にしたユイは、驚きを隠すことが出来ず、思わず目を見開く。
そんな彼の反応を目にして、リアルトは満足気に笑うと、ニンマリと笑みを浮かべてみせた。
「ふふ、余はただの人間じゃ。だが、ただの人間だからこそできる戦いもある。その方と初めてあった時はその存在を知らなかったが、余も時間を無為に過ごしたわけではないということじゃな」
「……まったく、貴方にはかないませんよ。これだから御老人は」
若いままの姿を保つ男、髭を蓄えた偏屈教授、そして眼前に立つ皇帝リアルト。
未だ若者の決して及ばぬところにいる老人たちの顔が次々と脳裏に浮かび、ユイは思わず首を振りながら深い溜め息を吐き出した。
「まだまだその方ら若い者達に負けてやるつもりはないからのう。そこのところ、よく覚えておけ、ノイン」
「はい。でもいつか実力で、貴方を越えて見せましょう」
話を向けられたノインは、皇帝である父親に対しまったく怯むこと無く、はっきりとそう言い切る。
その返答を受け、リアルトは満足気に大きくうなずいた。
「ふむ、その意気や良し。さて、それでは余は一足早く、出立式の会場に向かうとしようかのう。そうそう、会場ではろくに話せんだろうから、先に言っておこう。英雄殿、ブリトニアを排除した後に正式な婚約発表を行う。この地で大々的に行っておくからのう。戻って来た際は、楽しみにしておくことじゃな」
ニンマリとした笑みを浮かべながらそう口にすると、リアルトは年齢を感じさせぬしっかりとした足取りで、そのままバルコニーから立ち去っていった。
そうして、その場に残されたユイは、深い溜め息を吐き出す。
「はぁ……まったくあの人は」
「ユイ、お前のお迎えがきたようだ。ともかく、幕は上がったんだ。こうなれば、貴様の目指す未来に向けて最善を尽くすんだな」
リアルトと入れ変わるように姿を表した一人の士官をその目にして、ノインはユイに向かってそう告げる。
すると、目の前に広がる帝都の空に向かって、ユイは呟きを発した。
「目指す未来……か」
自らが口にした言葉に思わず苦笑しながら、ユイは思わず左右に首を振る。
そして彼はゆっくりと後方を振り返ると、彼を迎えにきた顔なじみの士官に向かって、苦笑を浮かべながらその口を開いた。
「さて、これだけお膳立てされたからには動くとしようか。というわけで、今回もよろしく頼むね、ロイス君」
歴史上に燦然と輝き、後にイスターツ軍と呼ばれることになる一つの軍隊。
それはかつて指揮官の仇敵であったケルム帝国にて、ここにその産声を上げることとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます