第14話 反攻計画

 クラリス大使館全焼事件と呼ばれる不可思議な事件。

 その余波はラインドルの様々な人々に少なからぬ影響を与えることとなったが、もちろんそれはこの国を実質取り仕切っているムラシーン宰相とて例外ではない。


 今回の全焼事件の重要参考人と思われるある人物が、その後に引き起こされた騒乱事件の後に消息を断ってしまい、ムラシーンは彼の捕縛報告を一日千秋の思いで待ち続けていた。


 するとそんな彼の下へ、治安警備部のジーセン部隊長が、予定にない報告を行うために急遽訪れる。


「隊長、一体どうしたのかね? 今日は君から報告を受ける予定などなかったはずだが?」

「申し訳ありません。本来でしたら、お約束を取り付けてさせて頂いてから、ご報告の時間を割いて頂くところですが、事が事だけに……」


 予定外の来訪者をムラシーンが嫌うことは有名であり、ジーセンも彼の冷たい眼差しを浴びせられ、やや弱々しい口調で言葉を発する。


「それで用件は一体なんだ? 例の男の捕縛報告なら喜ばしいものだが」


 一向に進まないユイ・イスターツ捕縛命令を指摘され、ジーセンは額に汗を浮かべる。だからこそ彼は早く話題を切り替えるため、持参した一通の封書をムラシーンへと手渡した。


「いえ、申し訳ありませんが、その件ではございません。実は各地の地方領主宛に、決起を促すこのような封書が送られておりまして」


 ジーセンの浅はかな考えなどお見通しだとばかりにひと睨みした後、ムラシーンはようやく渡された手紙へと視線を落とした。


「……隊長、これは本物なのかね?」


 手紙の内容に目を通したムラシーンは、視線を手紙の文面に固定したまま、確認するかのようにジーセンへと問いかける。

 その疑うかのような問いかけに対し、ジーセンは恐る恐ると言った体で、ムラシーンへの返答を口にした。


「は、はい。こちらはレクターン領のヒルムス領主より届けられたものです。ヒルムス殿が彼らに与しているとは考えづらく、それ故にこの手紙が本物であることは間違いないかと思われます」


 他の領主たちへの内偵を行わせるため、表向きは中立を装わせているムラシーン派のヒルムスが、わざわざこのような手の込んだ嘘を付くとはジーセンには思えなかった。

 その認識はムラシーンも同様であり、だからこそ彼はジーセンの見解に納得を見せる。


「ふむ、やはり王子の奴は生きておったというわけだな。いつの間にか私の監視下から逃れ、奴だけは拘束することが叶わなかったわけだが、つまりはレジスタンスの連中が奴を匿っておったということか……いや、案外奴こそ、レジスタンスを作り上げたのかもしれんな」


 国王と似て王宮内の誰もから好かれていた第一王子の横顔を脳裏に浮かび上がらせると、ムラシーンは途端に憎々しげな表情を浮かべる。


「ですが、ムラシーン様。あんなお人好しの王子がレジスタンスを作り指導するなど、私にはとてもできるとは思えません。レジスタンスの連中が、勝手に王子の名を使っている可能性も考慮すべきかと思います」


 ジーセンが自らの見解をそう伝えると、王子の人柄を思い起こしたムラシーンは、その見解がそれほど間違っていないと考える。しかしながら、王子の背後にかつて外務大臣をしていたあの男が付いているならば、やはり甘く考えるべきではないとムラシーンは思い直した。


「だがビグスビー辺りが協力していたとすれば、十分に可能性はありえるだろう。国王派だった奴も、いつの間にか姿をくらましたのだからな。とにかくだ、今はさしあたってこの手紙をどうするかということだが……」


 ムラシーンはそこで一旦言葉を止めると、そのまま黙りこむ。そしてこの手紙が届けられた可能性の有りうる地方領主の面々を脳内で確認していき、彼はあえてこの機会を逆用することに思い至った。


「隊長。地方領主の中でこの手紙が届けられていそうな者を……中でも、この私に反抗的な者をリストアップしろ。いい機会だ、私に協力的な態度を示さない者たちには教訓を与えてやることにする」

「教訓……ですか」


 ムラシーンの意図するところをわかりかねたジーセンは、ピンと来ない表情を浮かべる。

 するとそんな彼に向かい、ムラシーンは右の口角を吊り上げて笑ってみせた。


「ああ、教訓だ。その愚か者達の領地近くに、これより演習の名目で軍を派遣する。そして自らの目で我が軍を軍を直視し、現実を理解するようならそれでよしとしよう。だが、もしそれでも自らの分をわきまえぬようであれば」

「見せしめとして、直接我らが力を見せてやると。なるほど、そういうことですか」


 ジーセンはここに至り、ようやくムラシーンの意図を理解すると、すかさず相槌を打つ。

 そんな彼の反応に滿足したムラシーンは、大きく一度頷くと声を立てて笑ってみせた。


「ふふふ、そんな馬鹿がいれば、きっと他の領主たちに対して良い警告となろう。むしろ一人ぐらいはそんな先の見えぬ愚か者がいて欲しいものだな」

「確かに。それでは宰相閣下、至急そのように手配致します」


 ムラシーンの描こうとする絵をジーセンも垣間見た気分となり、彼も釣られるように自らの口角を吊り上げた。


「まあこれを機に、レジスタンスの連中をヤブから釣り出すことが出来れば、まさに一石二鳥というものだが……しかし、隊長。君はこの手紙の内容を情けないと思わんかね? もしこの手紙を書いたのが王子本人なのだとしたら、地方領主に頼らなければ、かつての家臣一人さえ排除することができないと自ら認めているわけだ。そんな情けないものが王家を自称するなど、まさに滑稽としか言えんよ」

「全くですな。ラインドル王朝も天命が尽きたということでしょう。では、小官は早速軍の配備へと向かいますので、これにて失礼いたします」


 ムラシーンの意を受けたジーセンは、すぐさま行動に移すために部屋を飛び出していく。

 そして部屋の中には、ムラシーンがただ一人残された。彼は再び机の上の書類へと視線を落とすと、何事もなかったかのように執務を再開する。



「ユイさん。これが現在集められるレジスタンスの全員です」


 カイルは決戦を前にして、戦いの準備に励む同志たちをぐるりと見渡す。そして彼らをユイに対して紹介した。


「非戦闘員を除いて、だいたい三百人ちょっとか」


 迷いの森の中にあるの隠れ家の前へと招集されたのは、この度の戦闘に参加が可能なレジスタンスに所属するそのまさに全員であった。


 戦いを前にした高揚感からか、館の庭には気合の入った雄叫びや笑いが絶えず、まるでお祭り事のを前にしたかのような騒ぎとなっている。

 そんな彼らを誇らしく思いながらも、これから敵対する相手のことを思うと、カイルは憂鬱な感情を覚えずにはいられなかった。


「すいません。出来る限り戦闘に参加できる者はかき集めたのですが、これだけの数しか……」


 ムラシーンが操るであろう全軍は総数二万人規模であり、いくら彼らの戦力を分断させたとしても、戦いを前にした互いの戦力差は圧倒的であると思われた。それ故にカイルは、ユイに対して人員の不足を詫びる。


「いや、カイルが謝ることじゃないさ。それに今回のような局地戦で大事なことは、限られた戦場を常に設定し、そこに適切なタイミングで、どれだけの人員を動員できるかということさ。普通に考えれば数が多い方が有利なのは当然だけど、今回は王宮内という限定された空間を、極短時間のみ戦場に設定する。だから基本的に、人員差のかなりの部分は無視出来ると考えていい。だとすると、最後にものを言うのは、兵一人一人の士気と練度さ」


 戦端を開くタイミングと戦場を規定できることの優位性。

 その重要性を先日の会議の際にもカイル達へと説明したが、ユイは改めてこの場で彼に告げ直す。


 そんなユイの言葉を受けて、カイルは少し心が軽くなったのか、硬くなっていた自らの表情をわずかに和らげた。


「ありがとうございます。ユイさんにそう言ってもらえると、本当に勝てるような気がしてきました」

「気がするじゃなくて、必ず勝つ……さ。そう思ってなきゃ駄目だ。大将が弱気なら、それはすぐに他の兵士へと波及するからね」


 自分でも似合わないセリフを吐いているなと思いながら、ユイはこの国の将来を担うべき若き指導者に向かってそう檄を飛ばす。

 すると後方に控えて二人の会話を聞いていたクレイリーが、ユイの発言を耳にするなり、こらえきれずに吹き出した。


「ははは。よりによって、旦那がそれを言いやすかね。だったら旦那のやる気のなさも、とっくにあっしたちに感染ってしまっているはずでやすよ」

「おいおい、私ほど勤勉な男はいないだろ。こうやって他国の若き友人を手伝うために、戦場に立とうとしているんだ。この行為のどこが勤勉じゃないっていうんだい?」


 両手を左右に広げながら、ユイは不満気な表情を浮かべるとクレイリーに向かい抗弁する。

 しかし、そんな彼の反応を目にしてクレイリーは首を左右に振ると、周囲の兵達に聞こえない程度の小声でそっと呟いた。


「そりゃあ、今回の旦那の役回りでやすよ」

「そうかい? 私としては、十分以上な仕事を受け持ったつもりなんだけどね」


 頭を掻きながら、ユイはクレイリーに向かってそう反論した。そしてそのまま彼は話が脱線したことに苦笑すると、一呼吸おいた後にカイルの方へと向き直る。

 しかしそんなユイの視線の先には、輝くような笑みを浮かべながらも、心ここにあらずといった様相の少年が存在した。


「ユウジン……ユイさんがこの僕の友人……僕、僕、絶対にこの戦いに勝ちます!」


 急に瞳に理性の色を灯しなおすと、カイルはパッと顔を明るくさせ、ユイに向かって満面の笑みを浮かべる。

 その少年の勢いに押され、ユイはやや後ずさりながら言葉を返した。


「あ、ああ……では手はず通り、レジスタンスの指揮をお願いするよ。日が落ち次第、夜の闇に紛れて城内に侵入し、まっすぐにムラシーンの下へと突入するんだ」

「わかりました!」


 カイルの元気の良い返事に、本当の指導者は君なんだけどと思いながら、ユイは頭を掻く。そして改めて確認しておかなければならないこと思い直すと、彼は真剣な表情でカイルに向かい口を開いた。


「それと先日も言った件なんだけど、つまりもし敵方にクラリス式の魔法を操る魔法士が出て来た場合、彼らに関しては――」

「わかっています。例の魔法士が前面に出てきた場合、できる限りユイさんの部下に対処を任してくれっていう件ですよね」


 心得ていますとばかりにユイの発言を途中で遮ると、カイルは大きく首を縦に振った。

 そんな彼の反応を確認し、ユイは申し訳無さそうに念押しを口にする。


「ああ、無理な頼みだと思うが、可能な限り善処してくれると助かる。そのために、こいつらの指揮権も君に預けるから」


 ユイはそう口にすると、後ろを振り返るとともに、クレイリーの肩をポンと叩いた。

 一方、預けられる側となったクレイリーは、この作戦において欠かすことができないピースが足りていないことを口にする。


「しかし、旦那。例の助っ人が、まだ到着していやせんが……」


 やや心配気な表情でクレイリーがそう口にすると、ユイは説明していなかったことを思い出し、少し気まず気な顔つきとなる。


「ああ、あいつら……な。あいつらにはさ、王都の撹乱作業を最初に行なってもらうから、既にセーブル内へ潜入してもらっているんだ」

「え、そうなんでやすか? まあ確かに、あの方たちを部隊の中で遊ばせておくのは、いささかもったいないでやすしね」

「そういうこと。予定としては、まずあいつらが最初に街で騒ぎを起こし、王宮内の兵士たちを外へと釣りだす。そして連中を引っ張り出し終えたところで、彼らにはお前たちに合流してもらうよう頼んでいるから、そのあたりは彼女と協力して臨機応変に頼むよ」


 そう口にし終えたユイは、庭の中でも一際目立っている赤髪の女性へと視線を向ける。


「……はぁ、わかりやした。では、手筈通りに」


 なぜか酒のイッキ飲み大会を初めて、場の空気をおかしくしているナーニャを視界に捉えたクレイリーは、大きな溜め息を吐き出すととぼとぼとした足取りで彼女の下へと歩き出した。

 一方、肩を落として歩いて行くクレイリーを見送ったユイは、頭を一度掻いた後に、彼とは逆方向に向かって歩み出す。


 彼の歩みゆく先、そこは庭の外れで遠巻きにレジスタンスの兵士たちを見つめるリナとノアのいる場所であった。

 ユイは彼女たちの側まで歩み寄ると、ニコリと笑みを浮かべて口を開く。


「ノア。リナのことを頼むよ」

「はい、任せてください。でも……本当にいいんですか、この私で」


 リナを任される形となったノアは、わずかに表情を翳らせながら、不安気な瞳をユイへと向ける。

 揺れる彼女の瞳を目にしたユイは、不意に昨日の記憶が思い起こされ、思わず頭を二度掻いた。








「閣下、お話があるのですが」


 レジスタンスから与えられていたユイの個室の扉がノックされたのは、もう空が夕暮れに差し掛かる頃であった。


「ああ、開いているよ。どうぞ」


 室内に設置された机の上に王宮の図面を広げながら、今回の作戦の最終確認を行なっていたユイは、思わぬ客の声を耳にする。そして彼は意外そうな表情を浮かべながら、彼女の入室を許可した。


「お忙しいところを急にお訪ねする形となり、本当に申し訳ありません」


 そうして謝罪を口にしながらユイの部屋へと入ってきたのは、悲壮な表情を浮かべたノアであった。彼女はユイの机の前まで歩み寄ると、椅子に腰掛けたままの彼に向かって深々と頭を下げる。


 緊張と不安と後悔が入り混じった彼女の姿とを目にして、このタイミングで彼女が何を目的としてこの場にやって来たのか、ユイはその目的をある程度理解した。

 だからこそ彼は、内側からドアにカギをかけるよう彼女に指示すると、手近な椅子へ腰掛けるように勧める。


「それで……君みたいな美人さんを部屋に迎えられるのは歓迎だけど、私に一体なんの用かな?」

「実は閣下にお話しておかなければならないことがありまして……」


 訪室の目的を口にするように促され、重い唇をゆっくりと開いたノアであったが、彼女はそこで次の句を継げなくなってしまう。

 そんな彼女の姿を目にして、ユイは一度頭を掻くと、優しい口調で彼女へと語りかけた。


「過ぎたことを謝りに来たのなら、特に必要ないよ。君にどういう事情があったかはわからないけど、進んで彼らに与していたとは思えないからね」

「……やはり御存知だったのですか」


 ユイの能力を顧みて、既に自らの正体を看破されている可能性に思い至っていたノアは、その一言に肩を落とす。


「さすがにラインドルの連中の対応が早すぎた……かな。正直言って最初は、君はホイスくんとだけ繋がっていると考えていたんだ。でも大使館を脱出してから、連中が私を押さえに来るまでがあまりに早すぎた。ホイスくんを介して連絡を取っていたのだとしたら、少なくとももう少し時間がかかっていただろうからね」

「なるほど。だから直接連絡をとっていると考えられたわけですか」


「うん。それにもう一つ。私の大使という立場を踏まえると、ラインドルも曖昧な情報だけでは、私を拘束するという決断を簡単には取れなかったと思うんだ。だからこそ私を直接監視し、そして連中が信頼をおいている一次情報源が身近にいると考えた段階で、ようやく君がダブルスパイだという結論に至ったわけさ」


 ユイは頭を掻きながら、彼女を疑った理由を理路整然と告げていく。

 そんな彼の言葉を聞くにつれ、ノアは俯いたまま、体を一層縮こませた。


「申し訳……ありません」

「しかしだ、どうして私に真実を告げる気になったんだい?」


 ユイのその問いかけを受けて、ノアは体をビクッと震わせる。そしてわずかに逡巡した後、彼女は小さな声で少しずつ語りはじめた。


「私には、妹がいるんです。小さい頃から私をずっと慕ってくれている、笑顔の絶えない子でした。二年前に急な病で臥せるようになるまでは……ですが。彼女のためなら、汚れ仕事でも何でもやるつもりでした。でもリナを……妹と歳の変わらないリナのような子まで、私は直接命の危険に晒し、そして不幸にさせたのだと思うと」


 ノアは自らに病気の妹がいること。その妹を治療するには莫大な費用がかかること。そして最終的にはその経済的な弱みに漬け込まれ、ラインドルのスパイ網の一端として使われるようになってしまったことを、震える声でユイへと告げていく。


 そして先日の市内での戦いで、リナが自分もろとも敵の魔法士により危険にさらされた時、初めて己のやっていることに対する後悔の波が押し寄せてきたことを語ると、彼女はそこで口を閉じた。


 身を削るような思いで語った彼女の言葉を聞き終えたユイは、優しい笑みを浮かべたまま小さく頷く。


「……そっか。うん、だいたいの話はわかったよ。それでさ、君はこれからどうしたい?」

「これから?」


 唐突に発せられたユイの言葉の意味が理解できず、キョトンとした表情のままノアはオウム返しのように聞き返す。


「そう、これから。君はまだ仕事を辞める訳にはいかないだろ。大事な妹さんのことがある限りはね」


 ユイは穏やかな口調で、彼女に向かいそう問いかける。

 しかしその内容を耳にしたノアは、一層困惑の表情を強めた。


「それは、そうですが。でも、今日は閣下に裁いて頂くつもりで、ここに参りました。そんな温情をかけて頂くわけには……」

「はは、私は美人のお嬢さんには弱くてね。それに私はさ、誰も彼も幸せにできるなどとうぬぼれてはいないけど、せめて私に関わる人くらいはあまり不幸になって欲しくないんだ。それが君であれ、君の妹さんであれね」

「でも、私は……」


 ユイの意図を察したノアは、気まず気な様子を見せながら、それ以上二の句を告げなかった。

 そんな彼女に向けて、ユイは諭すように優しく語りかける。


「これまでの過程はともかく、冷静に現状を評価した場合さ、君が行ったことは私の行動予定にほとんど影響を与えていないんだ。もちろん全く気にしなくていいとは言わないけど、私は別に過程には興味が無い。必要な物は結果だけだからね。だから、君がこれから私たちに協力してくれるつもりがあるのなら、それで十分さ」


 ユイはそれだけを言い切ると、彼女に向かって微笑みかける。

 一方、そんな彼の表情を目にして、ノアはほんの少し表情を緩ませると、その大きな瞳から雫が一つ頬を伝ってこぼれ落ちた。


「閣下……閣下は甘いです」

「ん? 私は成果主義者なだけさ。もし君が、私に関わる誰かを今後不幸にさせるなら、その時は容赦なく切り捨てるからそのつもりでいてくれ。それだけ理解してくれたら、下がってくれて構わない」


 その言葉を聞いたノアは、わずかに逡巡をみせる。しかし彼女は涙を拭いて深々と一礼すると、ほんの少しだけ穏やかな表情を浮かべ、まっすぐに部屋を退室していった。


 そうして彼女が出て行った執務室には、一瞬の静寂が訪れる。

 しかし次の瞬間、聞き覚えのある声がユイの鼓膜を震わせた。


「今の子が、例のスパイかい?」

「ああ、なかなか良い子だろ。クレハが既に背後関係を洗っているから、彼女は白だよ」


 ノアが立ち去ったタイミングで後方の衝立の裏から発せられた声に向かい、ユイはやれやれとばかりに返答する。


「しかし本当に君は甘いよ。例え金銭で脅された者とはいえ、敵の手の内にあったものを早々と信用するなんてね。僕は彼女の首を刎ねておくべきだと思うけど」


 そう口にしながら衝立の裏から姿を現した赤髪の男は、ユイの前面へと回りこむと、先程までノアが座っていた椅子へ腰掛ける。


「おいおい、アレックス。物騒なことを言うなよ」

「言っておくけどユイ、僕は本気だよ。クレハ君に君の護衛を頼まれた以上、僕は僕なりに完璧に護衛してみせる。だけどね、君はもう少し自分の立場に自覚を持ったほうが良いよ」


 両手を左右に広げながら茶化して誤魔化そうとするユイに対し、アレックスはいつもの笑みを表情から消すと、そのまま苦言を呈した。

 すると、ユイは弱ったような表情となり、顔をしかめながら頭を一つ掻く。


「口を開けば、みんなそう言うんだから。実際のところ、君たちは結託しているんじゃないか、まったく……ともかく護衛は今日限りだ。明日は例の作戦を進めてもらった後に、リュートと前線で働いてもらうつもりだから、その予定でいてくれ」

「ユイ!」


 真剣の刃にも似た鋭いアレックスの声に、ユイもその表情から完全に笑みを消す。そして普段はめったに吐き出されるようなことのない低い声で、彼はアレックスに向かい言葉を返した。


「大丈夫。私は私にしかできないことをやる。そして君たちには君たちにしかできないことをやってもらいたい。それも含めて、いつもどおりさ」


 ユイはそれだけ告げると、目の前の男から放たれる殺気混じりの視線を真正面から受け流す。

 そして空間が完全に硬直した後、二人の内で先に折れたのはアレックスであった。


「……わかったよ」


 呆れたような響きを含む声で、アレックスはそう口にすると、ようやくいつもの笑みを表情に張り付かせる。

 そんな彼の表情の変化を見て取って、ユイはわずかに苦笑した。そしてアレックスに向かい、今やるべきことを口にする。


「さて、それじゃあもう少し計画を詰めようか。明日までそんなに時間もない。君が居てくれるうちに、やれることをやっておかないとね」








「ノアくん。何時言ったことか忘れたけど、君に話したとおり私は成果主義者さ。だから、基本的には結果にしか興味がないんだ。こんなに彼女に合う服を見繕ってくれた君なら、リナのことを他の誰よりも信頼して任せることができると思っている。そしてだからこそ君を選んだ。つまりそれだけのことさ」


 白く可愛らしいワンピースに身を包み、嬉しそうにクルリと回ってみせるリナの姿に頬を緩めながら、ユイはノアの耳元でそう告げる。

 するとノアはまっすぐにユイへと向き直り、そして文官にもかかわらず彼に敬礼をしてみせた。


「閣下……分かりました、彼女のことはお任せください。それと御武運をお祈り申し上げます」

「ありがとう。それとリナ。しばらくお別れだけど、ノアの言うことを聞いていい子にしているんだよ」


 ユイはリナの目線まで屈み、彼女の頭を撫でながらそう言い聞かせる。

 すると、リナは満面の笑みを浮かべながら、元気よく頷いた。


「うん。おじちゃん、早く帰ってきてね」

「ああ。出来る限りそうできるよう、努力するよ」


 ユイはやさしい笑みを浮かべながらそう告げると、もう一度だけリナの頭をゆっくりと撫でる。そしてユイはそのまま立ち上がると、彼は再びレジスタンスたちの輪の中へ向けて歩み出した。


「……しかし成果主義者か。我ながら、まったく似合わない言葉そのものだね」


 苦笑いを浮かべながら、ユイは独り言のようにそう虚空へと呟く。

 そして彼はこれから待ち受けるであろう戦いへと思考を切り替えると、一つ大きな溜め息を吐き出しゆっくりと頭を掻いた。

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