第9話 朱の実力

 キスレチン共和国の北地区に存在するコロセウム。

 かつては見世物として、奴隷と虎との戦いや、奴隷同士の戦いなどが連日のように開かれていたこの円形闘技場は、例年にない熱気に包まれていた。


 この日のために、キスレチン政府は西方で最も有名な雑技団であるプレッセオサーカスを招きその華やかなる技の数々を、そして大陸中央の魔法技団であるカラトリアル魔技士を招き、空に華々しい魔法花火を打ち上げていた。


 だが、観客のお目当ては彼らではなかった。


 この国の代表であり、そして英傑と名高いウフェナ・バルデス。

 彼の戦いをその目にするため、民衆はこの地へと押し寄せたのである。


 ただ一点だけ、観衆にとっては残念な発表が行われた。


 それは大陸西方で最強と噂される隣国の陸軍次官の鼻っ面を、我らが英傑であるウフェナが叩き潰すのをその目にすることができないということである。

 つまり公明正大な抽選の結果、ウフェナの対戦相手は何処の馬の骨かわからぬラインドルの田舎者となったのであった。


 この悲しむべき事実が発表された瞬間、出場者の控え場所を兼ねたコロシアム内の入場通路まで届く激しいブーイングが、会場内の至る所から発せられた。


「ふふ。どうやらお互い歓迎されていないようだね、仮面のお兄さん」

 鳴り止まぬブーイングの最中、まるで透き通るかのように耳へと届いたその声。

 アインはゆっくりと後方へ視線を移すと、そこに褐色の肌を有する一人の女性が立っていることに気づいた。


「あんたと同じ今回の模擬戦での嫌われ者、クロスベニアのサマンサ・ミルハさ」

 両腕や腰に付けた円形の金属輪をカチャカチャと鳴らしながら、サマンサと名乗る女性はアインのもとに歩み寄るとゆっくりと右手を差し出す。

 だがアインはそんな彼女に向かい、マスクから露出している口元をほんの少しだけ歪ませることで、返答代わりとした。


「つれないねぇ……まあ無感情なお人形さんではなさそうだから、それがわかっただけでもよしとするか。いずれにせよ、お互い本命の餌扱いされてる身だ。気楽にやろうや」

 サマンサはカラカラと笑いながら、きっぷの良い口調でそう口にする。

 そして特に気にした素振りを見せることなく、アインの前で一度軽く伸びをし、そのまま愛用の大型な円形武器を握りしめ直した。


「じゃあ、お先に行ってくるよ、仮面のお兄さん。本命さんを引っ掻き回して盛り上げてくるつもりなんで、後でやりづらいなんて苦情を言わないでくれよ」

 そう口にすると、サマンサは軽く腕をあげ、そのまま入場口をくぐる。

 すると、先ほどのブーイングは一変する。

 それは遠目で見てもわかるほどの妖艶な美女が、見慣れぬ武器を片手に出場してきたためであり、そして明らかに危険な香りを漂わせる赤毛の剣士が姿を現したためであった。


「ふむ、君がクロスベニアの代表かな?」

 ほぼ同時に、対側の入場口から会場内へと姿を現した赤髪の男。

 彼は細い目をサマンサへと向けると、そう問かける。


「ああ。あたしがクロスベニア代表のサマンサさ。相手がウフェナでなく、しかも女だから不満かい?」

「いや、そんなことはないさ。残念ながら、怒らせると怖い女性を何人も知っているものでね」

 赤髪の男はそう口にすると、両手を左右に開く。

 そんな男性の仕草を目にしたサマンサは、不敵な笑みを浮かべながら軽く舌打ちした。


「ちっ、残念だな。あたしとしては、女だからって、油断してくれてよかったんだが……まあ朱のアレックスにそんな期待は無意味か」

「戦う相手には、いつだって敬意を失うつもりはありませんよ。もちろん貴方が本気で挑んでくるならばですが」

「まさに戦闘狂らしい言葉だね。確か今ではクラリスの陸軍省次官様と聞くけど、どうやら噂通りで安心したよ」

 アレックスの内側から漏れだすまるで冷気の如き底冷えする殺意。

 それを真正面から感じ取りながらも、サマンサは軽口を叩くとともに右の口角を吊り上げてみせた。

 一方、そんな彼女の言葉を耳にしたアレックスは、軽く溜め息を吐き出すとともに苦笑を浮かべる。


「次官……ですか。いえ、順序が逆なんですよ。剣士である僕が、たまたま次官をやっているだけ。つまりはそういうことです」

「はは、まあその言い分はなんとなくわかるよ。あんた、頭がどこかおかしいそうだし」

「頭がおかしい? ふふ、それも結構。あとはこいつを通してわかりあうとしましょう。お客さんたちも待ちきれないようですしね」

 そう口にすると、ゆっくりとアレックスは鞘から自らの剣を抜く。


 全く隙のないその構え。

 それを目にして、思わずサマンサは息を呑んだ。


「なるほど……朱の死神。大抵は噂ってのは大げさに伝わるものだけど、嘘偽りなしってところか。はっ、面白い」

 サマンサは背中に冷たい汗が一滴流れるのを自覚した。

 だが無頼を是とする自らの生き方と誇りに賭けて、彼女は恐れという感情を思い切り笑い飛ばす。そして内部に取っ手の着いた円形武器を握り締めると、一気にアレックス目掛けて駆け出した。


「ふむ……接近戦用の巨大チャクラムですか」

 通常は投擲して使用される全周が刃となった円形武器。

 だが、サマンサのそれは、通常のものより二回り以上大きく、内部に取っ手が付けられ、接近戦様にカスタマイズされていた。


「剣を極めたと名高い朱であっても、武器の形状は変えようがない。さて、こいつより小回りの利かないその剣で、あたしの連撃をさばききれるかね!」

 アレックスの懐に飛び込むかのようにサマンサは接近すると、迷うこと無く右手を一閃する。

 だがそんな彼女の初撃を前にし、アレックスは軽く右の口角を吊り上げた。


「うん、速い。実に素晴らしいね」

 アレックスはサマンサの一撃が放たれるまさにそのタイミングで、ほんの半歩だけ後ろに下がる。

 そしてまさにその次の瞬間、彼女の一撃は彼のまさに眼前ぎりぎりの距離で空を切った。


「な……嘘だろ。まだ一撃目だよ。なのに、完璧にこいつの間合いを把握したってのかい」

 彼女の驚愕。

 それは初撃にも関わらず、完璧に見きられた上で、余裕を持って自らの攻撃を躱されたことである。


 普通ならば、余裕を持って大きく下がるか、手にしている剣で受け止めるべき状況であった。もちろん朱い死神がその行動に出る事を踏まえ、サマンサは返しとなる二撃目を振るう心づもりをしていたのである。


 しかしながら、完全に前方に重心を残されたまま紙一重の距離で躱されたことにより、逆撃を警戒して大きく飛び下がる羽目になったのは彼女であった。


「君の体格、重心の動かし方、そして手にしたチャクラムの形状とサイズ。その軌道や動きを予測するには、十分な時間があったからね」

「十分って……はは、なるほど。あんたはやっぱり噂通りの化け物だ。だけど、化け物が相手だからって負けなきゃいけないなんて決まりはないんでね!」

 そう口にした瞬間、サマンサは自らの右耳に左手を動かす。そして耳たぶに付けられていた円形のイヤリングを手にすると、そのままアレックスの間合いへと飛び込んだ。


「こいつなら!」

 サマンサは右手の巨大チャクラムをアレックスへ叩きつけるタイミングで、ほぼ同時に右耳に付けていた大きなイヤリング形状の小型チャクラムを左手で投擲する。



「これは……面白いね」

 巨大チャクラムの斬撃はともかく、近距離での投擲攻撃はアレックスの予想に存在しなかった。

 それ故に、彼は斬撃を大きく後ろに飛び退りながら回避するとともに、自らの剣で投擲されたチャクラムを叩き落とす。


 しかしその瞬間、彼は間髪入れずに眼前からさらに三枚のチャクラムが自ら目掛けて投擲されたことに気がつく。


「なるほど、指の間に挟んでの同時投擲ですか」

 剣を振るった直後であったこと、そして予期せぬ追撃であったこと。

 それらが重なったが故に、アレックスは剣で防ぐことを諦めると、半身になりながら側方へ飛ぶ。

 そして次の瞬間、観客席から悲鳴が上がった。


「ちっ、かわされたか」

「実にユニークな攻撃ですね。接近戦の中で、身につけていた武器を投擲するという考えが素晴らしい。ですが、一つお尋ねします。私の後方にいる観客の皆さんに被害が及んでしまいますが、本当によろしいのですか?」

 やや困った表情を浮かべながら、アレックスはそう問いかける。


 彼等が戦っている舞台は周囲の観客席よりやや低く掘り下げられている。

 だが、客席と舞台との距離が遠くならないよう、そこまで周囲の壁は高くはなかった。つまりサマンサの小型チャクラムの軌道がそれれば、簡単に客席に飛び込む事となる。


「はは。さっきのは、ちゃんと角度をつけてぎりぎり観客に当たらないように投げたさ。ただし、次からあんたがかわした場合、不幸な観客が出てしまうかもしれないね」

「ほう……脅しですか。僕にそんなものが役に立つと?」

「さあ、それは知らない。何しろ対峙しているのは、悪魔とか死神とか言われている人間だからね。だけどあんたを含め、正規の軍人さんってのは良い格好をしたがるものだろ」

 それは極めて感情を抑制した言葉ではあった。

 だが彼女の眼差しは、アレックスに向かいその内心を余す事無く伝える。


「ふむ、どうやら正規の軍人がお嫌いのようですね……しかしおかしいですね。貴方は軍の人間ではないのですか? この模擬戦の代表は、各国の軍人という決まりだったはずですが」

「はは、昨日付けで明日まではあたしは軍人さ。二度と軍には所属しない約束でね」

「なるほど、ルールの隙間ですか。しかし軍人嫌いが軍人にさせられるとは皮肉なものですね」

「だから嫌いなんだよ。軍人とか、お偉いさんとかっていうやつはね。表向きは格好をつけながら、やましい事は全て裏でやり、挙句の果てに他人に責任を押し付ける」

「まあ、あまり否定材料はありませんが、だからといって無関係な市民を巻き込む理由にはなりませんよ」

 アレックスの口調はまったくもって平静であった。

 その全く動じる気配のない様相に、サマンサは僅かないらだちを覚えつつ、言葉を吐き捨てる。


「人の生死を愉悦混じりに観戦しに来ている連中だ。多少痛い目をみたところで、自業自得ってやつさ」

「ふむ、そう言われてみればそんな気がしてくるから不思議なものですね。ですがまあ、さしあたって問題ないか」

「問題がない? 何の事だい?」

「いえ、どうせ被害なんて出ませんから。貴方が観客ではなく、あくまで私を狙う限りは」

「……さっきは飛んでかわしたくせに、いい度胸じゃないか。なら、せいぜい自分の口にしたことの責任は取りなよ!」

 そう口にするなり、サマンサは巨大チャクラムを地面に放り投げると、腰に備え付けたチャクラムを左右の指の間に収める。そして彼女は右、左と四枚ずつをアレックス目掛けて順に投擲した。


 先ほどは一枚と三枚の連撃。しかし今回はその倍に等しい枚数であった。

 アレックスの後方に当たる観客席で見守っていた市民たちは、チャクラムが飛んで来る可能性を危惧して慌てて逃げ出す。


 一方、そんな動揺著しい客席と異なり、八枚の小型チャクラムを向けられた当人は、まったくもって涼しい顔をしていた。

 もちろんアレックスとて、自らに迫り来る八枚のチャクラムの軌跡を見切り、自分が回避すればその内の少なくとも二枚が、本当に観客席へと飛び込むことを予期している。


 しかしながら、そんな想定は彼にとってまさに無意味なものでもあった。


 何故ならば、全てのチャクラムはあくまで観客を狙って投げられたものではなく、自らへと向けられたものである。

 つまり彼にしてみれば、極めて簡単な対処を取りさえすれば、全ての問題が解決することを意味していた。

 そう、ただ剣を二閃して、たった八つのチャクラムを迎撃するという、簡単な対処で。


「八度に分けて投げ分けたわけじゃないから、軌道はほぼ同じ……か。少し期待した分だけ、これじゃあ肩すかしですかね」

 全くなんでもないことのように、アレックスは自らの剣を一閃させ、サマンサの右手から放たれた最初の四枚をなぎ払う。そして返す刀で残りの四枚を振り払った。


 そして次の瞬間、かつてチャクラムであった十六枚の半円状のゴミが、地面へと突き刺さっていった。


「ば、馬鹿な……四枚ずつを同時に、しかも完全に均等に裁断するなんて……ありえない」

「有り得なくはないですよ。こんなものはただの大道芸のようなものです。貴方のその投擲と同じでね」

「あたしのチャクラムが大道芸だって!」

 アレックスの発言を耳にしたサマンサは、侮辱されたと感じ顔を真っ赤にする。

 しかしその怒気を向けられても、アレックスはただ苦笑するばかりであった。


「ええ。先ほどプレッセオサーカスの方々が、様々な技巧を披露されていましたよね。僕は雑技などというものには疎いですが、こんな見せかけだけの投擲はただの雑技だ。正直言って、戦場では使い物になりませんよ。にも関わらず貴方を急遽軍人に仕立てあげたということは、クロスベニアもどうやら人材不足のようですね」

「ば、馬鹿にするな! あたしのこの技は、軍の誰も防げなかったんだ」

「いえ、貴方のところの軍を基準にされても困ります。少なくとも、同じく人材不足に悩む我が国であっても、こんな雑技を簡単に防げる人間はあと二人……今は一人ですが、他にもいますから」

「畜生、ふざけやがって!」

 そう叫んだ瞬間、サマンサは腕に備え付けていたチャクラムを迷うことなく手にし、そして全力で投擲した。


「ふむ、もうお隠しになられている芸はなさそうですね。では、面白いものを見せてもらったお礼に、僕も一つ芸をお見せするとしましょう」

 迫り来るチャクラムを前にしながら、アレックスは全く動じる様子を見せずそう言い放つ。そしてそのまま先ほどとはわずかに異なる軌道で剣を一閃させ、強引にその軌道を空へと向けた。


 その光景は、まさにサマンサにとっては悪夢に等しいものであった。


 一度、二度、三度……彼女が次々と投げはなったチャクラムのその全ては、眼前の涼しい顔をしたバケモノにより、ほぼ同じように次々と頭上に向かって打ち上げられていったのである。


「おや……もう、全て投げ切ってしまわれましたか?」

 アレックスはそう口にすると、不敵に笑う。

 一方、全てのチャクラムを使い果たしたサマンサは、目の前で起こったあり得ぬ出来事に、その口元を震わせずにはいられなかった。


「そ、そんな……ありえない……」

「はは、驚いて頂けたようで何よりです。ですが、今のだけではただの剣撃。というわけで、そろそろ頃合いですね」

 そう言葉を口にするなり、アレックスは自らの剣をまっすぐ天に向かって突き立てる。

 すると次の瞬間、先ほど天へと打ち上げたチャクラムが落下してきた。

 それもまるで輪投げのピンを狙うかのように、次々と彼の剣に収まる形で。


 途端、これまで固唾を呑んで二人の動向を見守っていた観客席の民衆たちは、異常なる朱い死神のその技量に対し驚愕と感嘆のあまり完全に静まり返ってしまった。


「おかしいですね。てっきり皆さん喜んで盛り上がってくれるものだと思っていましたが……」

「はは……あたしにはわかるよ。客達の気持ちが。あたしのチャクラムが大道芸なら、あんたのはただの悪魔の技さ。あまりに規格外過ぎて、笑うことさえ出来ないんだよ」

「そうですか。ふむ、士官学校時代の友人達に、ユーモアのセンスがないとは言われたことがありますが……やはり人にお見せする芸というものはなかなかに難しいものですね」

 そう口にすると、剣を軽く振るってチャクラムを地面に捨て、そのままアレックスは一度大きな溜め息を吐き出した。


「どんな連中か知らないが、あんたの友人達に同情するよ。だけど、ここまでコケにされて、あたしとしてもただ引き下がるわけに――」

「ああ、ちょっと今は動かれないほうがいいですよ」

 自らの誇りにかけて、アレックスに向かい飛びかかろうとしたまさにその刹那、突然アレックスの口から制止の声が放たれた。

 そして次の瞬間、空より高速で落下してきた物体が、サマンサの鼻先をかすめると、地面へと突き刺さる。


 サマンサは表情を引き攣らせながら、そっと左手の人差し指で鼻先を撫でる。そこにはほんの僅かだけ、赤い液体がにじんでいた。


「ふむ、当たってしまいましたか。ぎりぎり当たらないよう狙ったつもりだったんですがね。まあ、貴方の挙動を全て読めなかったのが反省点といったところでしょうか。もし僕の友人ならば、相手の行動を読むんじゃなく、上手く誘導させるべきだとでも言ってくるところでしょうね」

 アレックスは一つだけ別軌道に打ち上げていたチャクラムの落下をその目にして、残念そうにそう口にする。

 その彼の言動を耳にしたサマンサには、もはや一歩たりと、眼前の赤い髪の死神に向かって前へ踏み出す勇気が残されていなかった。


「格が……いや、あまりに次元が違いすぎる。認めるよ、このあたしの負けさ」

 血なまぐさい死闘が期待されていた模擬戦。

 その第一試合目は、こうしてただ鼻頭にかすり傷一つが生まれるだけで決着を見ることとなった。

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