第9章 キスレチン編

第1話 夏の雫

 キスレチン共和国。

 それは現在、大陸西方において二大強国とも呼ばれる、一大国家である。


 かつて大陸西方には、キエメルテ共和国と呼ばれる巨大国家が、その歴史上に存在していた。

 彼の国は、当時の大陸内でも稀有な民主主義国家として知られ、その理念に対する頑なさと、制度疲弊による腐敗、そして何より大陸中央諸国との間で長期に繰り広げられた永年戦争と呼ばれる戦いの末に、いつしか歴史の中にその存在を消していく。


 そして現在、かつてキエメルテ共和国と呼ばれた広大な国家は、様々な内部対立と小競り合いの末に、キエメルテ共和国をキスレチン共和国、クロスベニア連合、ホスヘル公国と呼ばれる三カ国へ分離するに至っていた。


 中でも、旧キエメルテの遺産やその国土の大半を継承したのが、今回西方会議を主催するキスレチン共和国である。


 北はアリアンテ山脈、そして南には白海と呼ばれる大陸西方国家の多くにつながる海を有する国家。だが、その主要都市部は山岳部ではなく半島部分に集中していることから、その国家全体の形状と異なり、彼の国は半島国家などとも揶揄されることがあった。

 もちろん声を大にしてそうからかうのは、彼の国の宿敵たる帝国の者たちであったが。


 ともあれ、大陸西方においては近年その勢力を伸ばしてきたケルム帝国と、キエメルテの遺産を継承したこのキスレチン共和国は、二大国家として現在はその名が上げられる事が多い。


 そしてこの二カ国同士の不仲はもはや隠しようがなかったが、幸運なことに絶妙なバランスでお互いの国力が均衡し、これまでは全面対立を招くことはなかった。


 しかしながら、ケルム帝国は直近の二度の戦争を経て、少なからぬ国力の疲弊を招いているのが現状である。

 また、キスレチン共和国も大規模な政変が起こり、順風満帆とは言い難いのが実情であった。


 これは昨年度に行われた選挙にて、これまで国家の中枢を担っていた自由都市同盟に怨敵たる帝国との内通及び賄賂の疑いが発覚したことに端を発する。

 実際のところ、それはとある一人の老人と一人の黒髪の男によって仕組まれた巧妙な罠であったが、彼等は結局国民の疑念を払しょくすることがかなわず、選挙において第一党を保持しながらも政治的な駆け引きの末に下野することとなった。

 そうして、今日のキスレチン共和国の行く末を担うのは、第二党である民主改革運動と第三党である統一宗教主義戦線の連立政権である。


 そんな大陸内の勢力バランスが崩れようとする最中、キスレチン共和国においては、初めて自由都市同盟以外が主催する西方会議を、ここに開催しようとしていた。



 そのような西方会議へ参加するため、この時期に彼の国へと向かういくつかの集団。

 その中の一つに、大陸西方において最も北に位置するラインドル王国から出立した、とある一団が存在した。





「あのさあ……移動中くらいこれを外させてくれないかな? 暑いし、蒸れるし、正直言って最悪なんだけどさ」


 集団のほぼ中央に位置する一台の馬車。

 その中には、きらびやかな正装を身にまとった青年と、顔の上半分をドミノマスクによって覆った金髪の男が存在した。


「いいえ、ダメです。ここはもう、キスレチン共和国の中なんですよ。どこに諜報員が隠れているかわからないんです。用心に越したことはありません」

「いや、確かに顔を隠したほうがいいかも知れないと言い出したのは私さ。でもね、それはあくまで西方会議が始まってからの話で、こんなところから準備をしなくてもいいだろう」

 自らの提案に後悔している男は、わずかに口を尖らせながらそう抗弁する。

 しかし目の前の青年はあっさりと首を左右に振ると、呆れたようにその口を開いた。


「もう、すぐそうやって楽しようとするんですから。貴方の無茶なお願いは聞いたんですから、僕のお願いもこれくらいは聞いてください」

「いや、うん。それに関しては何も言えないけどさ……」

 アインは困ったようにそう口にすると、ゆっくりと頭を掻こうとする。

 しかし手を動かした先にあるものが、自らの自毛ではなくかつらであることに気がつくと、ずれたらまた小言を言われるという意識からそっと腕を降ろした。


「ともかく、御自身がおっしゃったように、貴方の存在は我が国の切り札でありアキレス腱でもあるんです。いくら警戒しても、十分ということはありませんよ」

「それはわかっているよ、カイル。でもさ……この季節に南に向かうんだよ。にも関わらず、これじゃあ会議が始まる前に疲れちゃうよ」

「なんというか、貴方って用心深いのかそうじゃないのか、たまにわからなくなりますよ」

 ぐったりとした姿で情けないことを口にするアインに向かい、カイルは困ったような表情を浮かべながら、そう口にした。


 この旅路の中で何度も繰り返されたやりとり。

 もはや両手の指の数では数えられぬ同じ会話が馬車の中で交わされたタイミングで、突然外から扉をノックする音が響き渡った。


「何かあったのでしょうか?」

 走行中であったということもあり、カイルは首を傾げながらドアに手を伸ばしかける。

 しかし自らの立場を理解していたアインはそんな彼を制し、そして外に向けて軽く扉を開けた。


「おや、英雄殿自らとは痛み入るな」

 開けられた扉の隙間から発せられた声。

 それは今回のキスレチンへの旅の責任者である、マルフェスのものであった。


「さすがに公務の最中だ。国王に雑事をさせて、私がのうのうと座っているわけには行かないだろう?」

「確かに。それじゃあ、護衛役としては一日で首だわな」

 ゆっくりと馬を並走させながら中を覗きこんできたマルフェスは、アインの発言に深く頷くとニンマリとした笑みを浮かべる。

 だがそんな彼の表情を目にしたアインは、先程までより一層疲れたかのような声を発した。


「で、護衛隊長さん。一体、中になんの用だい?」

「そんな不満気な顔をするなや。仮面の上からでも、はっきりとわかるぞ」

「まあ実際に不満なんだからね」

「はは、まあ天気ばかりは文句を言ってもどうしようもないさ」

 この夏という季節に加え、閉めきった馬車の中にいることを思うと、マルフェスは多少なりともアインに対し同情を覚えないわけではなかった。

 しかしながら今回の護衛の責任者としては、安全面から言っても何もしてやれることはなく、ただ苦笑を浮かべるのみであった。


 一方、目の前のおじさまたちの会話を聞いていたカイルは、二人に話をさせているとまったく内容に進展が見られぬ可能性に危惧する。

 それ故に、コホンと軽く咳払いすると、マルフェスに向かい本題を話すよう促した。


「それでマルフェス、一体何のようですか?」

「ああ。失礼しました、カイラ様。報告ですが、まもなく目的地となる首都ミラニールへ到着致します」

「そうですか……ほら、やっぱり準備しておいてよかったでしょ」

 マルフェスの発言を受けるなり、カイルはやや勝ち誇った表情でアインへと向き直る。

 しかしながら、話を向けられた当人は、まったく異なる見解を敢えて提示した。


「いや、それは違うよ。言い換えれば、ここまでは外してても良かったということじゃないか」

「はは、転ばぬ先の杖ってね。お前さんの好きな東方の言葉にあるだろ、そういうの」

「マルフェスさん。私は別に東方好きじゃないさ。母親がそっちの出だというだけでね」

 横からさらに茶々を入れてきたマルフェスに対し、アインは困ったような表情を浮かべながら、彼の言動を否定する。


「へぇ、お前さんが普段腰に下げているものを知っていたから、てっきり東方好きだとばかり思っていたな」

「だから、本当に好きでも嫌いでもないさ。実際に行ったこともないしね。それより、私のアレはちゃんと持ってきてくれているんだろうね」

 いつもなら自らの腰に必ず帯びていた愛刀。

 それが今、彼の腰元にはない。代わりにそこに差さっているのは、一本の細いレイピアであった。


「ああ、もちろんだ。あの馬鹿げた量の実験機材と一緒に、後衛がちゃんと運んでいる」

「頼むよ。本当にアレだけは預けたくなかったんだからさ」

 刀なんて備えていたら、あっさりと正体が看破される。

 そう発言したのは、現在先頭で周囲を警戒している女魔法士のレリムであった。


 それから二人の間では様々な比喩とロジックによるディスカッションが繰り広げられ、最終的には押しの強い士官学校の女教授の方へと軍配は上がる。

 そうして、某国の軍人時代に作戦上の都合で後輩に預けて以来、アインの手元から彼の愛刀が離れるという状況が生み出されていた。


「はは、それくらいは信頼してくれ。預かるといったからには、必要な時が来るまでは俺達が責任をもって管理する」

「はぁ……任せたよ、ほんと」

「おう、大船に乗ったつもりでいな。ともかく、もうすぐ街に着くからそこからは少し忙しくなる。最後の休暇をゆっくりとっておくんだな」

 そう口にすると、マルフェスはアインに向かってニコリと微笑み、走行中の馬車の扉を外から勢い良く閉めた。


「おかしい……当初の私の予定では、こんなはずではなかったんだ。どうしてこんなことに」

 そう口にすると、アインはかつらの上から頭を抱える。すると、わずかにかつらが彼の頭の上でずれた。


 そんな彼の姿を目にして、カイルは申し訳ないと思いつつも、目の前の英雄の滑稽な姿に思わず吹き出してしまう。

 アインはそんな国王に対し恨めしそうな視線を向けつつ、肩を落としながら大きな溜め息を一つ吐き出した。

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