カフェの一時、情けなく

 カフェというものはあまり好きではない。

 こう、何と言うのだろうか。小洒落ている感じがどうにも気に食わなくて、そこにいる意識高いフリをしている自尊心と承認欲求で塗り固められた肉の塊達はもう目も当てられないものだと思っていた。だからボクは、生涯カフェにだけは近寄ることなく、縁の無いものだと割り切っていたが、まさか、こんな奇縁があろうとは。運命、感じちゃいます?

「どうしたんだい、霧ヶ音くん? まあ、安心したまえよ。まさかこの間の貸しを今ここでこの店のパンケーキを数十と食べてその代金を押し付けることでチャラにしてあげる、だなんてそんなことは言わないからさ」

 それもまさか、この由比ヶ浜優希とカフェに来ることになろうとは、一体誰が予想できただろうか。

「じゃあ、一体全体何が目的でこんな場所に呼び出したんですか? ボクァてっきり奢らさせるもンだとばかり」

 頼んだカプチーノが思いの外熱く、飲もうと口に寄せたカップをそっとソーサーに戻しながらボクは由比ヶ浜さんに質問する。

 いやしかし、てっきりいつぞやの借りを取り立てられるのだとばかり思っていたのだが……違うのか。取り立てられたところで返す気はなかったが、さてそうなると一体全体ボクにどのような無茶振りを吹っかけてくることか。それにしても彼女、取り立てを早々に終わらせる派ではなく大切な盤面で断れないように拘束するように使う派なのか……全く、いい性格をしている。

「何がも何も、答えは単純明快。ただ君が血の涙を流しながら鼻血を吐出し、そして果てには血反吐を吐いてぶっ倒れた後のことを聞かせてやろうと思っただけさ。聞きたいだろう? 君が私達を向かわせた後、何があったのか——君の善意の結果ってヤツを」

「? あーっスねぇ。勿論聞きたいですよ、そりゃ。ボクは何故にあの時奴の行動に危機感を抱いたのか。その真実を知らなきゃ、気になって夜も昼も寝れませんから」

 一瞬何のことだと思い、次の瞬間に思い出す。

 あの、ボクの根本から湧き出るような不安感。あれが何なのか、その正体と言うヤツを心底知りたがっている自分を内に見る。

「教えるのはいいけどぉ、物事には対価ってものが必要だよね? 一には一を、百には百を。等価交換は人間関係の基本だものね」

 そう言って両手でそれぞれ頬を押さえ、こちらを笑いながら見てくる彼女に、心底面倒臭い人だと思いながらも脅迫に膝を着き、店員を呼んでパンケーキを頼むボクだった。情けない男の背中だった。パンケーキ一皿に千二百円とか……一口だけ頂くことにしよう。断られたとしても強行突破して何が何でも一口分奪い取ってやる。

「よろしい。じゃあ、まずは……そうかい。六感能力を停止したのはそういう……いやさ、何でもないよ。気のせい。ジョーダンやめてよね。話す話す話すから携帯電話を取り出さないでゲーム起動しないで。それじゃあ最初は、彼女。《佐藤さん》についてから行こうか。

「《佐藤さん》は……まあ、君も知っての通り亡くなっていたよ。私達が着いた時には、なかなかに無惨に、ボロボロに解体されていてね。いや、解体と表するほど整っているわけでもなく、暴行というほど無秩序でもないような……丁度、手術を中途半端に停止したような損傷だったよ。

「より正確に、かい? 左右の肺と肝臓は引き摺り出されていて、胃及び十二指腸は掻き分けられたように大腸の上の辺りに溜まっていたね。最も残忍だったのは心臓で、右心房右心室左心房左心室、それぞれ丁重に切開されていた。そんな感じかな。とても見ていられる光景じゃなかったから、あまり直視しないよう心掛けてしまったね……わかった、もう一口パンケーキを分けて進ぜよう。

「ん? ああ、君が感じていた危機感ね。あれはまあ、正しかったよ。まさしく。ドンピシャ。いや本当に、すまないね。

「彼女が亡くなっていることを幸か不幸か、取り敢えず死後一時間以内ではあることだけは確かだったからさ、彼女の保有していた六感能力を亡骸から消し去ろうとしたんだけどね、彼女、六感が無ったんだよ。無くなっていたんだ。

「意味がわからないって? それはこっちもさ。わからないもわからない、本当に意味不明さ。

「まあ六感が無くなっているんなら構わないのだけど……しかし、どう六感を盗み出したんだろうかね。そういう六感を持っているのか……あるいは。

「後は、まあ、言う必要はないと思うけどさ。私達が到着した時には、既に犯人は逃走しており、犯人に繋がるような凶器もなければ証拠もなし。流石と褒めるべきか面倒だと悲しむべきか、いやはや全く全く。

「ま、いっか。

「んーまあ、こんなトコロかな? 一言でまとまると、してやられた上に特別何もわかっていないって感じ。何か質問は?」

 六感が、無くなっていたと?

 ボクの危機感はそういうものだったのか……いやまさか、奴の六感がそういった類いのものであったとは、流石に予想がつかないだろう。あるいは、の側は想像もしたくないことだが、あえて思考するのであれば人体の内部に六感能力を発現させる"何か"が存在しており、その存在にいち早く気が付いてしまった奴に《佐藤さん》の六感を持ち去られたか。もしも後者であれば、奴が元より保有する仮称【逃げる羊】に加え《佐藤さん》が保有していた不明能力を手に入れてしまったと考えられるのか。恐ろしく悍ましいとはこのことだ。

 【逃げる羊】とてどのような六感能力であるのか、未だに考察の域を出ない上に説が乱立している始末なのに、こうなったら奴とは今後関わらない方針で生きる他ないな。元より関わる気などなかったが、決心が一層強くなった。

「んーっと、質問は無い感じかい?」

「え? あ、はい。特に質問という質問は無いですね」

 というか、これ以上情報を入れて処理で苦しみたくない。

 頭同時に俯いていた顔を上げてみる。色々と考え込んでいる間に届いたらしいパンケーキを、女郎は美味そうに食らっていやがった。何てことだ……もう既に半分も食ろうていやがる。軽口で言っていた一口くれるという言葉は嘘だったのか。

 まあ、いいか。

 このパンケーキは由比ヶ浜さんに奢ってやったものだ。直接見てみると結構食欲そそられる外見で丸々一枚食べたいところだし、そのうち鴎と一緒に食べに来てみるかな。

「いやさ、しかし」語り終わったものだとばかり思っていたのだが、由比ヶ浜優希の語りはまだ終わってはいなかったらしい。「何たって奴さんは彼女をあんな目に合わせたんだろうね?」

「何で彼女を……ですか?」

 そんなものは、わかってはいけないだろうさ。

 殺戮者の思考なんてものを理解しては、そいつは殺戮者と変わらないとことだろう。他人のことなんて誰にも理解できないものであり、それを理解したらその思考をしている奴と一抹ほどの違いもない人物であるということなのだから。そいつは、いけないだろう。

「まあ、そりゃ……別に理由なんてなかったんじゃないんですかね。そこに人がいた、だから殺す。目の前を人が歩いた、だから殺す。視界内に入った、だから殺す。あいつはきっと、そういう人間なんですよ。生まれついての殺人鬼、生まれついての人殺しなんですよ」

 ああ、嫌だ嫌だ。

 何たってボクがあいつのことを理解してやらなければいけないのか。理解したい奴がいるのにそいつの思考はわからず、理解したくない奴の頭の中であれば紙に火を近付ければ燃えるくらい当然のこととして理解できるとは……アンバランス故の絶妙なバランスってヤツかな、いやはや。そんなグラグラタワーバトル求めちゃいないのに。

「例えば、目の前を人が通る。勿論その人はあなた自身に何もしません。不干渉、未接触、無関係なんですよ。さて、あなたならその人をどうしますか? 由比ヶ浜部長」

「そんなもの」

 何もしないでしょう。

 当たり前のように、彼女は言った。

 実際、それが当たり前であり、平々凡々な答えその人であるのだけれど、しかし、この場合のーー詰まるところ世界での常識であってもそれが正解である答えにも関わらず、あいつの、あの絶対悪の中での辛うじて常識と呼べる代物はそうでは無かったのである。そんなモノではなかったのである。果たしてそれを常識と呼ぶべきか、はたまた非常識と呼ぶべきか判断に迷うところではあるが、奴の中では少なくとも、由比ヶ浜部長の解答こそが非常識であるのだ。

「怨めるですよ、あいつは」

「……? は? はい? どういうコト?」

「どういうもこういうも何もなく、言葉そのままガシッと受け取ってもらえれば結構です」

「いやいやいやいや待て待て待て待て待ちたまえ。このパンケィキの残りをくれてやるから少し私に時間をおくれよ。

「何だそれ、水平思考ゲームか何かか?

「君は言った。その人は『不干渉、未接触、無関係』であると。それに間違いは……ないのかぁ。

「で、その人は目の前を通る。通り過ぎていく。

「何もされておらず、触れてすらいない。こちらから一方的に視認しただけで、相手はこちらを知ってすらいないよね。普段生きていてそんなことをいちいち覚えていられる人間なんてものは、この世には存在してはいけない存在なんだからさ。

「それなのに、それを怨む?

「怨む。

「怨んでいるから、殺す。

「怨んでいるが故に、殺す。

「ただ殺すのではなく、故に殺す。

「理由がないという理由。

「成る程ね」

 どうやら辿り着くべきではない真実へと辿り着いてしまったらしく、彼女の顔は酷く引きつっていた。引きつるというか、それはもう痙攣一歩手前にまで至っており、自らの常識と相反する謎の劇薬Xとのブランドによって頭はオーバーヒート一歩向こうといった具合らしい。

 当たり前のことではあるけれど、実際は以外に思っていたりする。彼女であれば何のことはないように振る舞うと期待していたのだけれど。

「しかし、君はそう理解できたってことは、君はあの人ならざる化け物の思考と同じものを持っているって事なのかな〜? いいな〜、私知りたいな〜」

「何を白々しい……まあ、じゃあギブアンドテイクですよ。物事というものは、常に等価交換で成り立っているのでしょう? こちらに何かを求めるのであれば、そちらも何かを与えなければならない。これはあなたが言った言葉ですよ、由比ヶ浜部長」

 鴎の情報のために、ボクが仲間になったように。

 その後の展開を知るために、パンケーキを奢ったように。

 何かを得るためには、それ相応の対価というものが必要となってくるのである。

「そうかい。そうだねぇ。じゃあ、さ。君は、何が知りたい? 何でもいいとも。私の朝食でも、今後の予定でも、何ならスリーサイズでもーー君という存在から安全を買うのであれば、私は今ここで何だって払うさ」

 ………………ッ。

 成る程ね、本当に嫌味な人だクソッタレめ。

「そうですね……じゃあ、ボクはあなたの全てが知りたいです。『由比ヶ浜優希』という人間の、その全てという全てが」

「じゃあ私は君の全てだ。『霧ヶ音騎式』という〈一般人〉の、その全てをオールインしてもらおうじゃないか。首ってものはさ、片方だけが締め付けるんじゃぁなくて、それぞれお互いに締め上げる。それが愛ってものだろう?」

「愛し合うって奴ですか」

「一生ものの傷を負おう。お互いにね」

 傷。

 傷を負って、古傷すらも剥がされる。

 ボクは別に瘡蓋を剥がすのが好きな奴じゃあないし、何ならボクは瘡蓋を剥がすという行為は嫌いな部類に入る。痛いのは、別に構わない。自傷行為というものは、どんなものであっても落ち着くものなのだから。しかし、瘡蓋を剥がすのは少し別のように感じる。アレはリストカットや首締めなどとはまた別なものなのだ。最悪な気分になる。きっと、連想ゲームなどそういった類いのものに近い現象が起こるからだろう。

 瘡蓋。

 恐ろしくて封じた何かのその先。

 忘れられない椿のように落ち着きながらも朗らかな笑顔が、ボクを睨む。

「さあ、喋ってもらおうか。まずは君からだ。私はこれでも君を信用していないタチでね、私にだけ喋らせて逃げることも平気でするような奴なんだと考えているんだよ、これが」

 平然と、表情のひとつも見せずに彼女は言った。

 その姿が恐ろしくも頼りになり、ボクは由比ヶ浜部長から譲り受けて食べ進めていたパンケーキを刺したフォークの動きを一時的に停止する。ナイフは自然と前を指す。次に何かワンアクションでも起きた時に、その笑顔を引き裂けるように、ボクはナイフを前に出す。

「まずは、まあ無難に名前、性別、年齢、身長、誕生日、好きなもの、嫌いなもの……とかかな、うん。そうしよう」

「そんなこと、知っているんじゃないんですか? あなた方の場合、ボクを襲う前にボクのことなんて秘密の一抹も残すことなく調べ上げているんでしょう?」

「んー……いや、ここでハッキリと白状してしまうとさ、苗字と住所、後は事件のことくらいしかわかっていなかったのさ。おかしいんだよ、君は。なんて言うんだろうね。こう、さ、君に近付こうとすると、後ろに引き戻されるみたいな?」

「そんなわけないでしょう。ボクはごく平均的な平々凡々な一般市民ですよ?」

「うん、そうなんだよねぇ。一番わかりやすく表現すると、『奴を調べる前に、言っておくッ! 私はまだ、奴の六感能力をほんのちょっぴりも、体験できていない。い…いや…体験できていないというよりは、まったく理解を、超えていたのだが……。あ…ありのまま、今、起こった事を話すぜ! 「私は、奴に近付こうと奴の近辺を調べていたと思ったら、いつの間にか遠ざかっていた」。な…何を言っているのかわからねーと思うが、私も、何をされたのか、わからなかった…。頭がどうにかなりそうだった…催眠術とか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ、断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を、味わったぜ…』って感じ」

「まるでわからないですが、まあ、そうですか。えーっと、何でしたっけ? すみません電柱のような男の台詞のせいで質問を忘れてしまったのでもう一度お願いします」

「何でぃ何でぃ、伝わらないと思ったのにさァ。つまんねーの。名前、性別、年齢、身長、誕生日、好きなもの、嫌いなものの七つだよ。ハリーアップ!」

 成る程、成る程。

 何というか、こう、自分に対して行われる質問ってものは気持ちが悪いな。気持ちが悪くて気味が悪いな。新学年時に行われていた自己紹介に似た不愉快な感覚だ。

「えーっと、霧ヶ音騎式。男。十七歳。百六十五センチ。三月三日。小説とゲームが好きで、ゴシップが嫌いですかね」

「ふんふん。まあ、調べられた範囲内での情報誤差はないか……うんうん。私の調べ方が悪かったわけじゃあないみたいだね。ふっふっふー」

「そうですか。それは、まあ、良かったですね。そら、サクサク行きましょう」

「うーん……じゃあ次はさ、生まれた場所とかから訊こうかな。言っておくが流石に事細かには訊かないよ。大体どのように生きてきたのかだけをね。河原を見る時に河原の石を個体個体で見る奴なんていないだろう? 川、砂利、草、空、孤島、向こう岸。それと同じさ」

「成る程、それは助かりますね。そして命拾いしましたね。……生まれた場所、ですか。まあ、この街ですよ。生まれ育った街ってものでしてね、特段思い入れとかがある人生ではないですが、帰る場所ではあるんですよね」

「そうなのかい。てっきり別のトコから来たのだとばかり。そうだねぇ……じゃあ、次は幼少の頃の思い出とかはどうかな?」

「幼少期の思い出ですか……確か、『はらぺこあおむし』の模写が趣味でしたね。当時は『はらぺこあおむし』のページに穴を開けたり、ページを短くするというあの技法が画期的に思えたのか、『はらぺこあおむし』と全く同じものを作り出そうと必死になっていたんですよ」

「微笑ましいものだね。で、その『はらぺこあおむし』の同人誌は出来たのかい?」

 同人誌て……間違ってはいないのか?

 細かく切ったパンケーキを咀嚼して、飲み込む。

「ええ、まあ。今でもボクのことを忘れていないのであれば、母が持ち歩いている筈ですよ。まあ、母のことなのでとうの昔に無くしてたり捨てたり火種にしたりしていそうなものですがね……はは」

「……そうかい。突っ込まないよ? 突っ込まないでおくよ? んーじゃあ、次は小学校低学年から高学年にかけて何をしていたのかを訊いてみようかな」

「そんなワクワクした顔で見られても、何も面白いことはないですよ? 先も発したように、ボクはごく平均的な平々凡々な一般市民なんですからね? 変に面白トークを求められても重荷で胃が痛くなるだけですよ。結石ができたらどうするんですか」

「いいんだよぅ。いいのさぁ。人の弱点ってモノは、その人の人生に依存するモノなんだからねぇ。人の弱みを握るのって、楽しくない?」

「そうですかい。そうですね。えーっと、小学生低学年ですか……基本的には友人と共に遊んでいた記憶しかありませんね。鬼ごっことか、ドロケイとか、後はまあ崩し将棋とか」

「んー、まあ平凡だね。クダラネ」

「いやぁ、人の生涯なんてモノは基本的にくだらないものでしょう。まあ、どうでもいいか。んー……小学生高学年では、ロクに人とも関わらないでのんべりだらりと猫みたいに生きていましたね。勉強も着いていけなかったので、本当にロクな生き様じゃあなかったですねぇ」

「うんうん。そうなんだぁ。で、中学年の時は?」

「黙秘権的なニュアンスのあれこれを無理矢理に行使して口を閉ざします」

 ブンブンと首を左右に振る。

「話して」

 ブンブンと首を左右に振る。

「プリーズトークミー」

 返事がない。ただの霧ヶ音のようだ。

「トークトゥーミー! 話さないと言うのならば、秘技である精神そのものに質問して返答を求めてまうぞ! その時変な思考とかも同時に流れ込んでくるけどええんか? 何も隠すことのできない生まれたままの素直な精神さらけ出されたくないのなら今すぐ喋らんか!」

 精神に直接だと⁉︎

 それはまずい。具体的に何がまずいのかはここでは敢えて伏せておくけれど、これは非常にまずいぞぅ。健全な男の子の中なんて、乙女が覗くものじゃありません。

「い……今から小学生中学生……その時のことを話せば……ほ……本当に……ボクの精神を『読む』こと……は……やらないでくれるのか?」

「ん? あーうんうん。あー、あー、あー、ンッンン。『ああ〜約束するよ~~~~~~~~~っ。君の『覚悟』と引き換えのギブ アンド テイクだ。早く喋れよ』……喋ろ?」

「わかってるんでしょう? この後のこと」

「ああ、君のもうひとつの意思。しかと受け取ったとも」

 刹那、ボクと彼女を包み込む空気ーーというよりは小宇宙そのものが静寂に沈む。この小さな席を取り囲む空気そのものは変わることはないけれど、しかし、この空間はボクの頑固さによって置換されてしまったのである。

 覚悟の準備できている。

 引き返す道はなく、進む道は茨。茨の道だとしても、そこに道がある。背後は進むもことの許さぬブラックユーモアであり、眼前に広がる景色は歪で厳しい茨の道。しかし、茨の道とて道である。道である限りは道であるのだから、そこは進むことのできるというルールが刻み込まれているのだ。ならば、進もう。もう、そうするしかないのだから。

 由比ヶ浜優希。集中するためかそっと瞳を瞑って、それでいながらボクを見る彼女は、今、ボクの深層心理とでも呼ぶ魂の声を聞き分けているようである。のだが、しかし、数十秒とせずにその顔は見る見る内に青ざめていった。血の気が引いていき、病的なまでに白い肌の志雄生ちゃんを思わせるほどに白みを帯びていく。

「……成る程ね」

 一言。

 ただの一般にも満たない静寂を破り、彼女はポツリと呟いた。

「成る程、成る程ね。ああ、最悪の気分だよ。本当に最悪の気分だ。朝、着替え終わった後に朝日に当たって最高にスッキリした後に朝食を食べていたらその朝食のパンにカビが生えていて、舌がピリついた時くらいに最悪の気分だ。気分が悪い。いや、キミが悪いよ、全くさぁ」

「聞こえましたか」

「聞こえたさ。……小学三年生後半から五年生後半に掛けての約二年間、父親と共に紛争地帯に赴く。そこで出会い、友人となった現地の子供のシを目の前で観測する。

「その後、その光景を見たショックから心を病んだ君は、君の父親である霧ヶ音遊佐の信頼出来る知人である日向神楽坂に連れられて日本へと帰国することとなり、一年の休養を経て中学一年から社会に復帰する。

「中学一年生の十二月、君の数少ない友人であり、何より幼馴染であった永倉鴎がクラス内でイジメられていることを知り、その現場を押さえ、その場にいた女子中学生二人を三階の窓から抱えて、落下させる。

「そのことにより一時期警察が関与するほどの騒ぎになるも、日向神楽坂の助力により、相手の親は自らの娘達の行為もあり、被害届を出さなかったため静かに幕を閉じる。

「しかしそんなことをする異常者だと学校内で村八分状態に陥り、更には中学二年生の時に永倉一家が冷桜市外へと引っ越すこととなり完全な孤独を味わう。

「それでも親身になってくれる日向神楽坂の期待に応えるように中学校へと通い続け、何の気なしに日向神楽坂の勤務先である『私立十字ヶ丘高校』へと進学。

「そこで二人……いや、一人の友人に恵まれ、更に永倉鴎が実家から霧ヶ音邸へとやって来たことで今現在の日常の基盤を手に入れる。

「高校一年生時に何かしらの事件に巻き込まれるも、終わってみると記憶が曖昧で不鮮明で不確かになったため、この事件が何であったのか今ではわからないけれど、しかし何かに巻き込まれたことで記憶能力が悪くなる。と、同時に……いや、これは流石に語らないべきだね。そのくらいの分別は私とて可能さ。

「そして、高校二年時ーー意味のわからない状況で不確かな仲間達と《六感課外活動部》という看板を背負わされる」

 語り終わると、彼女は右手で口元を押さえたまま微動だにしなくなった。

 ようやく会話が終了したと思ったボクは、

「まあ、別に特段可笑しな人生でもなく、劇的な人生でもなく、そして平凡な人生でもないでしょう? ちょっとヘンテコなアリスな生き方をしてきたってだけですよ」

 何て軽口を叩いて、パンケーキの捕食作業に戻った。フワフワの生地に甘い蜂蜜、甘党のボクにとってはご馳走もご馳走だ。まるでカブトムシの餌だ。

「………………」彼女は口元に当てていた右手を頭へ移動させ、卓上に寝そべる体勢をとり怨みがましくボクを睨む。「ちょっとヘンテコだって? これでかい? ………………君は、何なんだい」

 ボクはその言葉に少しばかりの可笑しさを覚え、しかして笑うことはなかった。

 笑うことなどできる筈が無かった。

「質問は、以上ですか?」

 ボクは彼女に質問する。

 彼女はボクの質問に否定を示し、頭に乗せた右手の人差し指を天に向けた。イチの印だ。

「ラストにひとつだけ」

「…………どうぞ」

「君は、《六感》とは何だと考える?」

 彼女はボクを怪しむように細めた眼で捉え、ボクもまた彼女に冷ややかな軽蔑の瞳を返した。

 《六感》とは何だと考える、か。

 《六感》。それは言うまでもなくボクの日常の破壊者であり、何よりも異常を肯定するような存在の矛盾。何かしらの意味があるようでもあり、しかし、何の意味も持ってはいないような、そんな、不確定で不規則なリズムを持つ気色の悪い何か。理解不能であるが故の恐怖ではなく、本能的に理解してしまう根底からくる恐怖を与えてくる《能力》。

「こんなところですかね?」

「つまり、一言で言うと?」

「終末装置」

「同じくか」

 どうやら君は、私の想像を超えるレベルで人間であったらしい。

 最後に彼女はそう言って席を立ち、ボクにそのカフェでの支払いを押し付けておきながらどこか他の場所へと移動することを要求してきた。その場所がどこなのかを質問しても返事は返ってくることなどあるはずもなく、しかし、その顔にはトーストにピーナッツバターを塗る時くらい分厚く、歪みない笑顔が張り付いていた。

 だからボクはひとつ大きな深呼吸をした後に、彼女の隣を彼氏面でもして歩んで見せたのだ。

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