第23話 覆水を盆へと返らせる為に

 深い森の中を一人の黒髪の男が歩いていた。

 木々の間からわずかに漏れる月明かりだけが、彼の歩む道をわずかに照らす。

 そんな暗き森の奥で、突然彼は意外そうな表情を浮かべると、その足を止めた。


「おや?」

 彼の視線の先。

 そこには今や彼にとって見慣れた古びた館が存在した。

 ただ普段と明らかに異なるもの。それは無人のはずの館の窓から、室内の明かりがわずかに漏れていた事であった。


 一瞬、男は戸惑いを覚える。

 だがこの場で考えても埒が明かないと結論付けると、彼は一度頭をかくとともに再び歩みだした。


「ただいま」

 入り口の扉をそっと押し開けた彼は、腰の刀に手をやりながら、あえて気の抜けた声を発する。

 すると、冷たい声が彼に向かって返された。


「遅かったわね」

「おや……君だったか」

 散らかりきった玄関ホールの中央部にあるソファーに腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいる黒髪の女性をその目にして、黒髪の男は苦笑を浮かべる。


「これを取りに来ると思っていたから、ここで待っていたのよ」

 小柄な女性はそう口にすると、手にしていた革袋を黒髪の男目掛けて放り投げる。


「はは、お見通しか」

 少し重みのある革袋を片手で受け止めると、男はゆっくりとその革袋を開ける。

 そして中に入っていた四つの赤い水晶を取り出した。


「結局作り出せたのは六つ……か。欲を言えば、あと二つ三つは作っておきたかったところだね」

「あなたがもう少しまじめに抽出作業を行っていたら、作れていたと思うけど?」

 黒髪の男の溜め息混じりの発言を受け、目の前の女性はやや呆れたように言葉を返す。


「残念ながら運び込まれた魔石は全て使い切っているのさ。これ以上、クレイリーを酷使する訳にはいかないだろ」

「彼のことを思うなら、あの程度の相手に対し無駄に使うべきじゃなかったと思うわ。いくら出来損ない、欠片だったにしてもね」

 そう口にすると、女性は鋭い視線を黒髪の男へと向ける。

 その視線を受ける形となった男は、軽く肩をすくめてみせた。


「何だ、知っていたのか。まあアレはテストを兼ねてさ。教育的な目的を兼ねての……ね」

「あまり深入りすべきではないと思うけど……まあいいわ。それよりも、どうしてもあなたに言っておきたいことがあるの」

「なんだい?」

 黒髪の男はやや真剣な表情となり、目の前の女性の言葉を待つ。

 すると、彼女はほんの極わずかだけ口元を歪め、そしてひとつの不満を口にした。


「この紅茶美味しくないの……せめて待ち人のことを考えて、もう少し良い茶葉くらい置いておきなさい」

 滅多なことでは口にしないクレハの冗談めかした言葉。

 それを耳にした瞬間、黒髪の男は笑い声を上げる。


「ははは、なるほど。それは済まなかった。代わりに、珈琲はいかがかな? 私がおすすめのものを置いているからさ」

「結構よ。そんな黒く濁った飲み物は」

「あらら、手厳しいね。そんなに変わらないと思うんだけどねぇ」

 コーヒー好きではあるものの、比較的こだわりの少ない黒髪の男は、両手を左右に広げながらそう口にする。

 すると、目の前の女性はわずかにその首を左右に振った。


「物がわからないって、悲しいことね」

「まあ、君の期待に応えられなかったことには謝るよ」

 睨まれた黒髪の男は、頭を掻きながら謝罪を口にする。

 すると、小柄な女性は不満そうな表情を浮かべた。


「謝ることはそれだけかしら?」

「いや。でも君相手だと、心当たりがありすぎてさ。一体、何から謝っていいものやら……」

「キスレチンの件よ」

 それは磨かれた刃物のように怜悧な声だった。

 比較的図太いと評される黒髪の男でさえ、その彼女の言葉に秘められた怒りに気がつくと、弱ったように軽く苦笑を浮かべる。


「あれは済まなかった。正直、追跡者の選定までは気が回らなくてね。私の不注意さ。申し訳ない」

「申し訳ないと思っているなら、その半笑いの顔をどうにかすることね。でも正直言えば、少し調査が行き詰っていたところだったから、切り上げ時でもあったのだけどね」

 クレハはそう口にすると、わずかに視線をそらした。

 一方、黒髪の男は顎に手を当てると、彼女に向かって問いかける。


「行き詰っていた……か。連中のしっぽは見えなかったのかい?」

「しっぽは見え隠れした程度というのが正しい表現ね。あの国に連中が潜んでいる可能性はある。ただし、あくまで可能性止まりよ」

 黒髪の男は、目の前の女性の内偵調査力に、ほぼ全幅の信頼を置いていた。そんな彼女でさえ、決定的な証拠を手に入れることができなかったことを受け、男は思わず唸らざるを得なかった。


「君でも無理……か」

「見た目だけでは決して判別がつかない相手。正直、普通の調査結果上はお手上げね。だけど……」

「だけど?」

 クレハの言葉尻に引っ掛かりを覚えた男は、その言葉を繰り返す。

 すると、黒髪の女性は迷いながらもゆっくりと口を開いた。


「一人だけ、一人だけ引っかかる人物はいるわ」

「誰だい、引っかかる人物ってのは?」

「ケティス・エステハイム」

 クレハの口から紡ぎだされた人名。

 それを耳にした瞬間、思わず男は口の中にあった唾を飲み込む。


「ケティス……まさか統一宗教主義戦線の」

「ええ。統一宗教主義戦線の当主にして、現キスレチン軍務大臣」

「……こいつは、思った以上の大物だね」

 黒髪の男は二度頭を掻くと、わずかに下唇を噛んだ。

 そんな彼に向かい、クレハは集め得た情報を口にしていく。


「このケティスだけど、十五年前まではただの温厚な牧師様だったらしいわ。それがある日突然、神の啓示を受けたと言い出して、政治活動を始めたようよ」

「そして戦線派を乗っ取ったと?」

「統一宗教主義戦線自体、元々はクレメア教団の穏健的な互助会みたいなものだったみたい。そんな和やかな組織に出所不明な資金を持ち込み、少数派であるクレメア教の差別と迫害に対する団結を訴えることで、急速に勢力を伸ばした立役者があのケティスよ」

 そうクレハは説明すると、冷め切った紅茶を口に含んだ。そして好まぬ苦味故に、表情を歪める。

 そんな彼女の反応に苦笑しながら、黒髪の男は口を開いた。


「つまり神の啓示を受けてから、突然辣腕の政治家に様変わりしたわけだ」

「もちろん昔から彼の側にいる人は、こぞってこういうの。見た目はケティスだけど、まるで中身だけ別人となったようだ……ってね」

「ふむ。もちろん温厚な牧師のケティスさんの中に、そのような資質が秘められていたのかもしれない。だが十五年前……か」

 十五年前、それは彼が両親と永遠の別れをすることになった年。

 そして彼が、現在大陸西方で最も有名な名を口にするようになった年でもあった。


「偶然としては出来過ぎていると思わない?」

「……そういえばかのウイッラ・ミラホフ氏が、最後にムラシーンと接触したのも十五年前だったね」

 先年の魔法公国と帝国との戦い後、限られた情報であったもののウイッラの足跡を追いかける過程で知り得た事実。

 これらの事象の一致を踏まえ、黒髪の男はわずかに頭を振ると、再び口を開く。


「たまたまだろうって笑い飛ばしてしまいたいところだけど……やはり蒔かれた種が芽吹いてきたと見るべきなんだろうね」

「で、どうするつもり? もうしばらく泳がせる?」

「いや、キスレチンに向かうことにする。ちょうどとある国の王様から、旅の同行をお願いされてしまってさ」

「また面倒事を……」

 やや呆れたような口ぶりで、クレハはそう口にした。

 だが黒髪の男は小さく一度左右に首を振る。


「だけどこれはチャンスさ。彼を利用する形になってしまって申し訳ないけど、直接ケティス氏に接触する機会を得るね」

「私は反対ね。リスクが高すぎるわ」

 はっきりと、そして確信を持ってクレハは目の前の男に向かいそう告げた。

 しかし黒髪の男は薄く笑うと、ごまかすように口を開く。


「大丈夫。いざとなれば、とっととキスレチンから逃げることにするさ」

「無理よ。貴方、自分が思っているよりも他人に甘いもの。きっと子守に必死になって、逃げるに逃げられなくなるわ」

「……その時は覚悟を決めるさ」

「ユイ!」

 封印された、そして大陸西方において特別な意味を有するその名。


 懐かしささえ感じるその名で呼びかけられ、黒髪の男は困った表情を浮かべる。

 だが、彼は決して自分の意見を変えることはなかった。


「クレハ、君の心配はわかっているよ。でも、ここでラインドルとあの国にこけてもらう訳にはいかない。それに既にカイルと約束してしまったからね。申し訳ないけど、国王様の臨時の護衛であるアイン・ゴッチは、キスレチンに向かうことにするよ」

 申し訳無さそうな、だがそれでいて翻さないという強い意志の込められた黒髪の男の言葉。

 それを耳にした瞬間、クレハは諦めと同時に呆れを覚えた。


「まだ、その名前でいるつもりなのね」

「さすがに君が呼んだ名で、堂々と正面から入国する訳にはいかないだろ」

「本当に、本当にあなたは仕方ない人ね……わかったわ。でも、私も同行するから」

 目の前の男が自らの意思を変えないこと、それは他の誰よりも彼女こそが知っていた。だからこそクレハは、小さな溜息を吐き出す。そして不満気な表情を浮かべながら、しぶしぶ交換条件を突きつけた。

 だがその言葉を耳にするなり、黒髪の男はわずかに視線を逸らすと鼻の頭を掻く。


「ああ、それなんだけどね。実は、ちょっと君には別のお願いがあるんだ」

「……聞きたくないわ」

 はっきりとした拒絶。

 その声が玄関ロビーに広がるなり、男は弱り切った表情で言葉を重ねる。


「頼むよ、クレハ」

「イヤよ。貴方がその顔をする時って、ろくなことがないわ」

 目の前の男は彼女が生を受けて以来、最も長い付き合いであった。だからこそ、彼女はほぼ確信を持ってそう断言する。


「君しか頼める人がいないんだ、私には……ね」

 言葉を選びながら、男はクレハに向かってそう告げる。


 僅かな沈黙。

 その後に折れたのは、いつもと同じく、黒髪の小柄な女性であった。


「はぁ……ほんとうに困った人。しょうがないわね、聞くだけは聞いてあげる。言ってみなさい」

「ありがとう。実は私の代わりに、君に会ってきてもらいたい人がいるんだ。これを見てくれるかな?」

 黒髪の男はそう口にすると、一通の手紙を彼女へと渡す。

 その文面と差し出す相手を目にした瞬間、彼女は思わず絶句した。


「これは……馬鹿げてる。あなた正気?」

「正気も正気さ。少なくともこれくらいしないと、あの大国に一泡吹かすことなんて出来ない」

 男は苦笑を浮かべながら、彼女に向かってそう答える。

 その彼の言動を耳にした瞬間、彼女の脳裏には三年前のある夜のやりとりが蘇った。


「昔あなたは、帝国の皇帝を相手取るために、盤面の外に飛び出すといったわね。でもこれは盤面をひっくり返すに等しい。本当に貴方……狂ってるわ」

「ふふ、最高の褒め言葉だね」

 クレハの驚きとその発言を受けて、男は自らの打つ手の確信を深める。それと同時に、彼はもう一つの打つべき手を彼女へと託した。


「あと申し訳ないのだけど、ついでに彼女にも会ってきてくれないかい。要件はわかるよね?」

「後でたかられるわよ。少なくとも、キスレチンで一番高い酒をね」

 男の発言から、かつての同僚である赤髪の女性のことを脳裏に思い浮かべ、クレハはあえてそう警告する。


「止むを得ないね。何しろ、今や彼女は正真正銘のお姫様だからさ。ともかく、お願いできるかな?」

「いいわ、やってあげる」

「ありがとう。そして……ごめん」

 今夜何度も繰り返された黒髪の男の謝罪。

 ただ、この一言に込められたのは、これまでの軽薄で中身の無い言葉とはまったく別物であった。

 そしてそれを理解しているからこそ、クレハは彼をたしなめる。


「謝らないでくれるかしら。いつも言っているわよね、私は私の誓いを決して破るつもりはない」

「わかったよ。でも君に感謝しているのは、いや感謝し続けているのは本当さ。あの時も、そして今もずっと……ね」

 男はそう口にすると、その双眸をゆっくりと閉じる。

 その瞼の裏に映るものは、初めて彼女と出会ったその時の光景であった。


 彼の父と母とそしてその向かい側に存在した彼女の姿。

 懐かしく、甘く、ほろ苦い思い出を、再び彼はゆっくりと胸の奥にしまい込む。


 そして再びその瞳を開けると、自らを見つめる女性に向かい、彼はゆっくりと頷いた。




 三年の雌伏の時を経て、再び英雄の胎動が始まる。



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