第7話 皇帝
「すべて世はこともなし……と。うん、帝国へ来るときはどうなることかと思ったけど、こんなにのんびり出来ると言うのなら、むしろもっと早く来ても良かったくらいだよ」
「そうかい。まぁ、僕の方もそろそろレイスあたりに、事務的な仕事も覚えてもらいたかったところだからね。ちょうどいい機会だったとは言えるかな」
アレックスは比較的権限の不要な事務作業の全てを、今回はレイスに任せていた。
もちろんめんどくさがり屋のユイと違い、彼が仕事を振ったのは弟子の成長を期待してである。
しかし仕事を投げられたレイスは、直接の上司であるフートのデスクワークが壊滅的であったため、毎日泣きながら三人分の仕事をする羽目になっていた。
「しかしこうして君とのんびりするのも久しぶりだね。たぶん学生時代以来かな」
「ふふ、ユイ。そんなに暇なのだったら、少し僕と――」
「断る!」
アレックスが更に言葉を続けるより早く、ユイが強い口調で拒否を口にする。
「待ちなよ。まだ何も言ってないじゃないか」
「言わなくてもわかる。だから断ると言ったんだよ」
ほぼ間違いなく剣の修行への誘いと勘付いたユイは、渋い顔をしながらきっぱりと拒絶する。
「でもさ、君が相手してくれなかったら、僕の相手がいないじゃないか。こうして暇を持て余しているんだし、少しくらい手合わせしてくれてもいいだろ?」
「君と手合わせしたら、絶対に徹夜して働くより疲れるからさ……」
ユイが首を左右に振ってそう口にすると、アレックスは仕方ないとばかりに肩をすくめ、そして引き下がる。
しかし彼の表情に浮かべられたいつもの笑みには、明らかに残念さが滲んでいた。
そうしてユイは再び手元の書籍に目を通し始め、アレックスはもともと瞑られているかのようなキツネ目を閉じて瞑想を再開する。
執務室には静寂が訪れ、全く業務時間らしからぬ空間が生みだされた。
しかしわずかな時間も経たぬ内に、そんな静寂は大きな扉のノック音によりかき消される。
「た、大変です!」
転がり込むような形で姿を現したのは、目の下にひどいくまを作ったレイスであった。
「どうしたんだい、レイス。世の中、そんなに慌てなきゃいけないことなんて、こんな天気の良い日に……待って、今の無し。なんか昔の嫌な記憶を思い出したからさ」
王都に戻って間もない時期に、エインスが彼の下へと慌てながら駆けつけてきた記憶を蘇らせると、ユイは先ほどの自らの発言を取り消す。
しかし、そんなユイの事情など知ったことではないレイスは、動揺を隠せぬ表情で口を開いた。
「いえ、そんなことを言っている場合じゃないんです。こ、こ、こ」
「こ?」
同じ言葉を繰り返すレイスに対し、ユイは怪訝そうな表情を浮かべる。
すると、レイスはユイが想像もしていない単語をその口から発した。
「皇帝陛下が……ケルムの皇帝陛下がここに来ているんですよ。ユイ先生を訪ねて!」
「はぁ……何を言っているんだい? だって皇帝だよ。エインスとかみたいなただの貴族じゃないんだ。そんな人物がヒョイヒョイと現れるわけないじゃないか」
働きすぎで幻覚を見たのではないかと感じ、ユイはかわいそうな人を見る目で彼を見つめる。
一方、隣でユイの発言を耳にしたアレックスは、いつもと変わらぬ口調で「いや、エインス君もかなりの大貴族なんだけどね」と、冷静な突っ込みを口にしていた。
そんなユイとアレックスの反応に絶望しながらも、レイスはそれどころではないとばかりにブンブンと左右に首を振ると、ロビーの方を指さして再び口を開く。
「いや、でも、もう下に来られてい――」
「お取り込み中の所をすまんが、少し失礼させてもらうよ」
入り口の所であたふたしているレイスの脇をすり抜ける形で、威風溢れる初老の男が、お供の者たちを廊下に控えさせたまま部屋の中へと姿を現す。
明らかにただ者ならぬ佇まいを目にしたユイは、先ほどのレイスの発言を反芻して表情を引き攣らせると、恐る恐るその男に向かって口を開いた。
「……あの、一応お尋ねさせていただきますが、どなた様でしょうか?」
「それは予のことか? ふむ、人に名前を尋ねられるのは、久しくなかった経験じゃな」
「あ、あの……」
予と言う単語が発せられた時点で、ユイの中では当然ある結論に到達していた。しかし、まさかという思いが、未だにその答えを受け入れることを躊躇させる。
一方、そんなユイの様子を目にした白銀の髪の男は、ニヤリとした笑みを浮かべると、堂々とした様子で自らの名を口にした。
「ふふ、そう緊張するな。尋ねられたからには名乗ってやる。予はケルム帝国第八代皇帝、リアルト・フォン・ケルムじゃ」
「……り、リアルト陛下。ほ、本物ですか。これは失礼致しました」
皇帝以外の者には決して出来ないであろう、その威厳あふれる名乗りを目の当たりにして、ユイは急ぎ頭を下げて謝罪する。
「はは、よいよい。不作法にも突然お主の所を訪問したのは予なのじゃ。楽にしてくれ」
「は、はぁ……」
全く意図の掴めぬ皇帝の振る舞いと訪問に、ユイは困った表情を浮かべながら戸惑いを見せる。
すると、そんなユイの心境をどう受け取ったのか、皇帝は笑いながらその口を開いた。
「まあ、良ければ茶などだして貰い、ゆっくり話をしたものじゃが、如何じゃろうか?」
「は、はい。直ちに……レイス!」
想定外のリアルトの発言に対し、ユイはすぐにレイスに視線を向ける。
「わ、わかりました。すぐにお持ちします」
レイスは二人の顔を交互に見た後にそう口にすると、再び転がるような勢いで、部屋の外へと駆けだして行った。
「ふぅ……うむ、クラリスのコーヒーはなかなかに美味じゃな。我が国に入ってくるものではなかなかこうはいかん」
ソファーに腰掛けながら、レイスが慌てて運んできたコーヒーをゆっくりと口に運ぶと、リアルトは満足そうな笑みを浮かべる。
「はは、こと商いに関しましては、クラリスは悪くない立地にあります。ですので、このような良き物が入ることも少なくありません」
「ふむ、それは良いことじゃ。残念ながら、我が国にはなかなかこれほどの物は出回らん。予がそなた等の土地を欲したのも、わかる気がせんか?」
「それはなんとも、答えあげにくいことでして……」
リアルトの問いかけに対し、ユイは頭を掻きながら弱った様子を見せる。
そんな彼の仕草を目にして、皇帝は笑い声をあげながら、彼へと謝罪を口にした。
「はは、これは失礼。今更そなた等に宣戦布告をしようと足を運んだわけではない。今日はただの茶飲み話じゃ、半分は冗談じゃから気楽に聞いてくれ」
「はぁ……それで、本日はどうしてこちらに足をお運びになられたのですか?」
困惑を隠せぬユイからの問いかけを受け、皇帝は意味ありげな笑みを浮かべる。
「じゃから茶飲み話をしに来たんじゃよ。そなたが暇だと噂で聞いたものでな」
「どこから漏れたんだ、一体……」
思わず素の表情のままそんな呟きを発したユイを目にして、皇帝は愉快そうな表情を浮かべた。
「ふふ、そなたは自分の価値をわかっておらんようだな。皆が見ておるのだよ、そなたをな。だからこそ、今日は茶飲み話なのじゃ」
「……どういうことでしょうか?」
リアルトの意味するところがわからず、ユイは首を傾げて問い返す。
その反応に対し、リアルトはわずかに考える仕草を見せると、彼は逆に問い返した。
「ふむ、では予とそなたが正式な会談をすると仮定しよう。もしそんなことが行われれば、どの程度の人々が、その会談の内容を注目することになると思うかね?」
「それはもちろん目的や内容にもよるでしょうが……クラリスとケルム、そしてノバミム自治領あたりの人なら注目せざるを得ないかもしれませんね」
ユイはほんの少し考えた後、彼自身の回答を口にする。
しかしその言葉を耳にしたリアルトは、わかっていないとばかりに首を二度左右に振った。
「その程度で済むものか。もし正式な会談を開くとすれば、ラインドル、フィラメント、エモール、そしてキスレチンの息がかかった者がその場にずらりと勢ぞろいするはずじゃ。そして話の内容は、彼等の手によって瞬く間に各国へと伝わる。じゃからこその、茶飲み話よ」
「はぁ……可能性としては否定しませんが、しかし決定権さえ無い小国の一大使との会談ですよ。些か考え過ぎではないでしょうか」
「ほう? 一国の生命線を握っておる者が、自らを決定権のない一大使と言いよるか」
ユイの発言を耳にしたリアルトは、わずかに右の口角を吊り上げると、そう言葉を発する。
「……それはどういう意味で」
「とぼけるでない。そなたのレムリアックからノバミムを通じて帝国内に大量の魔石が持ち込まれていること、予が知らんとでも思うたか? 既に我が国の経済の一部は、レムリアックに左右されうる状況なのだ。これを生命線を握っていると言わずして、なんと言うのかね」
皇帝の強い視線を浴びせられ、ユイは肩をすくめながら降参とばかりにその発言を認める。
「正規ではない裏ルートを中心にして、帝国へ流し初めたばかりですよ。なのに、もううちへとたどり着かれたんですか」
「元々それだけ帝国内の魔石流通量が少なかったと言うことじゃな。まあ、仲介している業者に関しては言いたいはあるが、基本的にそなたの融通には感謝しておる」
闇社会に繋がっているオメールセン商会を介していることに釘を差しながらも、皇帝は感謝の意をユイへと伝える。
一方、ユイは苦笑いを浮かべながら、彼もリアルトに向かって感謝の言葉を口にした。
「いえ、私としましても大口の売り先がたまたま帝国であったと言うだけの話です。感謝することこそあれ、感謝されるようなことはございません」
「ふふ、そなたは謙虚じゃな。別にもう少し強く出ても良かろうに。まあ、あえてそうしてはいないだけかもしれんが……おっと、今日はそんな話をしにきたのではない」
「はぁ……では一体、どういったご用件で?」
商業的な話でないのならば用件は軍事的なことだろうかと考えながら、ユイは眼前の老人に向かって問いかける。
しかしリアルトの口から発せられた内容は、完全にユイの予想外の内容だった。
「実はな、二十日後に一つのパーティーが予定されておるのじゃ。それに際して、今回はそなたをゲストとして招きたいと思い、誘いも兼ねて足を運んだ次第でな」
突拍子もなく発せられたリアルトの招き。
それに対し、ユイは戸惑いを隠せず、確認するように問いかけた。
「パーティー……ですか」
「うむ」
「お誘いとあれば、もちろん参加させて頂きます。しかし陛下自ら足をお運びにならなくとも、クラリスの大使として招待状さえ頂ければ、喜んで馳せ参じましたのに」
そう口にしながらも、ユイは目の前の皇帝の意図を図りかねていた。
皇帝リアルト。
婚姻政策と軍事力を巧みに使い分け、大陸西方の中堅国家に過ぎなかったケルムを、一代にして二大強国の地位にまで引き上げた稀代の大皇帝。
彼の代になってから帝国の領地は倍以上となり、ただ一度の敗戦を除き、ケルムは他国との戦争に常に勝利し続けてきた。
ただリアルト自身が直接戦闘に赴くことは皆無であった。実際の所、彼は戦場における指揮官としての能力を自らに認めていない。そんな彼の真価は、開戦時点で勝利を収めていると言われるほどの、政略的そして戦略的な優位を形成する政治力にこそあった。
だからこそ日夜政争に追われているはずのこの偉大で老獪な皇帝が、パーティーに誘う程度の理由だけでわざわざ自分の所へ来たということに、ユイは違和感を覚えたのである。
「いや、ただそなたを誘いに来たわけではないのじゃ。実は今回のパーティーで、我が帝国とクラリスとのこれからの友情の架け橋となるよう、主賓への贈り物をイスターツ殿から頂けないかと思ってな。要するに、そのための根回しに来たという訳じゃよ」
「……なるほど。でしたら、喜んでクラリスの良き品を贈らせて頂きますよ」
どのようなことを言い出されるかと不安に感じていたこともあり、ユイは安堵の表情を浮かべると、あっさりと皇帝からの依頼を了承する。
「そうか。はは、快諾いただけるとはさすが希代の英雄殿。お心が広いな」
「いや、そこまでのことでも……それで今回の主賓の方は、どのような方なのでしょうか?」
贈り物の内容を決めねばならぬ故、ユイはその贈呈相手の話をリアルトへと問いかける。
すると、皇帝はわずかに視線を宙に漂わせ、ゆっくりと口を開いた。
「うむ、予の目をかけておる女性でな。なかなかに美しい女性じゃ」
「はぁ……女性の方ですか。わかりました、何か喜んで頂ける物を考えさせていただきます」
取りあえず性別がわかったことで、これである程度贈り物が絞り込めるなとユイは考え始めた。そして彼がさらなる詳細を問いかけようとする前に、リアルトは間髪入れずに口を開く。
「そうか、そうしてくれるか。これはわざわざお忍びで茶飲み話に来たかいがあったわ」
「はぁ、それはどうも……」
「ふむ、ならばこれにて失礼させて貰おうか。また来るでな」
「えっ?」
先ほど来たばかりでもう立ち去るということ、そしてまた来るという発言にユイは面食らう。
しかし彼が驚いている間にも、リアルトはソファーから立ち上がり、ドアに歩み寄る。そしてドアノブに手をかけたところで、彼はまるで忘れていたことを告げるかのように、ユイの方へ振り返るとともにその口を開いた。
「そうそう、言い忘れておったが、主賓の名はミリアという。では、パーティーでまた会おうぞ」
そう口にすると、リアルトは満足した笑みを浮かべながら、颯爽と立ち去っていった。
そうしてその場に残されたユイは、護衛として背後に控えていたアレックスに向かって、正直な感想を口にする。
「……なんか、疾風怒濤というのが相応しい方だね。颯爽と現れ、颯爽と帰ってしまわれた」
「あのさ……ユイ。君、簡単に了承しちゃったけど、本当にいいのかい?」
「え、何をだい?」
アレックスは彼らしからぬ遠慮がちな口調で、ユイに向かい問いかける。
一方、尋ねられたユイは、その反応の理由がわからず、キョトンとした表情で首を傾げる。
「いや、ミリア様へのプレゼント」
「ミリア様? アレックスはその娘のことを知っているのかい?」
様付けでアレックスがその女性のことを口にしたことに、ユイは訝しげな表情を浮かべた。
そんな彼の反応を目にして、アレックスは一つ溜め息を吐き出すと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「皇帝陛下が目にかけている美しいミリアと言えば、おそらくは第四皇女のミリア・フォン・ケルム様のことしかありえないと思うよ」
「第四皇女……まさかあの花の姫か」
「うん、たぶんね」
その言葉を聞いたユイは、頬を引き攣らせると、そのまま目の前のテーブルへと突っ伏す。
「まいったなぁ……これは真剣に贈り物を考えないといけなくなりそうだ」
疲れた口調でそう呟くと、まるで糸が切れたタコのように、彼はしばらくその場から体を起こすことができなかった。
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